東洋一郎

東洋一郎

 人 物

 ・本 名 吉川 市太郎
 ・生没年 1897年5月5日~1943年以降
 ・出身地 大阪?

 来 歴

 東洋一郎は戦前活躍した曲芸師。当人は漫才師ではないものの、妻が柳家雪江であった事や吉本興業に所属をして、曲芸を見せていた関係から採録することにした。曲芸や奇術を得意とし、1940年代まで第一線で活躍を続けていたという。

 経歴は不明。ただし、幼いころから芸能界に出入りしていたのは事実らしい。

 早くにデビューをして、海外巡業にも出たことがあるという。その頃の記録があまり残っていないので判然としない点も多いが、『ヨシモト』(1936年2月号)の「洋行座談会」の中で以下のような事を語っている。

 記 者 一郎さんはオーストラリヤのどの辺を巡ったんですか、どうしてあの方へ行ったんです?
 一 郎 僕等は一行廿三人でしてな、郵船の熊野丸で行きました。僕はまだその時は頑ぜない小供でな、何んしろオーストラリヤに行く迄の船旅が、ザツト一ヶ月もかかつたんですから、小供心に、こら船つきの余興芸人になつたんやと思つて喜んでましたんや。
 記 者 あんたも小供の時分は仲々しほらしかつたんですね。
 一 郎 なんやそう云はれると今頑強になつたやうですな。

 マニラ経由でオーストラリアに乗り込み、一年近く巡業を続けていたという。当人曰く、太夫元が「和服で押し通させてこいつで人気を呼ぼう」としたそうで、この作戦が見事に当たった。どこへ行ってもチヤホヤされ、随分といい思いをしたという。

 また、破産に瀕しているおもちゃ会社に頼まれて、和服姿でおもちゃを売り歩いたところ、これが大きな反響を呼び、おもちゃ会社は一躍赤字を立て直し、見事に飛躍を遂げた――という伝説も同座談の中で語っている。

 帰国後は、巡業や何やらして暮らしていたようであるが、大正初頭に神戸へやってきて、同地の千代廼座に入座。「危険術・東洋一郎」の看板で出演するようになる。『上方落語史料集成』によると――

大正8年1月10日 神戸又新日報
◇千代之座 十一日より左の顔ぶれなり 圓天坊、春輔、圓三郎、扇蔵、危険術東洋一郎、大正鉄身斎、女道楽登美嬢、東家小満之助、三木助、常盤津政太夫、岸澤式佐。

 さらに、落語の三友派に近づくようになったらしく―― 

大正8年1月31日 大阪朝日新聞
◇浪花三友派 一日より各組合席にて従前の一座に東京より長唄弦曲、ヴアイオリン合奏の杵屋勘三郎、同勘右衛門、尺八小金井庫の助、杵屋花弥、音曲春の家駒の助、杵屋花弥、音曲春の家駒の助、橘一円、桂太郎防、琵琶高峰筑統、奇術大正鉄身斎、東洋一郎。

 その後は本格的に落語界に出入りをするようになったらしく、1920年春には、三遊亭遊三の一座に入って、各地を巡演している。

 ◇川丈座(博多) 東京落語の花形三遊亭遊三十年振りの九州巡業にて今十五日より七日間開演。今初日の番組左の如し。
曲芸(一郎)掛合噺(鶴蔵、一圓)浪花節(玉子)支那少女曲芸(林金花)新内浮世節(若呂光、わき栄)宮古川並に扇舞(遊三)

 1920年7月には、初上京を果たしたらしく、東京の寄席に出演。『都新聞』(7月1日号)に、

◆特別興行浅草萬盛館 都枝、扇三、今太郎、歌輔、妻太郎、友楽、龍若、歌奴、鯉之助、圓洲、燕柳、すゞめ、さん冶、寿々馬、圓遊 身振狂言市川左久江娘一座、今様仕舞中村霞風社中、江戸生粋岩てこ大一座 談洲楼燕枝 八木節堀込源太、松旭斎天菊嬢
◇大阪初上り東洋一郎、清元ゆき栄 大阪上り橘ノ圓 新加入歌女吉 張玉福 夏雲升

 帰阪後は三友派の一員になったらしく、「曲技・東洋一郎」の名前で寄席の交番に出ている様子が確認できる。

 1921年に吉本へ入社したらしく、4月の案内に――

◇吉本花月派 一日より各席へ東京落語談州楼燕枝、新橋幇間桜川長寿、東京落語談州楼小燕枝、滑稽更芸東洋一郎、松旭斎旭勝が出演。

 その後も大阪を中心に活躍。関東大震災で江戸の落語家が流れてきた際には、そちらとも交流したらしく、1924年10月には二代目桂三木助と名古屋を巡業し、翌11月には三代目三遊亭円馬と名古屋に出演している様子が確認できる。

 大正期に女道楽の桂春江と結婚し、夫婦になった。この春江は後に柳家雪江と改名し、吉本漫才の大幹部となる。雪江とは歳の差結婚だったというので、東洋一郎は相当な年配だった可能性は高い。

 東洋一郎と柳家雪江が夫婦だった――という話は、吉田留三郎『まんざい太平記』の中に「雪江は曲芸の東洋一郎の妻であった。」とある。

 昭和以降も、吉本の幹部として引き続き寄席や劇場の色物として重宝されるようになった。寄席では「一つ鞠」「五階茶碗」といった太神楽系の曲芸を無言で演じていたという。ある意味では東富士夫系の人物か。

 この頃、ビリヤード屋を経営するようになったらしく、ビリヤード屋の店主の傍ら、寄席に出勤していたらしい。『都新聞』(1935年7月30日号)に、

 雪江には有名な曲芸師の亭主があつて、さうして撞球場も経営してゐる、すると彼女はほんの道楽でこの商売をやつてゐるやうなもので…… 

 当時の芸風は『ヨシモト』(1936年2月号)掲載の「舞台スケッチ」に詳しい。

 舞台に出てから、引込むまでの一語も言葉を使はないで、観客を納得させるのは東洋一郎クンの曲芸です。
 曲芸も、所謂時代の変遷に伴って、今は懐かしい思出の一つである神楽の曲芸師の舞台姿を見る事が、極めて少くなったデス。
 我が一郎クンも洋服姿で舞台に出てゐますが、たて物の道具に、白と紫の房がついてゐるのが、せめても在りし日の曲芸風景を偲ばせてくれるデス。
 一本撥は土瓶の綾取りと、口に咬へた撥の上で、土瓶を縦横無尽に扱ひます熟練してゐるとは言へ、仲々演り難いのでせう。ヂット目を据えて演じてゐる真剣な一郎クンの顔を御注意下さい。
 撥を一本立てた上で移し鞠、電球のあやつり等々、賑やかな下座の和洋合奏の御囃子に合はせて、修練された曲技のかず/\をふんだんに御覧に入れて御機嫌を取り結び、拍手喝采におくられて楽屋に這入るデス。

 1940年代に入っても活躍していたが、厳しくなる統制や自身の老いなど厳しい事が重なった事もあり、舞台数も減った。

 最後の大阪における消息は、1941年1月中席の南地花月。『上方落語史料集成』によると――

△南地花月 桂小雀、三亀三・三亀春、五九童・蝶子、桂円枝、一郎・勝久、福治・五十鈴、桂三木助、寿郎・かほる、桂春団治、雁玉・十郎、石田一松、アチヤコ・今男、巴うの子、雪江・五郎、神田伯龍、柳家三亀松、花月亭九里丸、エンタツ・エノスケ。

 その後はどういう訳か、東京へ進出。1943年の「講談落語協会名簿」を見ると、「1897年5月5日」という経歴が確認できる。晩年は雪江と離れ、雪美・小雪という娘弟子と行動を共にしていたという。

 牧村史陽メモによると、1957年には既に物故者扱いとなっている。

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