桜山梅夫・桜津多子

桜山梅夫・桜津多子

桜山梅夫・津多子(左)

・目次

 人 物

 桜山さくらやま 梅夫うめお
 ・本 名 良 梅太郎
 ・生没年 1910年4月20日~1980年10月
 ・出身地 大阪

 さくら 津多子つたこ

 ・本 名 奥本 つた子
 ・生没年 1909年7月20日~1990年代?
 ・出身地 大阪

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才師。両人ともにキャリアは古く、縁戚関係にあったが、夫婦ではないという特殊なコンビであった。梅夫は漫才界きっての三味線の名手であり、津多子は貫禄のある歌声と特徴的な「細目」で人気があった。

梅夫の経歴

 桜山梅夫は、桜山小夜子を姉に持ち、その小夜子が桜山源丸と結婚したことから、幼い頃より芸能界と親しく、三味線や音曲を教わったという。桜山源丸の実妹が桜津多子なので、二人の関係は、義理の兄弟という形になろうか。桜山源若・小奴の小奴も兄弟であるという。

 1919年、義兄である桜山源丸に弟子入りし、「桜山梅夫」と名付けられる。9歳で初舞台というのだからすごい話である。

 義兄の一座に同行して、全国を巡業。音頭取りとして修業する傍ら、姉夫妻の漫才や音曲の後見をやるなどして、腕を磨いたようである。

 1926年、名古屋宝座で漫才師に転向――と『上方演芸人名鑑』にあるが、詳細は不明。それ以前から漫才のような事をやっていたのは事実であろう。

 漫才転向直後、タイヘイレコードから、萬歳を吹き込んでいる。姉夫妻の後見という形であるが、若き日の活躍を偲べる資料であろう。

「安来節(木遣入)」(4681) 桜山源丸 桜山小夜子 三味線 桜山梅夫
「萬歳関の五本松」(4682)  桜山源丸 桜山小夜子 三味線 桜山梅夫

 以来、姉夫妻のコンビに加わる形となって、「桜山源丸ショー」を結成。ここで三味線の腕を磨き、漫才のテクニックを得た。

 吉本などには所属しなかったためか、良くも悪くも巡業中心の生活を送っていたと見えて、全国はおろか、時には外地にも出かけたという。

 1937年はなぜか朝鮮におり、『京城日報』(1937年12月3日号)に、 

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 とある。この頃から、「三人漫才」で売っていたという記録が貴重。

 戦時中は籠寅興行と関係を持ち、同社に所属。同社の所有する劇場などに出演した。『近代歌舞伎年表』によると、1939年同社の立ち上げ興行に参加。

四月十七日〜(二十六)日 正午 五時半二回開演 南座 

籠寅演芸部時局まんざい大会

【出 演】関東側 轟スゝム・サノアケミ 永田繁子・女一休 吉原家〆吉・〆坊 唄の家成太郎・なり駒 端唄とん子・美代司 ピッコロシヨウ 永田一休・和尚 菊川時之助・ 大津検花奴 春風小柳・桂木東声 カクテルシヨウ(カクテル ジン ウイスキー ベルモット マンハッタ ウオツカ キユウラソ)

関西側 花柳糸吉・扇太郎 河内屋鶴枝・目玉 砂川政子・団春 中村種二・隅田川ちどり 柳屋喜久三・旭君勇 アクロバチックバー(シヅオ ヨシオ マサオ) 花廼家照駒・成駒 桜山梅夫・小夜子・源丸 中村春代・ 砂川捨丸

 とある。

 戦時中から戦後にかけて、ヒロポン中毒になったそうで、晩年の顔の黒さは、この時の後遺症のような形であったという。足立克己は『いいたい放題上方漫才史』の中で、

 この梅夫という人はヤケに色が黒かった。ある時梅夫は「色が黒いのは、以前ちょっとイタズラをしましてな」と恥ずかしそうにいった。イタズラとはヒロポンのことでその後の後遺症で色が黒くなったのだとのこと。

 と、記している。

 戦後もしばらくは、源丸ショーで活躍していたが、1950年代後半に津多子とコンビを結成する。1958年時点でコンビを組んでいるので、1956、7年頃の結成か。

津多子の経歴

 桜津多子は、江州音頭の名人、桜川仙丸の末の娘で、桜山源丸の実妹に当たる。源丸と梅夫の姉が夫婦であるため、相方の梅夫とは縁戚関係に当たる。

 梅夫は源丸の義弟、津多子は小夜子の義妹という関係だが、どういったらいいのだろうか。血のつながりこそないが、非常に近しい関係であったのは言うまでもない。

 親兄弟が江州音頭と漫才の人気者だった事もあって、幼い頃から芸に囲まれて育ち、父や兄についていたようであるが、デビューは遅く、1931年、名古屋宝座が初舞台。デビュー当時は、桜つた女と名乗っていた――と『笑根系図』にある。

 その後、大倉須賀芳(玉子家円辰などと並ぶ漫才師の先駆けの一人)の門人であった都義雄(本名・奥本義雄 1909年~)とコンビを結成。夫婦となり、津多子は「奥本」となった。

 長らく夫とコンビを組み、地道な活動を続けていたようである。夫の義雄は、後年、都陽志夫と改名している。

 戦後、1955年頃まで夫とコンビを組んでいたが、間もなく解消。理由は不明であるが、1963年の『笑根系図』発行時点では義雄健在の旨があるので、死別というわけではなさそう。

コンビ結成

 様々な理由でコンビ別れをした二人が、親戚のよしみでコンビを結成した模様。夫婦ではない、というのが評判であったが、両人とも兄姉が夫妻である以上、結婚などできた話ではないだろう。

 早くから松竹演芸部に所属し、角座や浪花座に出演。1958年5月のこけら落としに「梅夫・津多子」として出ているので、それ以前からコンビを組んでいたことは間違いない。

 しゃべくり全盛の中で、民謡と三味線曲弾きを主体とした「萬歳」の名残を残す音曲漫才コンビとして活躍。モタレやひざ代わりとして重宝され、毎月のように角座に出演していた。

 ぽっちゃりとしていて色白で白目の津多子と、色黒ながらも二枚目の風を残す梅夫とのコントラストは見事なもので、出てくるだけでもバランスの取れた存在であった。

 梅夫が三味線、津多子が歌を担当した。梅夫はコンビの為にテーマ曲を作曲した。曰く三曲漫才のメロディを応用したものであったという。以下はその歌詞。

 〽サアサア まいりましょ 唄の旅 朗らか 陽気で 賑やかに 借金忘れて 苦労忘れて 諸国民謡 唄の旅

 津多子は、少し甲高い不思議な声をしていたが、非常に通る優れた喉の持ち主で、角座や浪花座のマンモス劇場の客を相手に、マイクや音響を殆ど頼ることなく、通すことのできた貴重な人材であった。

 根が江州音頭で、相当の段物を知っていたというが、どちらかというと諸国民謡――安来節、稗つき節、山中節といった素朴な民謡に独特の味を持っていたという。また、春雨、縁かいな、都々逸といった古い小唄端唄も諳んじており、お客や季節のペースに合わせて、芸を出し入れする引き出しを持っていたのが特徴であったといえよう。

 ただ、楽器を持たなかったためか、梅夫が曲弾きを始めると、大体後ろでぶらぶらし始めるのがクセで、後にこれが売り物となった。梅夫の曲弾きに変な合いの手を入れたり、「何もやる事あらへん」「そんな高う所で弾きはって」などと愚痴るのがまた愛嬌となった。

 梅夫はプロ顔負けの三味線の腕を持っていただけあってか、民謡だけでなく、邦楽、洋楽とツボを外すことなく、なんでも完璧に弾きこなすのが売りで、津多子の唄声やテンポ、観客のリクエストにこたえるだけのゆとりを持っていた。

 単に伴奏だけでなく、三味線曲きっての難曲である「たぬき」「櫓太鼓」を曲弾きするネタや、三味線を寝かせて琴の音色を出すという、独特の芸をもっており、その華やかさ、渋さもまた売りであった。特に「櫓太鼓」は大当たりのネタで、トップホットシアターや角座のガラの悪い客でも、魅了させてしまう程の巧みさと上手さと味を持ち合わせていた。

 その三味線の腕前は、芸人仲間でも非常に買われていたそうで、桂米朝と上岡龍太郎は『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中で、

 米朝 桜山梅夫・津多子。梅夫さんは三味線の名人やった。
 上岡 「津多ちゃんの、ホーソーメ」って、三味線を弾く。
 米朝 津多子はんという人は声は変な声やったけど目茶苦茶によく通る声やねん。この人は安来節の間にいろんなものを入れたのがよかったな。三味線の曲弾きでも弾かして、ちょいと合いの手で民謡の旅やとかいうてね。初めに一つ、二つ何かを入れて、その間に欧州の、〽松島ァ~ァの……、とかあんなンが入ったり、いろんな曲を弾かして入れていって、四つあって、最後に、〽五つ、出雲ォ~のォ~、と安来節で終るンや。あれはなかなか気のきいたもンやった。

 といい、足立克己は『いいたい放題上方漫才史』の中で、「三味線の腕は私の知ってる限りでも三本の指に入る程達者だった。」と激賞している。

 音曲主体のせいか、お笑い要素は戯れ歌や都々逸など、音モノが多かったが、数少ないギャグとして、梅夫の津多子いじりがあった。

 主に彼女の細目をいじり倒すネタで、「眼が出ない」「焦点が合わない」などと、散々にいびり倒した。そのギャグの見事さは、前田勇にも評価されており、氏の著作『大阪弁』の中に、

それを梅夫が事々につけていい出すので、津多子がいやがる。最後に「それではミス・心斎橋で行きましょう」と梅夫。「ミス・心斎橋て何やの?」と津多子。「目抜き通り」で、客席もドッと笑う。

 なる記載がある。「ミス心斎橋=目抜き通り」とはうまい事言うたものである。

 また、梅夫は三味線の先生としても活躍しており、宗右衛門町の芸者にも手ほどきをしていた、と足立克己『いいたい放題上方漫才史』の中にある。足立克己はそのお陰で梅夫は若く見えた、と茶化しているが、まあこれは楽屋雀のさえずりであろう。

 爆発的な人気こそなかったものの、安定した技術とネタから、多くの放送番組に出演した様子が確認できる。

 両人ともに「萬歳」時代からの生き残りとあって、古いネタを多く記憶しており、「三曲萬歳」や「安来節」の復活に際しては三味線と鳴物を担当。これらの映像の一部は記録映像として、ワッハ上方等で見ることができる。

 1971年9月13日、読売テレビで放映された『上方芸能シリーズ こんな漫才もあった』に出演。三曲萬歳の三味線と鳴物を担当した。以下は番組の出演者。

 三曲萬歳(アイナラエ)
( 鼓 )浮世亭夢丸 河内文春
(三味線)桜山梅夫 松鶴家千代八 尾乃道子
(胡 弓)浮世亭出羽助
(太 鼓)桜川末子 桜津多子

 漫才 桜川末子・松鶴家千代八
 浪花節『雪月花三人娘』廣澤瓢右衛門 

 1973年、「上方お笑い大賞」の功労賞が贈られた。この受賞式の様子が『ワッハ上方』のライブラリに残っているが、この中で櫓太鼓のフィルムが紹介されている。椅子の上に足をかけ、曲芸のように弾いて見せるそれが一部流れているが、実に凄まじい。このフィルムが現存していればそれこそ国宝級であろう。

 1974年9月7日放映の「和朗亭」に出演。この映像は保存され、今日でもDVDで見ることができる。テレビサイズとあって、梅夫が軽く三味線を弾き、津多子が安来節を唄う、という非常に味気ないものであるが、二人の腕の確かさを確認できるのは事実。以下はその時のゲストである。

桜川末子・松鶴家千代八『江州音頭』
桜山梅夫・津多子・吉田茂・松本さん吉『安来節』
ゲスト 森やすし

 その後も、角座やトップホットシアター出演の傍らで、三曲萬歳の復活公演や、ラジオなどで矍鑠としていたが、桜津多子が体調を崩し、1977年3月限りで引退。

 津多子は完全に引退し、梅夫も一線こそ退いたものの、「関西芸能親和協会」に籍を置き、三味線の指南役として活動していた。

 しかし、それから間もなく体調を崩したらしく、梅夫は1980年に死去。1981年の『演芸家名簿』から名前が消えているので、亡くなったのは確かである。

『上方芸能82号』の「角座二十五年史」の中で、「桜山梅夫(55年10月没)」という記載を発見できる。

 一方、津多子は、その後も健在で平成に改元する頃まで静かに余生を送ったと聞く。皮肉にも病気引退をした方が長生きするという結果になってしまった。

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