笹山タンバ(二代目内海突破)

笹山タンバ
(二代目内海突破)

二代目 内海突破

タンバ・サンバ時代

 人 物

 笹山ささやま タンバ

 ・本 名 木村 三郎
 ・生没年 1917年3月20日~1980年以降
 ・出身地 愛媛県

 来 歴

 戦後、東京と大阪で活躍した漫才師。兄に脚本家の御荘金吾、東京漫才の大スターでコメディアンの初代内海突破がいる。

 父は木村助六という建設業者。建設という立場から、幼い頃は愛媛県内を転々とした模様。三兄弟そろって微妙に出身地が異なるのは、父親の転勤のせいでもある。出生年月は『文化人名録 1963』から割り出した。

 小学校卒業後の動向はいまいちわからない。兄が芸人になっていたことは知っていた模様であるが、兄貴二人が家業を放り出して、芸能界に入ってしまったために、親からきつく禁じられていた可能性が高そうなものである――が情報がない。きつい。

 青年時代に日中戦争が勃発し、やがて太平洋戦争へと展開していく。木村青年も兵隊にとられ、長らく苦労をした模様である。

 復員後、東京で大スターとなっていた兄の内海突破の門人となり、「宇和島三郎」と命名される。芸名は出身地の宇和島と、本名の三郎からか。

 『上方演芸人名鑑』によると、1950年2月、浅草松竹演芸場で「宇和島三郎・四郎」としてデビュー。この頃の資料は少ないため、判らないことが多い。

 1954年、東洋音大出身の宮津タンゴとコンビを結成――というが、当時の資料を見ると、どうも「アラブ・サラブ」というコンビだったのではないか、と考えている。『もうひとつの上方演芸』には、1954年、大阪南街ミュージックホールが初舞台とある。

 1955年、内海突破の関係から漫才研究会の創立に関与。

 1955年2月14日、午前11時に開催された会員総会で、会員として可決される。以下は『南千住の風俗 文献資料編』に掲載された会員一覧。

 会  長 リーガル千太・万吉
 会長補佐 林家染團治・美貴子
 常  任 都上英二・東喜美江 三国道雄・宮島一歩 宮田洋容・不二幸江
 会  計 三国道雄・宮島一歩
 会計監査 リーガル千太(兼任)
 幹  事 大道寺春之助 隆の家栄龍・万龍 大空ヒット・三空ますみ 青柳満哉・柳七穂 桂三五郎・河内家芳江 浅田家章吾・雪枝 櫻川ぴん助・美代鶴(兼任連絡)椿晃一・橘眞理子 
 事  務 大江茂
 新規加入(追記分) 
 森信子・秀子 轟ススム・旗上ヒロシ 白浜浩一・美島詩子 大津小万・小百合 高原妙子・松原桂右 富岡豊・花村いせ路 英主水・川端米子 マキノ洋一・初江 美奈登小雪・つや子 大和家八千代・酒井義二郎 玉松ワカミ・ミス幸枝 中山アラブ・内海サラブ 荒川芳勝・八千代 山みどり・川ちどり

 この時は、まだ内海サラブ名義であった模様。それから間もなくして「巽タンバ」「笹山タンバ」と改名。この人は良く名前を変えるため、追いきれない所がある。

 『芸能画報』(1956年4月号)を見ると、笹山タンバ・タンゴになっている。同年、第2回漫才コンクールに出場したらしいが、落選している。

 それから間もなくコンビを解消。解消後は大阪でピン芸人となって、お色気漫談をやっていたが、再びタンゴとコンビを結成。

 1958年4月14日、NHK『お好み風流亭』に、かしまし娘とともに出演。

 1961年8月20日、NHKから放映された『日本の素顔 「浪花の芸人」』に、コンビで出演している。スピーディーなしゃべくり漫才で、上方漫才臭くない、スマートな芸風を思わせる。ちなみにボケがタンバ、ツッコミがタンゴ。

 然し、これもうまくいかず、解散。タンゴは園ひとみとコンビを結成。タンバは漫談を経て、巽タンバの名前で、南喜代子とコンビを組む。

 1964年には、秋月ルンバ(本名・木村美千代。実の娘である。)とコンビを組んで、親子漫才を結成。珍しいコンビとして人気を集めたが、1967年、ルンバの結婚に伴い解消。

 その後、再びタンゴとコンビを組んで、「タンバ・タンゴ」で出発。

 1969年2月19日、NHK『テレビ演芸館』に出演している様子が確認できるが、人気は長く続かず、1972年頃別れた。

 その後は坊主姿でお色気漫談などをやっていたというが、1977年、師匠であり、兄である内海突破を襲名。「二代目内海突破」と名乗る。

 但し、この襲名は随分いい加減なものだったらしく、非公認に近いものだったという。『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中で、

上岡 当時のプログラムを見るとこの前夜祭にも出ているンですがね、夢乃(宮津)タンゴ・笹山タンバ。ここもユニークなコンビでした。タンバさんが内海突破さんの弟さんで、のちにひとりになって頭を丸めて坊主になって木魚を叩きながら漫談をやったはりました。それで二代目の内海突破を継いだンですよね。
米朝 継いだってあんなもン誰も認めてない。
上岡  (笑)。
米朝 勝手に継いでな、それで祝金を集めて廻りよってん。私は二回も銭を取られかけた。「この間、渡したがな」「あッ、そうでしたかいなァ」(笑)。
上岡 ええかげんな(笑)。タンゴさんは東洋音楽学校かどっかの出身でしたよね。
米朝 きれいな声やったね。
上岡 ここの漫才はタンバさんがいうセリフを横でタンゴさんが腹話術みたいにね、しゃべっている。両方のセリフを覚えてンねやね。腹話術やない(笑)。タンゴさんはそのあと西川ひかるさんと漫才を組んで、今は園ひとみさんとですかねェ。

 とボロカス貶している。

 然も、タンバと突破の名前を二つ使いまわしていたらしく、1978年の大須演芸場の番組表に、

9月 1~10日

ワン・ツー・スリー(コント)/W・チャンス(漫才)/波たかお・たかし(笑&笑)/内海突破(漫談)/河内文春・尾乃道子(漫才)/桂文生(落語)/スットン・トリオ(コント)/歌謡コント「幸福の紋章」奥津由三

10月 1~10日

古都カラン・コロン(漫才)/ワン・ツー・スリー(コント)/伊東かおる(歌うものまね)/雷門助三(東京落語)/島浩洋(マジック)/波たかお・たかし(笑&笑)/笹山タンバ(お色気説法)/河内文春・尾乃道子(河内音頭)/チエミショー(音楽ショー、大阪より来演)/大須名物・歌とコントの40分「秋だ全員集合!!」全二景(波たかお・たかし、伊東かおる、伊勢げんき、斉藤まき子、木村やすひろ、橋本ふみ代)

 と随分いい加減なものである。

 私生活は芸人らしく、不思議な美学とエピソードを持った人物だったという。以下は足立克己『いいたい放題上方漫才史』に載ったエピソード。

「笹山タンバ・宮津タンゴという男同士のコンビがいた。タンバは内海突破の実弟(従って東京の 獅子てんや・瀬戸わんやの兄弟子)、タンゴ(後に夢乃タンゴと改名)は音楽学校出身で一時は天下をとるかの勢いの時もあった。
 このタンバという男も変り者だった。舞台着ではなく街を歩く時も真っ赤とかピンクの派手な 背広を着ていた。当時男でそんな色の服を着ている者は少なかった。しかも背広の背中に家紋をいれていた。紋付きの着物のように……。メガネをかけていたがレンズなしだった。舞台でもハンカチを出してメガネをふくがハンカチをメガネの輪に通してレンズがない事をばらすネタをやっていた。奇をてらった服を着る事について彼は「芸人は目立たないとアカン。道歩いててもあれ誰やとかあれタンバやというて貰わないとアカン。歩く宣伝塔やないと……。歩くのも無駄にすべきやない」とハッキリしていた。
 タンバがある夜、遊びまくってカネがなくなった。帰りのタクシー代がない。ふとみると 道頓堀の橋の上に乞食が座っていた。シャレ気のあるタンバはこの乞食にカネを借りる事にした。
「オレ知ってるやろ」とタンバが声をかけると乞食がテレビで見て知ってると答えた。
「チョットカネ借して。明日かえす」というと乞食が「カネかせていやしくも芸人が乞食風情にいいはんな。そんなにカネがほしいなら私の横の場所をかしたげるからアンタも座ってかせぎなはれ」とはねつけた。タンバは、よしやったる、と横へ座って「笹山タンバでございます、 お恵み下さい」とやり出した。通りがかりの客が座興かと思ってカネを入れたそうだ。チョットええ話でっしゃろ。この因縁でもないだろうが、その後タンゴとコンビ別れしてから、法界坊、つまり乞食坊主姿で一人高座をやっていた。

 1978年の日本演芸家名鑑まで、上方演芸協会所属として、その名前が確認できるが、1980年以降になるとピタリと消息不明となる。

 1978年の住所を見ると、守口市で「喫茶ジョニー」なる喫茶店をやっていたようで、そこのマスターとして収まった模様か。如何にせん、優秀な兄を持ちながら、遂に兄を超える事の出来なかった悲運の漫才師ともいえそうである。

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