青柳房夫・花柳かねこ

青柳房夫・花柳かねこ

晩年のかねこ

晩年の相方・浮世亭出羽助と

 人 物

 青柳あおやぎ 房夫ふさお
 ・本 名 田端 ?
 ・生没年 ??~1970年代
 ・出身地 ??

 花柳はなやぎ かねこ
 ・本 名 田端 はるを
 ・生没年 ??~1981年以降
 ・出身地 ??

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才師。女性のかつこ(かねこ、とも)の方は、高度経済成長期に大阪へ戻り、浮世亭出羽助とコンビを組んだ。

 元々は河内家房春の門下であったそうで、『話』(1940年新春号)の『漫才太平記』に「房春の弟子の房夫・兼子などがある。」と記されている。

 当初は「青柳房夫・兼子」という名前のコンビであったという。

 戦前は吉本に所属していた模様で、太平洋戦争に突入する頃、突如として売り出し、南地花月や北新地花月など、一流の漫才劇場に出演するようになる。以下は、『上方落語史料集成』や『近代歌舞伎年表』に出てくる、二人の名前。

 1939年の広告に――

 六月二十一日より
△南地花月 おもちや、芳男、房夫・兼子、春団治、柳枝・道風、馬風、三木助、右楽・左楽、ろ山、雪江・五郎、雁玉・十郎、三亀松、金語楼、二郎。

 七月十一日より
△南地花月 小福・八重吉、公園・男蝶、夢丸・こたつ、クレバ・清、房夫・兼子、花蝶・正二郎、三好・末子、柳枝・道風、九里丸、成三郎・玉枝、太郎・菊春、右楽・左楽、幸児・静児、雁玉・十郎、文雄・静代。

 八月二十一日より
△南地花月 おもちや、小円馬、房夫・兼子、志津子・寿郎、幸児・静児、柳枝・道風、芳男、玉枝・成三郎、文雄・静代、三木助、太郎・菊春、九里丸、春団治、市松・芳子、雁玉・十郎。 

 1940年、 

 二月十一日より
△花月劇場 雁玉・十郎、一蝶・美代子、歳男・繁子、幸若・勝美、房夫・繁子、正蔵・文路、老松・姫松

 六月十一日より
△南地花月 兼子・房夫、金原亭馬生、末子・三好、こたつ・夢丸、桂三木助、松平ラスカルス、林芳男、芳子・市松、ケイ一・ケイ二・一郎、天津羽衣嬢、静代・文雄、道風・柳枝、桂春団治、今男・アチャコ、花月亭九里丸、十郎・雁玉。

 七月二十一日より
△南地花月 義忠・武司、金原亭馬生、兼子・房夫、三亀林・三亀三、ケイ二・ケイ一・一郎、鶴江・房春、芳子・市松、林好男、玉枝・成三郎、左楽・右楽、桂春団治、花月亭九里丸、雁玉・十郎、桂三木助、道風・柳枝、五郎・雪江。

 1941年、

 二月二十一日より
△南地花月 桂小雀、金原亭馬生、幸児・静児、三遊亭小円馬、蜂郎・玉三郎、房夫・兼子、アダチ龍光、右楽・左楽、桂三木助、歳男・繁子、川柳・花蝶、花月亭九里丸、林家正蔵、柳枝・道風、桂春団治、雪江・五郎、雁玉・十郎、柳家三亀松。

 三月十一日より
△南地花月 桂小雀、房夫・兼子、橘家蔵之助、三好・末子、五九童・蝶子、アダチ龍光、正二郎・洋々、桂三木助、右楽・左楽、神田ろ山、文雄・静代、桂春団治、柳枝・道風、石田一松、雁玉・十郎。

 四月十一日より 
△南地花月 桂小雀、三遊亭小円馬、兼子・房夫、三亀春・三亀三、一陽斎正一、玉三郎・蜂郎、橘家蔵之助、静児・幸児、芳子・市松、桂春団治、道風・柳枝、春本助次郎、十郎・雁玉、花月亭九里丸、桂三木助、五郎・雪江、今男・アチヤコ。
 

 十月一日より 
△南地花月 桂小雀、房夫・兼子、蜂郎・玉三郎、クレバ・新治、夢丸・志津子、夢若・光晴、成三郎・玉枝、花月亭九里丸、雁玉・十郎、桂春団治、右楽・左楽、雪江・五郎、桂三木助、菊春・太郎、文雄・静代、春本助次郎、柳家三亀松。

 十月十一日より
 △花月劇場 静代・文雄、敏夫・蝶々、洋々・正二郎、五十鈴・福治、珠美・公園、兼子・房夫、芳子・喜昇、力三・小松月、小金・光三、静弥・吉雄、今次・今若、勝若・久月、欣歩・三歩

 1942年、

 一月二十一日より
△花月劇場 末子・三好、玉枝・成三郎、珠美・公園、兼子・房夫、勝若・久月

 二月十一日より
△南地花月 桂小雀、三遊亭小円馬、房夫・兼子、鈴若・小鈴、文昭・静香、アダチ龍光、三亀三・三亀春、市松・芳子、蝶々・敏夫、桂三木助、繁子・小福、正二郎・洋々、桂春団治、右楽・左楽、石田一松、雁玉・十郎、太郎・菊春。

 しかし、戦争の激化や劇場の焼失などにより、九州へ疎開。なぜ九州なのかはわからない。戦後も同地へとどまった。

 戦後は、長らく九州を巡業し、同地の劇場や寄席、余興などに出演した模様。

 そのくせ、秋田実率いる『劇団上方演芸』の客員として、青柳かねこと思しき人物が出ているのが厄介。名簿を探すよりほかはない。

 1963年の出演者名簿に、「青柳房夫・小松かね子(九州芸能睦会)福岡市……」として、記されているのが確認できる。

 それからしばらくの間、同地で引き続き活躍していた模様であるが、相方の房夫が病気で倒れたため、コンビ解消。かねこは大阪へ戻り、大阪市へ居を構えた。

 しばらくは夫の介護に尽くしていたようであるが、ちょうど同時期に相方を失い、相方を探していた浮世亭出羽助とコンビを結成。以降は、西成の松鶴家団之助の芸能事務所の世話となる。

 吉本には復帰せず、地方巡業や余興など、地道な活動へとシフトチェンジするようになった。

 1971年4月5日、NHK『新日本紀行 「浪華芸人横丁」』に出演。再出発を図るコンビの一組として取り上げられ、てんのじ村での生活の様子、旅立ち、舞台の様子と中々の尺を使われている。

 なお、同番組の中でナレーションが「九州で仕事をしていた青柳かねこさんも、相方さんが去年の暮れ、病気で倒れ、大阪に帰ってきていました」と、語られている処から、房夫が1970年12月に倒れたことがわかる。それから間もなく、房夫は没した模様か。

 コンビ再結成後、団之助興行の主力メンバーとして、余興や地方の舞台で活躍。往年の覇気こそなかったものの、出羽助の枯れたヴァイオリンに合わせて、三味線を弾く名相方として、出羽助を支えた。

 また、早くから関西芸能親和協会に所属していた。

 しかし、1970年代後半に入ると、出羽助は公害病から発する気管支喘息を患い、仕事へ支障が出るようになる。そんな中でも、かねこは献身的に出羽助の体調を案じ、面倒を見ていたという。

 1980年3月24日、出羽助が炬燵で倒れているところを発見。すぐに各所へ連絡したが、発見した時には既に事切れていたという。

 相方を喪ったかねこであったが、芸能界は引退せず、同じ関西芸能親和協会の会員であった守住田鶴子とコンビを結成した模様。1981年の名簿では、この二人の並びで掲載されている。

 ただ、長くは続かなかったと見えて、1982年以降、名簿から名前が消える。引退した模様か。

 

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