北晴夫・南容子・東ひさし

晴夫・南容子・東ひさし

東ひさし・北晴夫・南容子(左から)
※辻脇保夫氏撮影

正司歌江とコンビ

最晩年のひさし・みつ子コンビ

 人 物

 きた 晴夫はるお
 ・本 名 浜野 佐五郎
 ・生没年 1912年~1979年頃
 ・出身地 ??

 みなみ 容子ようこ
 ・本 名 浜野 サツキ
 ・生没年 ??~平成初頭
 ・出身地 ??

 あずま ひさし
 ・本 名 東 善照
 ・生没年 1930年~2000年以降
 ・出身地 大阪

 来 歴

 北晴夫・南容子・東ひさしは戦後活躍した漫才師。晴夫と容子は夫婦であり、晴夫は戦前からの古参漫才師。ひさしは元々のど自慢出身の歌手で歌謡漫才に転じたという異色の経歴の持ち主であった。晴夫の三味線、容子のマラカスと歌、ひさしのアコーデイオンの賑やかな音曲漫才を展開した。

 北晴夫は、喜多晴夫と書く事もある。元々は隅田川千鳥という漫才師の弟子。この隅田川千鳥は落語家の三遊亭円若の弟子で、ボヤキ漫才の都家文雄とは兄弟弟子にあたる。

 元々は「隅田川鶯月」という芸名であった――と笑根系図にある。生年もここから割り出した。

 戦前は師匠について神戸や地方巡業で活動していた――というが、確証がない。人気らしい人気はなかった模様か。

 戦後、「北晴夫」と改名。1950年代の一時期、かしまし娘の正司歌江とコンビを組んで居たことがある。

 上の写真は、1953年7月、雑誌『主婦之友』に掲載されたものである。紛れもなくこれは正司歌江である。そして、「新宿末廣亭に出る二人」という見出しがついている。

 そして、1953年の「上方演芸協会」の名簿にも「北晴夫・正司歌江」という形で登録されている。

 しかし、歌江にとってはこの北晴夫は馬の合わない相方だったらしく、よく書かれていない。

 歌江の自伝『女やもン!』の中に、1951年にコンビを組んだ「正男」という相方が出てくる。全文を引用すると長くなるのでやめるが、すさまじいヤクザな男で「虫が合わない」。

 自分を暴力で黙らせ、酒とヒロポンと博打に走り、出演料は独り占め。都上英二・東喜美江を頼って、東京へ出て一旗あげようとしても不義理ばかりでせっかくのチャンスを不意にしてしまった。

 失望して大阪を飛び出した歌江の逃亡先まで執拗に現れ、最終的には借金までして手切れ金を用意した――というヤバい男が出てくるのだが、まさかこの男が北晴夫……しかし、確証はない。

 ただ、この時代に正司歌江とコンビを組んでいたのは間違いなく北晴夫なので、どうもそうとしか読むことができない。出版当時、関係者がまだいたこともあってか「正男」という名前にしたのだろうか。

 それとも短期間ながらも「正男」という人物と組んだのだろうか。真相は闇の中であるが、少なくとも正司歌江の自伝の中に出てくる北晴夫と思しき人物は本当にヤバい男である。無論、正司歌江の被害者意識や辛い経験が憎悪を一層煽っているのかもしれないが――

 1955年頃、歌江とコンビを解消。その時、手切れ金を要求したそうで、歌江を激怒させている。なんとか金を工面し、手切れを渡すときに歌江の親は「コンビ解消し、一切関係ないものとする」と一筆を取らせた――という。

 その後、てんのじ村に移住し、妻の南容子とコンビを組み直した模様。正司歌江の一件からか、上方演芸協会から抜けている。

 南容子の前歴は不明。歌江によると「自分がコンビを組んだ時には、正男には妻も子もあった。自分が心臓病で倒れて晴夫に看病してもらっていたら、晴夫の妻が怒鳴り込んで来た」と自伝の中で手厳しく非難している。

 ただこれは歌江の主観であって、妻からすれば二日も帰ってこない夫が女の相方にうつつを抜かしていた、となれば怒りたくもなるのではないか。難しい問題である。

 そして、これが南容子かどうかも分からない。再婚相手という可能性もある。

 もっとも、晴夫と容子の間に子供がいたのは事実で、1980年時点では立派に成人し、独り立ちをしていた――という。可能性としてはある。

 大手芸能社には属せず、団之助興行社などの仕事を引き受け、地方を転々とする日々を送ったという。てんのじ村の住人、吉田茂本田恵一・貞子小松まこととは親しい間柄であったという。

 晴夫が三味線を弾き、容子が唄う歌謡ショー的な漫才が得意だったそうで、当時流行していたヘルスセンターやホテルの営業が中心であったらしい。

 後年、泉詩郎ショウにいた東ひさしをスカウトして、トリオ漫才を結成。三人で地方を仲良く回るようになった。アコーデイオンが入った事により、容子の歌に一層の厚みが出て、地方では人気があったという。

 東ひさしは唯一『上方演芸人名鑑』の中に記載がある。そのおかげで本名と経歴が判った。

東ひさし あずまひさし【音楽ショウ】
本名東善照。一九三〇(昭五〜) NHKのど自慢の出身で、西日本代表として活躍。なじめ歌手として昭三〇年東京日比谷公会堂が初舞台。その後、泉詩郎ショウで、アコーディオンと歌を担当。柔らかい物腰と力強い歌声は対照的だった。

 また、『大阪春秋 特集・新世界』(第88号 1997年9月19日号)掲載の、泉耿子『◎おおさかの女66 歌謡漫才 東みつ子さん』の中に、ひさしは元々テイチクレコードの歌手だった――という記載がある。曰く、

 難波利三さんの『てんのじ村』 の西美也子のモデルと聞いていた漫芸の東みつ子さんが、六月から元テイチクレコードの歌手だった東ひさしさんと歌謡漫才コンビを組まれた。今後の一層のご活躍を祝して「真の芸人、ここにあり」 というところを訪ねた。

 歌手から泉詩郎ショウに入り、そこから北晴夫・南容子に引き抜かれた――と考えるのが妥当だろうか。

 以来トリオで活動を続けた。団之助やてんのじ村の芸人たちの協力もあって、その日その日を楽しく暮らしていたようである。

 しかし、1960年代後半より、晴夫は心臓病に苦しむようになったそうで、騙し騙しに舞台に立っていたという。

 1979年に放映された本田恵一・貞子夫妻を中心にてんのじ村の芸人を描いたドキュメンタリー『旅烏浪花芸人譚』の中で、容子とひさしが出て来るのだが、その中で晴夫と思しき人物は遺影となってしまっている。

 その中で容子や関係者たちが「49日法要が終わった」「この人(遺影を指さして)は10数年前から心臓患うて医者から死ぬ死ぬといわれてきた」と、語っている。

 亡くなったのはこの頃とみてもいいだろう。

 因みに、同番組の中では相方を失い苦悩する容子とひさしの姿、娘と思しき人物に電話をかける容子の姿が出てくる。

 映像はワッハ上方で見る事ができるので、興味ある方は探してみてください。

 その後、コンビで歌謡ショーのような事をやっていたというが、平成初頭に容子が一線を退き、事実上の解散となった。

 東ひさしは2000年代まで舞台に残っていたそうで、最晩年は東みつ子とコンビを組んだ。アコーデイオンと三味線の古風な音曲漫才で、枯淡の味を出していたというが、東みつ子の引退に伴い、ひさしも一線を退いた。

 

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