H・フォン・タクト

H・フォン・タクト

フォン・タクト
(関係者提供)

晩年のフォンタクト

 人 物

 H・フォン・タクト
 ・本 名 ユージェン・グリーゼ?

 ・生没年 1900年頃~1975年以降
 ・出身地 ドイツ

 来 歴

 H・フォン・タクトは戦前戦後活躍した外国人漫談家。多くの漫才師や落語家たちの中に挟まって、「一人オーケストラ」なる演目を開拓。その独特の芸や愛嬌で独自の人気を集めた。戦後勃興した外国人タレントの中でもひときわ異色な存在である。

 戦前戦後のしばらくは大阪を拠点に活躍していたが、高度経済成長期に上京し、同地で晩年活躍したという。

 外国人でお笑い芸人という異色の経歴の割に、資料が少なくよくわからない人である。

 出身はドイツ。元々は貴族だというが、本当だろうか。その経歴は、『朝日新聞東京』(1962年6月13日号)にまとめられているので引用。

 高座にあがったタクトさん
 ギターを抱えて都々逸を
 在日25年 ドイツ生れの元貴族

 青い目の寄席芸人が上野の鈴本演芸場でなかなかの人気を集めている。ドイツの貴族の出だというフォン・タクトさん(五八)。和服姿にギターをかかえ、歌謡曲、都々逸、漫談……器用にこなす、異名は”都々逸三亀松”……。
 紅毛ヘキ眼のタクトさんは紋付きの着物をイキに着ながし、センスを構えて、高座の座ぶとんにピタリと正座する。「美しい日本のお客さま、ごきげんヨウ。」
 ポロン、ポロンとギターをつまびきながら歌い始めるのは「うちの女房にゃヒゲがある」「ああ、それなのに、それなのに」といった昔なつかしいやつから「有楽町であいましょう」まで。その手にコントラバス、トロンボーン、ハワイアン・ギター、トランペット…四つの楽器音色をコワイロで見事に使いわけて、”一人オーケストラ”をやるのがオハコだ。
 漫談は日本の自然の生活を観察して感じたことを愛きょうたっぷりの片言でやる。たとえば――「日本の奥さん、朝かならずいいます。お父ちゃん、いってらっしゃい、はいお帰り。するとだんなさん答える。できれば早く帰ります。だけど夕方になると……」――そこでパチンコ屋で夢中で玉をはじいている亭主族のパントマイム。観客はドッとわく。
 昭和十二年、得意のワンマンオーケストラで世界を巡業中、来日して日本婦人と結婚し、そのまま関西に住みついたという経歴の持主。戦時中は軍の病院慰問に出たり、戦後は大阪の劇場やテレビに出演したりしていたが、去年の秋上京して、はじめて青い目の和服姿を売りものに上野・鈴本の高座に立った。出しものはぜんぶ自作自演で、都々逸などはローマ字の台本を作っている。
「いろいろめぐり歩いたけど、日本の寄席芸人、昔風のギョウギとてもきびしくてキモチいい。和服も好き。キチッとした気分になるネ。このごろは洋服だとなにかハダカでいるみたい」ーーいまの寄席生活を手放しの礼賛ぶり。いっぽうタクトさんに対する楽屋の評判も「日本人より 礼儀正しいし、義理固いくらい……」となかなかのもの。できたら死ぬまで寄席芸人を続けるつもりで、日本に帰化する手続きまでしている。
 そのタクトさんにも悲しみがある。故郷の町が東独になってしまって、ちょっと帰ってみたくとも簡単にはいかないことだ。「二つのドイツ、いちばんザンネン。早く一つにならなければ……」とさびしい顔になる。

 ただし、年齢に関しては疑問があり、『文藝春秋』(1966年6月号)掲載の、和木光二郞『高座の”紅毛”師匠』では「ドイツ人のH・フォン・タクトさん(66)もその一人だ」とあり、完全に違っている。

 筆者としては後者の1900年頃の出生説を採る。そうしないと結婚や子供の年齢の辻褄が合わなくなってしまう気がするからである。

 生家の先祖は貴族だったというが(信憑性は如何程か)、父親はエンジニア技師として、堅実に勤めていたという。『アサヒ芸能新聞』(1953年1月1日号)の『ドイツの三亀松 “一人オーケストラのグリーゼ氏”』の中に、

 ドイツのローナウ大学機械科出身のエンジニアーで「父のあとを継いで技師になったが、学生時代から十一種類の楽器のイミテーションを口でやったりし、友達にすすめられて慰問にいったところを新聞に書きたてられたことからこの道に入った」と達者な日本語で語る。

 と、ある。ただ、『文藝春秋』では「タクトさんはパリで初舞台をふんで以来世界を股にかけて歩いてまわり 昭和十二年に日独親善のために来日」と紹介されている。こちらはプロとしてのデビューと見るべきだろうか。

 長らく諸国を放浪し、芸を見せていたという。1936年、香港で公演中、日本人に誘われて来日――と、『アサヒ芸能新聞』にある。残りの資料には、1937年来日とあるので、前年香港で日本人及び日本にあこがれを持ち、来日、とみるべきだろうか。

 来日後は「ユージェン・グリーゼ」の名前で(本名?)、松竹演芸に所属した模様か。当人曰く、「おサケ、ゲイシャ、カンパイしました。四十七士ウチ入リ、カタキウチ、感激しました」という理由から在留を決意する。当人は、和服が好きで、日本人の気性や習慣を「礼儀正しくおしとやか」と解釈して、甚く気に入ったというのだから、相当なものである。

 来日後、2年足らずのうちに、松竹劇場に出演している写真が確認できる。以下は1939年4月、松竹劇場のパンフレットの写し。

 来日後間もない1938年に知人たちの斡旋で、日本人女性と結婚。敗戦色が強くなるまでは、浅草に住んでいたという。

 この頃、浅田家日東と台湾へ巡業したことがある。

 戦時中は、出身国ドイツが日本と同盟国だったこともあって、味方の扱いを受け、強制連行や冷遇などさほど受けず、仕事ももらえていたようであるが、籍が日本にないため、配給がもらえず、ひどく苦労をしたという。『アサヒ芸能新聞』(1953年1月1日号)の『ドイツの三亀松 “一人オーケストラのグリーゼ氏”』に、

「戦争!困りますね、ワタシ独逸人配給ウケナイ、日本と同じもの食べて栄養不足……」それほど頑張って日本人になりきろうとしている。

 と、その嘆きが綴られている。

 1942年頃、長男のニコライ誕生。浅草で生まれたという。この子は、戦後間もない頃、父と一緒に歩いて、司会や漫談などをしていたというが、後年は堅気になったと聞く。

 敗戦前後で神戸へ転居し、長らく当地を拠点に活動をしていた。澤田隆治氏などの古老の話では、「戦後直後は外国語使える人間だとかで進駐軍慰問とか、通訳みたいなことをして生計を立てていたらしい」との事であるが、不明。

 ただ、日本語ペラペラで、ドイツ周辺諸国の言葉もある程度理解していたことを考えると、そういう立ち位置になるのは当然といえよう。

 戦後は神戸を拠点に活躍。焼け残った寄席に出演した他、勃興し始めたキャバレーやキャンプにも参加していた模様か。

 おかみさんは理髪店をしていたそうで、副業として 

 この頃、若き日の夢路いとし・喜味こいしと出会っている。相当な奇人だったそうで、『神戸っ子』(1968年11月号)掲載の座談会『座談会・神戸はしゃべくり万才の風土
 夢路いとし・喜味こいし+織田正吉』の中で、

こいし 今は東京におるけど、あのドイツ人の三亀松。
――ユーゼン・グリーゼ。
こいし フォン・タクトーね。 あの人は六甲でした。奥さんが美客院をしていて。
――寿座でみたとき、フォン・タクトーといってもピンときやへん。
こいし 自称ドイツ人やいうんです。
いとし 変な外人のはしりやね。
こいし 旅に出て都合が悪くなると、私は治外法権だ、といったり
いとし 急に言葉が判らなくなったり。気が合ったら、これはまた話が長い長い(笑)

 と、散々ネタにされている。

 1952年頃、一度上京し、浅草花月に出演。『アサヒ芸能新聞』(1953年1月1日号)の『ドイツの三亀松 “一人オーケストラのグリーゼ氏”』は、その出演時の取材をまとめた記事である模様。その時の芸風が、出ているので引用しよう。

埋め立てられたヒョウタン池のほとりを肌寒い風がわたつて行く。浅草六区の一角、花月劇場の舞台ではみなれぬ長身の外国人がただ一人、ドラムを叩きギターを奏でそして独特のアクセントでしゃべるセリフは、
「地震雷火事オヤジ、うちの女房にヤ髭がある。パピプペパピプペポ……これじゃ無茶苦茶ですワ」
と、関西弁、歯切れのよい東京弁などを使いわけ、合い間にトランペットやスチールギターの物真似を入れてお客を笑わせる。
人呼んで“ドイツの三亀松”ことワンマン・オーケストラのユージェン・グリーゼ氏で、司会をつとめるのは十歳の息子ニコライ君。

 その後は、東西で活躍していた模様であるが、再び松竹演芸部に出入りするようになったと見えて、角座や浪花座に出演するようになった。正式に専属契約を結んでいたかどうかは不明。

 1959年4月、角座上席に出演。「フォンタクトの舶来三亀松」なる名称が銘打たれている。「舶来三亀松」とはすごい。

 1961年、上京。娘と共に世田谷に居を構えた。妻とは別居していたという。爾来、この娘がマネージャーのような形でついて歩いた。

 上京後、どのような伝手があったのか不明であるが、寄席に進出。1961年11月、新宿末廣亭中席に出演したのが初披露目だろうか。

 当初は落語協会系の興行に出入りしていたと見えて、番組表などでその姿を確認する事ができる。ただ、当時の名簿を見ても協会員扱いにはなっておらず、立ち位置は依然として不明。新宿末廣亭が多かったことから、「ノセモノ」扱いだったのだろうか。

 1964年頃、落語芸術協会系の興行へと移籍。理由は不明。そもそも協会に入っていなかったようなので、移籍も何もない模様である。

 芸術協会の方が水があったと見えて、色物として活躍。また放送や演芸会などに出演し、ヘンテコ外国人芸人として異彩を放った。

 この頃になると、洋服姿の立ち高座をやめ、着物に袴、舞台に講談師のような机(釈台)を置き、その前に座ってギターや声色を披露する、不思議なスタイルへと変更した。『文藝春秋』にも、

タクトさんの寄席芸人ぶりもすっかり板についたきちんと着物を着て ギター片手に高座につき「遠州森の石松」を一席ぶつかと思うと 例ののどでトロンボーン ハワイアンギターなどの美しい音色に即興メロディーをのせてみせる 興にのれば日本の歌手のもの マネもやってみせてくれる タクトさんが舞台にあらわれるだけで 客席にはドッと笑いがおこるのも“人徳”のいたすところだろう

 と、その芸風が記されている。ただ、それが寄席の水にあっていたかとなると非常に微妙な所であり、当時を知る芸人さんからは、「面白くなかった」「一度見れば十分」「見世物的な価値しかない」「正座がおぼつかなかった印象しかない」などとあまり評価はよくない。

 その批判の中でも、特に鋭いのがご存知・立川談志家元で、『立川談志大全集14 早めの遺言』の中で、

 変わったところで、H・フォン・タクトという、ギターを弾いて喋る、下手っ糞な芸人もいた。
「フォン・タクト」なんというところからみるとドイツ人なのか。あんまり下手なんで“見世物にも ならない酷いもんだ”と思ったネ。
 ちょうどその頃、ストリップが全盛になってきて、それも 外国人ストリップなら何でもいい、ってンで、「ミス・アンドレア」なんという北欧出身の踊り子がいた。
 パイオツの下がったオバサンで、それでも“外人の裸”というので売り物になったのだろう。ストリップ小屋に出てたのを覚えてるが、それと、どういうわけだか、「H・フォン・タクト」とが私の中でダブる。

 と、ボロカス貶している。

 しかし、このような独逸人の漫談家が、伝統的な落語や講談に交じって、意気揚々と芸人や客の煙を巻いていたというだけでも愉快である。寄席の世界に出入りした以上、やはり記憶されるべき一人であろう。

 もっとも、人間的には善人だったそうで、立ち回りが上手であったという。そういう所もまた寄席社会からはぶられない一因だったのではないだろうか。特に10代目桂文治とは昵懇の関係で、不思議な交友で結ばれていたという。なぜかは知らんよ。

 1966年、『文藝春秋』(1966年6月号)に、和木光二郞が『高座の”紅毛”師匠』として、記事を掲載。この中にたくさん写真があり、貴重。参考になったのは言うまでもない。

 その後も、淡々と寄席の舞台に出演していた模様であるが、1970年に入ると高座数も減少する。また関係者の回顧では、大須演芸場などにも出ていたという。

 1975年7月、新宿末廣亭上席の興行を最後に消息が辿れなくなる。廃業したか、亡くなったか。

 三人の子供のうち、長男のニコライは独立し、長女はマネージャー、次男は美容師であったという所から、楽隠居になった可能性も高い。

 いずれにしても、徹頭徹尾、不思議でもわもわとした不思議な外国人芸人、としかいいようがない。

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