五條家菊二

家菊二

菊二・松枝時代(左が菊二)

 人 物

 五條家ごじょうや 菊二きくじ
 ・本 名 清水 菊次郎
 ・生没年 1902年5月20日~1983年2月7日
 ・出身地 京都

 来 歴

 五條家菊二は戦前戦後活躍した漫才師。義太夫漫才という特異な芸を得意とし、妻・松枝の三味線に合わせて、義太夫や新内、俗曲などを唄う古風な漫才を得意とした。

『芸能画報』(1959年3月号)掲載の「新撰オールスタァ名鑑」に経歴が出ている。

菊二①清水菊次郎②明治35年5月20日⑤京都④酒屋の商売に励んだが生来好きな寄席で身を立て様と漫才の修業をし33才で奈良新徳席で初舞台を踏

 酒屋の御曹司として生まれたものの、酒は一滴も飲めない下戸だったそうで、漫才師になった後もそれでからかわれたという。桂米朝と上岡龍太郎は『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』の中で――

五條家菊二・松枝さんというのは、
米朝 松枝さんはね、だいたいは神戸の千代之座でピン高座で女義太夫として出てたンや。菊二さんは酒が一滴も飲めンと甘いもンばっかりが好きやった。亀山ぜんざいの上に砂糖をたっぷりとふりかけて食べてたンや。戎橋松竹の時代というのはあんまり甘いもンがない時代やろ。それで砂糖を自分でもち歩いていた。 バクチが好きでね、麻雀でも花札でも何でも、それで 手入れがあって、二階から飛び下りて足をケガした。声はええ人でね。だいたいが歌うたいになりたくて漫才になった人や。菊二さんは素人で結構人気があってん。それで初めに騙されたンや。煽てられて一座を組 むさかいとりあえず三千円ほど金がいるといわれてな。 自分が座長で凝った衣装で出た。そうしたら結局は客が来えへンさかいに損をした。出した金は一文も戻ってけえヘンわ。帰りの電車賃も自分の衣装を質に置いてその金で帰って来た。座長で歌をうたいたかったンや。

とネタにしている。これは米朝が直接見聞きしたので多分本当のことだろう。

 長らく酒屋の若旦那として勤める傍ら、天狗連(アマチュア)で活躍。声がよく、男っぷりもよかったため、モテたと聞く。

 長らくアマチュアとして活動していたが、33歳の時にプロに転身。一説では五條家牛若門下の五條家若二が腕を見込んで「漫才にならんか」と誘ったという。

 若二の推薦で牛若門下に入り、「五條家菊二」。芸名は本名からだろう。

 1935年、「菊二・若二」の名でコンビを結成し、デビューを果たした。それこそ当時としてはあまりにも遅いデビューであった。

 一方、持って生まれた美声と美貌がいいように作用をしたようで、デビュー数年で若手の新鋭として売り出すようになった。神戸千代廼座の太夫元の推薦を受け、同座の芸人として劇場へ出入りした。当時は二代目平和ニコニコとコンビを組んでいた。

 千代廼座時代に知り合ったのが竹本琴八こと五條家松枝であった。女流義太夫の花形といつしか恋に落ち、そのまま結婚してしまった。

 後に漫談で大成する西條凡児は菊二夫妻の印象を以下のように記している。

五條家菊二・平和ニコニコ 千代之座の色男。番附の一番。端唄や鶯童の百人斬に人気があった。ニコニコ氏との舞台は怖かった。一寸嫌味はあったが、のちにコンビ解消、 彼氏は義太夫の升本琴八と一緒になり、新興へ行った。琴八は当時、私ともめて万才が!と汚そうに云ったが、その万才になった。ヒステリが強くむしろ狂人に近かった。ニコニコ氏は歌楽(花楽)氏と永く千代之座にいた。現在、 六甲にいる。

 1939年、一時的に「菊二・琴八」の名前で高座に出ていたこともある。

 1940年頃、新興演芸部に引き抜かれ移籍。

 新興演芸部に噺家から転身した桂春多楼(後の流行亭歌麿)とコンビを結成。男性同士の新鋭コンビとして売り出した。秋田実も『大阪笑話史』の中で――

菊二・春多楼は、音曲中心の男同士のキビキビした舞台で人気があったが、今の菊二・春子、歌麿・八千代、その菊二さんと歌麿さんである。新興演芸の企画で、そういう男同士の強力なコンビを作ったのであった。

と立派なコンビであった旨を紹介している。

 しかし、春多楼は敗戦直前に新興演芸部の依頼で満洲へ渡ってしまい、コンビを解消。菊二は妻とコンビを組みなおすこととなった。ちなみに春多楼は現地で終戦を迎え、同行した浅田家日佐丸平和ラッパ、秋田実などと共に凄まじい苦労をすることとなる。

 戦後、「五條家菊二・松枝」として再出発。松枝が太棹を響かせ、それに合わせて菊二が歌を歌う――という古風な漫才で人気を集めた。

 松枝が義太夫出身だったこともあり、義太夫のネタを唸ることも多かった。また菊二は浪曲が好きで、浪曲のネタをチャンポンにして唸ることもあった。

 トリを取れる派手さはないものの、その堅実な味わいはモタレや中トリにはぴったりであったようで、幹部として遇された。

 1952年4月、コロムビアより『流行歌吹寄せ浄瑠璃』なる漫才を発表。戦後の漫才SPレコードとして記録が残る。内容は「吹き寄せ」の通り、義太夫に合わせて当時の流行歌の歌詞を並べるというもの。

 1959年末に夫婦喧嘩をし、コンビ解消。一説には菊二の不倫とも、夫婦仲の悪化ともいう。

 1960年1月、菊二は浪曲出身の京はる子とコンビを結成。浪曲漫才に転身し、同年1月、角座中席より再出発をした。

 このコンビで10年以上活躍していたが、後に夫婦のよりを戻し、再び「五條家菊二・松枝」として高座に出るようになった。

 晩年は角座や浪花座をベースに活躍。菊二の喉は衰えることなく、「二上り新内」や「さのさ」などを見事に聞かせていた。

 80近くになっても第一線で活躍していたが、最晩年に膀胱癌が発覚。すでに老齢だったこともあり、京都大学医学部附属病院で息を引き取った。

 芸能評論家の相羽秋夫は菊二の訃報を受けて、こんな追悼記事を記した。今日も『相羽秋夫の演芸おち穂ひろい』の中で読むことができる。

 偲ばれる粋な芸風――五条家菊二
 二月七日午後六時五十七分、五条家菊二が京都大学付属病院で八十歳の生涯を閉じた。 死因は膀胱ガンだが、ほとんど天寿を全うしたといっていいだろう。
 菊二の喉は、七十歳を越えても衰えることなく、小唄、端唄、民謡、浪曲など多彩な節を澄んだ高音で唄って、客席をうならせた。戦後、数少なくなった「音曲漫才」の旗頭として貴重がられていた人である。
 無類のバクチ好きで、片足が悪かったのは、若かりしころ、警察に踏みこまれた時に屋根伝いに逃げて二階から落ちたためだなどという武勇伝も残っている。
 女性にも良くもてた。妻の五条家松枝以外に、京はる子という美人ともコンビを組んだ。その粋な芸風から、玄人筋にファンが多かった。
打つ、買う――と並べば呑む方も達者だろうと考えるがさにあらず、酒屋の息子なのに一滴も呑めないのだ。それどころか、大の甘党で、あんころ餅に砂糖をまぶして食べていた姿がなつかしい。

 有名な浪曲の一部分を、何の脈絡もなく続ける『脱線浪曲』や、昔なつかしい『あほだら経』など、『万才』の時代の芸を”漫才”の世紀に伝えてくれた菊二の死によって、また一つ財産を失ったような気がする。
 冥福を祈りたい。
 この上は娘義太夫の人気者だった松枝に、せめて太桿三味線の音色を残して欲しいと思う。気持ちの整理がついたら、だれか新コンビを見つけてのカムバックを期待したい。

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