小松まこと

小松まこと

小松まこと

至芸・後ろ面踊り

戦後の相方
小松あけみ 東雲立子(右)

 人 物

 小松こまつ まこと
 ・本 名 小野 正夫
 ・生没年 1918年3月23日~2011年ころ?
 ・出身地 兵庫県 尼崎市(大阪市説もある)

 来 歴 

 大正から平成にかけて80年近く活躍した漫才師。「後ろ面踊り」を十八番とし、珍芸の第一人者として多くのテレビや寄席に出演。この珍芸は林家染丸一門に受け継がれ、「わろてんか」で披露されたこともある。

『日本演芸家名鑑』によると、出身は「兵庫県尼崎市」だそうだが、「大阪生まれ」の資料が多い。いとしこいしではないが、巡業先で生まれて、大阪で育ったとみるべきだろうか。また、本名は「正夫」が正しいようである。『上方演芸人名鑑』では、「正次」となっているが誤字だろう。

 その経歴は、『国立劇場演芸場』(1983年10・11月号)の『芸人・てんのじ村(Ⅱ)』、『国立劇場演芸場』(1997年2月号)の『風前の灯火・後ろ面踊り』に詳しい

 父は、漫才界の大御所、竹の家喜雀。姉もまた漫才師で、竹の家升奴・小升。小升は後年家を飛び出し、本田恵一と結婚。「玉木貞子」と名乗った。本田恵一・玉木貞子は、実姉・義兄に当たるわけである。

 芸人の子だけあって、楽屋や旅で幼年期を過ごし、当人も幼いころから芸を仕込まれる。

 5歳の時――1922年頃、天下茶屋の第二朝日館で初舞台を踏む。相方は姉の小升で、当人も「正夫」から「竹の家正雀」と名付けられる。共に10歳満たない少年少女が達者に三味線を弾き、俗曲や端唄を歌い、正雀が即興のしゃべくりから数え唄までを演じる、達者さで売り出した。

『国立劇場演芸場』(1997年2月号)によると、

竹の家小升を名乗っていた貞子姉の手ほどきで 予供漫才の舞台をふんだのが五歳の時。大阪天 下茶屋にあった第二朝日座で、姉の三味線でしゃべくり、数え歌、そしてトリネタには「塩原多助」や「お半長右衛門」の寸劇を演じた。「お半長右衛門」ではお半を演じたが、長袖にだらりの帯、お腹にはみごもったそぶりよろしく座布団を入れて、 姉の長右衛門におんぶされて登場した。長右衛門から「背われる身はよいけれどお腹はややは痛みはせぬか」といわれると、座布団をくるりと脇に廻し、「痛むと思うて横手にはらんだ」とやってのけて、客席を笑いで包んだ。

 立派な芸人にすべく父姉から厳しく芸を仕込まれ、三味線は姉から、長唄は杵屋流、踊りは花柳流としっかりとした師匠につけられた。幼いころから難しい芸を仕込まれたこともあってか、柔らかく、器用な体格を持つようになり、これが後年の踊りに役立つこととなる。

 1927年、呉巡業中に、一風亭とんぷくという芸人と出会い、雑誌『潮』(1995年11月号)に掲載された藤田富美恵『うしろ面。 』によると、

 一家で地方巡業中の昭和二年、九歳だった小松さんは、呉の演芸館でいっしょに出ていた一風亭とんぷくという落語家に「うしろ面」を習い、昭和三年より舞台で演じるようになった。

 因みにこの呉で立ち寄った演芸館の一つで働いていたのが、本田恵一であった。

 一風亭とんぷくという人は、殆ど素性の知れない人物であるが、元は東京の落語家だったそうで、噺よりも珍芸を得意としたという。『国立劇場演芸場』(1997年2月号)によると、

「御大典の年(昭3)から初めました」という後ろ面の踊りは、広島県呉市の演芸館に出演している時、一座していた落語の一風亭とんぷくに教わったそうだ。この人は「不如帰」なら武男と波子、 「金色夜叉」なら貫一・お宮の一人二役、いわゆる百面相を得意としていた。その彼に後頭部に面をつけ、衣装を背中合わせに着て踊る後ろ面の踊りという珍芸を伝授されたわけだ。ただ教わった時は珍妙な振りだったが、姉と相談、工夫を重ねて、 住吉大社ゆかりの型を作りあげたのである。

 晩年は緑家トンプクという名前になったのか、笑魂塚の名簿にはそう書かれている。

 但し、晩年の芸談などでは「一風亭とんぷくという人がやっていたのを見よう見まねで覚えて……」と語っているため、どこまでがとんぷくの芸で、どこまでが小松まことの創意工夫なのか判らない状態にある。

 もっとも、見よう見まねであれ、習ったであれ、後ろ前に踊る以上は自力で工夫することが多かったらしく、合わせ鏡で手の動きを確認したり、親や姉に所作を確認してもらうなど、中々の苦労を重ねたという。

 何とか踊れるようになった後、姉と相談して、踊りの地は「伊予節」にする事となった。このスタイルは死ぬ直前まで続いた。このあたりの工夫は、小松まことの独創と言えよう。

 歌詞は伊予節の替え歌で、古くからある歌を姉の貞子が工夫したともいう。以下はその歌詞。

 境住吉反橋渡る 侍者社や神明の穴から 大神宮さんをふし拝む 誕生石に石を積む 赤前だれが出て招く ごろごろ竹馬に麦藁細工 つまみ貝いも買わしゃんせ

 大まかの流れとしては、着物を裏表逆に着たまことが歌に合わせて、若い女が住吉大社に参詣しに来た様を踊って見せるもので――手水鉢でお清めをし、石段を上り、賽銭をあげて合掌する、という一連の流れを身体の動きに逆らって、恰も普通に踊っているかのように見せる所がミソであった。

 もっとも、この趣向は歌舞伎に古くからあり、今も市山流に「後ろ面」というものが残っている。これは尼さんの恰好をした踊り手が、その本性である化け狐(顔の後ろにお面をつける)との一人二役を魅せるもの。林与一氏の祖父、林又一郎がなぜかこの踊りを知っており、踊った事がある。これは漫才だけの芸ではない事はご留意願いたい。

 長らく姉の小升(後年貞奴と改名)とコンビを組んで、父の一座を中心に地方や端席を回って、「後ろ面」を踊っていた。

 1935年、父が死に、15歳の若さで後ろ盾を失う事となる。

 1937年、姉が本田恵一と駆け落ちに近い結婚をしてしまったため、コンビ解消。残された上の姉、升奴とコンビを組みなおす。

 「升奴・正雀」の姉弟コンビで舞台に出、音曲本位の漫才を続投する事となる。

 しかし、戦争の悪化や升奴の寿引退もあり、漫才の続投が危ぶまれるようになる。

 そんな行き詰まりを脱却すべく、「漫才だけではダメだ」とばかりに、和裁の仕事を覚えるようになる。時に1939年。

 幼いころから器用だったのを幸いに、大丸和裁部に出入りするようになり、そこで仕事を覚えた。『国立劇場演芸場』(1997年2月号)によると、

 和載で踊りを維持ところで七十八歳という年齢、しかも需要面の低下で維持が危ぶまれている後ろ面の踊りだが それを支えているのが和裁師の仕事だ。 
 和裁を身につけようと思いたったのは昭和十四年のことである。嫁いだ相方の姉の後釜になかなか人を得ず、しかも戦時色が濃くなっての将来への不安、そんな時、何か役立つ技術を身につけて おこうと決心したわけだ。
 幸い手先きの方は器用。大丸百貨店の和裁部に通った。そして五年目の昭和十九年四月、大阪府和裁縫師会から免状を交付された。
「せっかく免状を頂いたのですが、戦後は和服がすたれて、これは計算違いでした」と苦笑したが、 四人の子供がそれぞれ巣立っていったのは、後ろ面の踊りよりは、副業の和裁での収入に負うところが大きかったとか。

 1944年4月に免状を確保してからは一本立ちをして、漫才師の傍ら、和裁師としても活動するようになる。

 その技術は非常に優れていたそうで、この副業のおかげで浮き沈みの激しい漫才界にとどまる事が出来た、とも解釈できなくはない。

 現に最晩年まで着ていた衣装や漫才の衣装のほとんどは、すべて自作の品であったという。その手さばき、腕の巧みさは一級品であった事であろう。

 戦後は、安来節出身の小松あけみとコンビを結成。それを機に「小松まこと」と改名した。

 小松あけみは、本名「平松アサノ」といい、1913年生まれ。元は安来節の大御所、山崎政子の弟子で、山崎朝子といった。なお二人は夫婦ではなかった。

 戦後は、吉本、松竹、千土地いずれも関与せず、先輩の松鶴家団之助が立ち上げた芸能事務所の専属というような形で余興や巡業を中心に暮らすようになる。

 姉の玉木貞子もまた同じような境遇で生活しており、非常に懇意な関係であったという。

 派手さこそないが、実直で華麗な芸は、大劇場よりも小さな舞台向きだったと見えて、地方ではなかなかの人気があったという。

 仕事がない時は、和裁で食べていたようで、その生活は晩年まで続いた。『国立劇場演芸場』(1997年2月号)に

 現在も「老眼で仕事がなかなかはかどりません」といいながらも、一人暮しを支えているのは針仕事である。

 とあるのが確認できる。

 1960年代に一度故郷の尼崎に居を構えたこともあったが、あけみ亡き後、再び西成区のてんのじ村へと戻っている。

 ながらく、団之助芸能事務所を代表する漫才として、方々を旅していたが、1970年代にあけみが倒れたそうで、亡くなる以前からコンビ活動を停止していたという。

 あけみ亡き後、古くからの仲間である、荒川芳香(元は轟勝世とコンビを組んでいた)とコンビを組みなおし、音曲漫才を続投。

 1980年10月2日、NHK『昼のプレゼント』に荒川芳香と共に出演。出演者はレツゴー三匹、若井ぼん・若井はやと、露乃五郎。この回はNHKに残っているはずである。

 しかし、芳香とのコンビも長くは続かず、1983年ごろ、コンビ解消。芳香が没したらしいが、確証は得られない。

 その後、角座のお囃子をしていた東雲立子とコンビを組んで、「小松まこと・東雲立子」。

 この東雲立子は、本名・北村春子。1921年3月23日、京都の生まれ。元々は、東雲立坊とのコンビで活躍していた。立坊は古い漫才師で、松鶴家千代若とコンビを組んでいたことがある。しかし、立坊の死を受けて、三味線コントに転向。晩年は角座のお囃子場で働いていた。

『日本演芸家名鑑』にはこのコンビの写真が出ている。

 数年ばかりやったようであるが、諸般の事情によりコンビを解消。東雲立子は、東みつ子とコンビを組みなおした。

 最終的には、夫に先立たれた姉の玉木貞子とコンビを組んでいた。『国立劇場演芸場』(1997年2月号)に、

 小升から貞奴と改名した姉が結婚してからは上の姉升奴が相方となり、戦後は安来節の小松あけみと二十四年間、 さらに民謡の荒川芳香とコンビを組み、貞奴から玉木貞子になった姉の応援も得たがいづれも死別、いまは頼まれればテープ持参で後ろ面の踊りだけを演じている。

 とあるが、1990年代初頭に姉の玉木貞子が死去。以来、コンビを組むことはなく、ピンの芸人として、活躍するようになった。

 1992年1月、桂米朝一門総出演の『米朝一門顔見世大興行』のゲストとして出演。桂春団治の「五段返し」ともに、「後ろ面」を披露。大喝采を得た。この時には既にテープで「後ろ面」を踊っている。

 以来、漫才の最長老のような扱いを受け、米朝や上岡龍太郎の番組に出演。また、特別な会に呼ばれるなど、ヤングや落語ファンにも認知されるようになった。

 80過ぎてもなおかくしゃくと舞台に上がり、老若男女を感心させた。一芸に秀いるとはこういうことをいうのだろう。

 2006年に、悲願の上方落語の定席、繁昌亭が出来てから、何度か出演するようになる。

 2007年2月10日、『新日本紀行ふたたび』の「わてら浪華の芸人や~大阪 西成~」に出演。若き日を西成で過ごした三代目平和ラッパと共に、主役的な視点で晩年の姿が撮影された。

 ここでは、和裁や踊りに熱中する傍ら、後継者がおらず、老年によって体の自由が効かずに苦しむ老芸人の姿が映し出されている。番組内では「引退」も口走るほど、相当に悩んでいた模様である。

 事実、小松まことの最晩年は老齢で後ろ面がうまく踊れない苦悩と後継者探しに腐心する日々であったという。

 一時は旧知の作家・藤田冨美恵を介して、小学生を弟子にして踊りを仕込もうとしたが、これは失敗。

 藤田氏によると、「知り合いのチンドン屋の子供に「後ろ面」を継がすべく、小松まこと氏に話を持ち掛けた。はじめは快く引き受けて教えてくれたが、メディアや新聞が、その子供ばかりクローズアップをして、小松まこと氏をなおざりにし過ぎたせいで、怒った小松氏が出入り禁止にしてしまった」という

 藤田氏は「芸の伝承は敵が増えるという側面も持っている」と分析しているが、下手なマスコミの軽率なチヤホヤ、物珍しさからくる子供への取材が、小松まことの芸人魂やプライドをひどく傷つけたといえよう。

 結局、弟子がいないまま、後ろ面は廃絶の危機を迎えようとしていた。

 そんな「後ろ面」を救ったのは、落語家で古くからの知人であった四代目林家染丸であった。

 染丸は、踊りが得意な弟子、林家染雀・林家笑丸の両人に掛け合って、踊りを受け継ぐ段取りを作った。弟子二人も熱心に、その芸をマスター。このおかげで、「後ろ面」は伝承され、今日に至っている。

 両人ともに常日頃やっているわけではないが、小松まことにも劣らぬだけの技量は持っているといえよう。笑丸は「わろてんか」の出演及び演技指導に抜擢され、同ドラマのメインキャラを務める藤井隆に「後ろ面」を教えたのは記憶に新しい。

 後ろ面を受け継ぐ相手が出来て安心したのか、2008年頃、演歌師の田浦高志氏が自分のリサイタルに呼んだのを最後に表舞台から姿を消し、間もなく没したという。

 没年等は不明。消息筋の話では、2017年以前には「数年前」に亡くなったとの由。ご子息が見つからない限り、この没年は判明できないのではないだろうか。

 

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