流行亭歌麿・やちよ
流行亭歌麿・やちよ(左)
若き日の流行亭八千代
(加藤龍一氏提供)
ハワイ巡業時の流行亭歌麿・やちよ(下段真ん中)
人 物
流行亭 歌麿
・本 名 浦川 正男
・生没年 1912年1月22日~1990年1月13日
・出身地 大阪市
流行亭 やちよ
・本 名 浦川 すえ
・生没年 1908年1月24日~1990年7月19日
・出身地 京都市
来 歴
流行亭歌麿・やちよは戦前戦後活躍した漫才師。歌麿は平成期まで生きた初代桂春団治を知る最後の生き残り。やちよは永田キング・エロ子の姉であり、永田一族のものであった。三味線を使う明るい漫才で人気があった。
歌麿の遺族(次男)がまだご健在で、この人から略歴や生没年をうかがった。また関係者のお骨折りいただいた。ありがとうございます。
遺族曰く――「歌麿は両親ともに芸人の家ではなく、一般家庭の生まれ。当人は歌舞伎の役者になりたかったというが、『芝居のおしろいは鉛が入っていて鉛毒になる』と反対され、小学5年生の時に春団治の門下になりました」という。
一方、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』などでは「子役をやっていて、舞台などで借りられていた」と語られている。
子役として舞台に立っていて、本式の役者になろうとしたが「子役は兎も角も、本式の役者は駄目」という理屈だったのだろうか。『京都年鑑1960年』をみると、「師匠・市川左團次」とある。左團次一座の子役だったのかもしれない。
しかし、役者にはなれず落語家に転身。当時売り出しの桂春団治に入門――といいたいが、相羽秋夫『上方演芸人名鑑』によると「林家染三の弟子」とある。
林家染三は二代目林家染丸の弟子で、大正時代有望株として注目されていた落語家である。歌麿とは22歳近い差があり、キャリアも差があったために師弟関係になりうるだけの資格はあったのかもしれない。
しかし遺族も「林家染三の弟子だった」とは一言も書いてなかった。
弟子になっていたのかもしれないが、一種のセミプロ的な師匠の付き方、あるいはほんの数か月だけ腰を下ろして、春団治門下に移籍したのかもしれない。
あるとすれば、「林家染三に弟子入りを乞うたら、春団治を斡旋された」「春団治を紹介してもらうために形式的に染三の門下に入って、試用期間という形でついていた」――か。
大阪日本橋小学校・5年生(1922年頃)の時に、桂春団治の弟子になって、「桂若春」と名乗った。
「小学校の卒業式の時に着物姿で小咄を披露した」と、同封されていたメモにあったが、本当だろうか。しかし、小学生噺家として活動していたのは事実であろう。
因みに、自身の入門直前に春団治門下に入って来て、一緒に内弟子生活を行っていたのが、桂小春団治――花柳芳兵衛である。
キャリアも年齢も小春団治の方が先輩であったが、春団治の門下としては近い関係にあったようである。この2人が戦後まで生き残っていたというのが不思議な因縁を感じさせる。
春団治の弟子として、色々な寄席に出入りをし、春団治を筆頭に円馬、染丸、三木助、千橘、松鶴といった百花繚乱の名人芸を目の前で見る事ができた。ある意味では戦前における上方落語全盛期に間に合った最後の世代であろう。『上方演芸家名鑑』によると「第二朝日館で初高座」という。
『藝能懇話』(18・19号)に出ている「法善寺の花月の出番表」を見ると、1927年頃より「桂若春」として、一番端っこでこそあるが番組表に出ている様子が確認できる(その前に開口一番を勤める前座がいたと思われるので、実際は二つ目的な扱いだった事だろう)。
当時の番組表は基本的に幹部か看板を簡単に並べることが多く、前座や二つ目格の芸人は無視されることが多いので、こうした記録は貴重である。
師匠の春団治が全盛で、また兄弟子の小春団治、福団治が売れっ子だったおかげもあってか、南地花月や北新地花月といった落語の名門席の高座を踏んでいる。
落語家の多くが憧れたという高座を十代そこらで勤められたのは歌麿にとっての幸せだったのではないだろうか。晩年は春団治の私生活を知る最後の人となった。桂米朝がまとめた『上方芸人誌』の中にも――
米朝 初代はほんまはどういうお方やったんですか。
歌麿 芝居や映画でやったような色好みだけやないんです。まじめな、家庭的で、孤独感のある半面を持っていました。
米朝 芳兵衛師匠も、ときどきひとりで淋しそうにしてはるときがあったというてはりました。
歌麿 家では朝早く起きて小鳥の世話をしたり、大工仕事なんかもうまかったそうです。
米朝 まめやったそうですな。
歌麿 ミニの離れ座敷なんか、うまいこと仕上げてはりました。それに、お盆なんかは牡丹燈籠をつくって、ご近所におわけしたりもしてはりましたが、いざ舞台となると全然反対で、横一文字の大きな紋の羽織を着まして――――。
米朝 歴代、派手な衣装ですな。羽織の紐なんかも大きい。
歌麿 とにかくふう変わりな奇人であったことばっかりが強調されているんですが、こんな面白い話があります。ある大衆食堂の開店祝いに噺家さんがよばれまして、みなさん羽織紋付で行きましたんですけれど、春団治の姿だけが見えない。それでみながワアワアいうてるとき、まん中の方に、法被姿に股引きで一生懸命食事をしている人がいるんです。それが春団治なんで。
米朝 フッと気がついたら前からきていたわけですな。
歌麿 大衆食堂やから羽織紋付では一般の人がちょっと入りにくいから、この方が気安う入って食事ができるやろ。そういう春団治の配慮やったんです。
米朝 しゃれてますなあ。
歌麿 このときは「さすがに春団治らしいなあ」いうてみたほめてはりました。
しかし、1930年代に入ってくると大御所たちが次々と亡くなり、散々侮っていたはずの漫才(万歳)が人気を集めるようになった。
吉本は、売れない若手や関係者、色物芸人に「漫才師にならんか」と報酬や待遇アップを対価に、漫才転向を推し進めた事もあり、多くの芸人が漫才に転向した。吉本をはじめ、大阪の興行師の計画した漫才計画は大ヒットを飛ばした。
その漫才中心戦略は、当然落語のしわ寄せとなった。若手や中堅の扱いはなおざりとなり、出番も仕事も減った。事実、この辺りから南地花月や北新地花月の落語の前座は大体桂小雀に固定され、若手の進出が見られなくなっている。
歌麿をその煽りを受けた一人であったという。南地花月や北新地花月への開口一番もいつしかなくなり、二流三流の小屋で細々と落語を演じるにとどまった。
1930年頃、心機一転して、「桂春多楼」(春太郎とも春太朗とも名義は色々)と改名しているが、一向に売れる気配はなかった。
さらに師匠の桂春団治も病には勝てず、1934年に死去。一門もばらばらになり、上方落語は冬の時代へと突入することとなる。
師匠の全盛を知っていた歌麿からすれば、隔世の感があったのではないだろうか。それこそ落語家が漫才の前座同然に扱われるのだから、やるせないものもあったのだろう。
結局、落語では食いきれないことを悟った歌麿は漫才に転向をする事に決めた。
ご遺族提供の資料によると、25歳で漫才に転向したという。生年から逆算すると、1937年頃であろう。
最初は「菅原家由良丸」という人と組んで「桂春多楼・菅原家由良丸」。吉本の漫才小屋から出直したという。
由良丸は、初代菅原家千代丸の弟子であった。芸名は『仮名手本忠臣蔵』の「大石由良之助」からきているようである。
漫才転向に対して歌麿はどう感じたか――今となって知る由もないが、少なくとも素人出身の漫才師よりは苦労をしなかったと思われる。そのコンプレックスや屈折は幾許なるものであったか。「落語家全盛であったなら」と屈辱に思っていたか。
はたまた「落語が駄目なら漫才になればよろし、逆らったって仕様がない」と思っていたのかもしれない。
当時は、まだ諸芸づくしの漫才――歌とか踊りとかそういう漫才が受け入れられていた事も幸いした。歌麿は三味線も踊りも得意だったところから、芸尽くし漫才を展開したという。ココから長い漫才生活が始まる。
この頃、永田綾子という女性と恋に落ち結婚。間もなく子供も生まれた。これが流行亭やちよである。
やちよの経歴は永田キングとほぼ同じである。実家は建設業を営んでおり、二男五女の三女(四番目の子)であったという。
ただし澤田隆治氏は九人兄妹で、四男五女――やちよは六番目と書いてある。この辺りの事は非常に家庭的なことなので、尋ねるにも尋ねられないが、昔の事ゆえ兄弟の夭折とかあったのではないだろうか。
本名は永田スエという。余りにも子供が多いので「これで末」だから「スエ」と名付けられたそうであるが、結局その後も子供は生まれている。
長男は家を継ぎ、二男がお馴染みの永田キングである。キングは五番目の子どもなので、やちよとは一番近い間柄であった。
エロ子(チエ子)は一番末っ子。あとはゆきという娘がいる(何番目かは不明であるが次女?)。
京都錦林小学校卒業後、芸人に転身。『上方演芸人名鑑』等には「永田綾子の名前で琵琶の世界からデビュー」とあるが、ご遺族は「琵琶を弾けたのは事実ですが、琵琶の師匠みたいな事はやっていないと思います」との事であった。
一家の中から3人も芸人を出した故に、永田家から勘当されたというが、勘当されたやちよ、キング、エロ子の絆は強く、親しく往来していたという。
もっとも、後年は勘当も解けたのか、ゆきやそれ以外の子どもたちも出入りをするようになったと聞く。
名鑑によると、1933年に「永田綾子」の名前で「京都京極勢国館」で初舞台を踏んだ。
当時、弟妹のキング・エロ子は「スポーツ漫才」をぶら下げ、吉本の注目株として売り出し始めている頃であった。そうした兄弟の縁で芸能界に入ったのだろうか。
ただ、吉本に所属したという割には、歌麿以上に表舞台に出てこないため、実際どれほどの活躍をしたのか判らない。
数少なくわかるのは、1936年頃から数年間、東京漫才の鉢呂八重子という人物と漫才を組んでいた事である。
〆葉が松川家新三郎とコンビを結成したために「〆葉・八重子」コンビは解散。その後、成り行きでコンビを組んだ模様である。
個人的には吉本にいたと思うのだが、確証はない。
それでも、1937年2月にビクターから『二人揃って』(J10443)、次いで五月に同じくビクターから『私の希望』(J10463)というレコードを出している。『私の希望』の方は国会図書館の音源ライブラリーで聞く事が出来る。
レコードに吹きこめた理由も判然としないが、それだけ人気と実力が認められたのだろうか。
後にキングが新興演芸部に引き抜かれたこともあり、新興演芸部へ移籍することとなった。
1939年4月、新興演芸部よりスカウトされ、同社へと移籍。この頃、新興演芸部は平和ラッパ・浅田家日佐丸、ミスワカナ・玉松一郎、香島ラッキー・御園セブン、松葉家奴などを引き抜いて大きな評判を取った。
後の八千代である。
そして、「永田綾子」という女芸人とコンビを組んだ。京都に住んだ理由は判然としないが、ご遺族によると、「歌麿は色々とあって地元や家族と疎遠だったこと、やちよが京都に住いしていた事もあったのではないでしょうか」。
ただ、八千代は出産や子育ても加わることとなり、間もなくコンビ解消。やはり新興に引き抜かれて来た五条家菊二とコンビを結成。男性同士の新鋭コンビとして売り出した。秋田実も『大阪笑話史』の中で――
菊二・春多楼は、音曲中心の男同士のキビキビした舞台で人気があったが、今の菊二・春子、歌麿・八千代、その菊二さんと歌麿さんである。新興演芸の企画で、そういう男同士の強力なコンビを作ったのであった。
と立派なコンビであった旨を紹介している。
このコンビで売り出したが戦時中にコンビを解消。菊二も歌麿もそれぞれ妻とコンビを組みなおしている。
1945年春、新興演芸部から「満州映画協会からの頼みで、協会の嘱託として満洲に渡り、慰問を行って欲しい」という依頼がやって来た。
新興演芸部は、看板芸人である浅田家日佐丸・平和ラッパを中心に芸人を数組募り、一団を結成した。監督に漫才作家の秋田実がつくという豪華一団であった。当時のふれこみでは「満洲には空襲がなく、食糧も物資もある」というものであった。古今亭志ん生などはそのふれこみに乗って、満洲に行った口であろう。
しかし、その道中は危険と隣り合わせであった。既に制空権は米軍が殆ど握っており、米軍の潜水艦や軍艦も日本領海にまで迫っていた。
一行がどういうルートを通ったのかは判然としないが、兎に角命がけの航海であったのは間違いない。なんとか満洲にたどり着いた一行は、満州映画協会を頼って満洲近郊の仕事に出るようになった。
秋田実や関係者の記録を見ると「満州映画協会嘱託」という形だったらしいので、待遇は悪くなかったようである。
空襲もなく、物資も相応にある。当時の日本から見れば、楽園のような所であった事だろう。しかし、その幻想も半年足らずで破れる事となる。
1945年8月、中立を宣言していたソ連が突如侵攻を開始。間もなく日本はポツダム宣言を受け入れ、敗北。長かった太平洋戦争が終結した。しかし、これにショックを受けたのが在満の芸人たちである。故郷へ帰れなくなってしまった。
新興演芸部の一団は新京に身を潜め、引揚げのチャンスを待った。満州映画協会会長で満洲芸能界の顔役であった甘粕正彦は、自殺を遂げており、会社もスタッフも散り散りになっていた。
その間の事は想像を絶する苦労だったようで、関係者はおろか遺族にもほとんどしゃべらなかったという。
間もなく、引揚げ命令が下り、無事に日本へ帰る事ができた。復員の船の中では森繁久彌と一緒だったというが、今となっては判らない。ご遺族同封のメモでは――
歌麿、亭号を珍しく流行亭と附けて生まれは大阪日本橋の三丁目
戦前、新興演芸時代には五条家菊二とコンビで桂春多棲を名乗っていた。その名の示す通り、名人といわれた初代春団治の弟子である。落語家出身には似あわぬ達者な三味線の曲弾きのほか、新しい替唄あるいはノンキ節と絶えず新鮮味を失わないよう勉強を怠らない。終戦時、運悪く満洲にいて口では言えない苦労をして来た。引上船では森繁久弥、藤山寛美、中野伝次郎等と一緒で船中で華々しく慰問演芸会を開いたという楽しい思い出もある。
オシドリ・コンビのやちよは京都の生まれ、野球ショーの永田キングの実姉で、もと琵琶師の出身である。寄席らしい、最も寄席らしい情緒こまやかな芸風で、その真面目な高座振りは安心して見ていられるコンビである。
と、あるのだが(元は南座のパンフレットの模様か)、森繁久彌の引き揚げは1946年秋、藤山寛美の引き揚げは1947年夏ということになっているので辻褄が合わない。これは引揚げ船ではなく、新京での話ではないだろうか。
しかし、引揚げ船の中で演芸会を行ったのはどうやら事実のようである。
復員後は京都へ転がり込み、さらに永田キングの家族も受け入れる――という始末であった。
キングは漫才界に復帰した姉夫婦に向かって「桂春多楼・永田綾子では古いから新しい名前に変えよう」と、新しい名前を考案してきてくれた。
それが「流行亭歌麿・八千代」という芸名である。「これからの漫才は流行に目ざとくなければアカン」という形で「流行亭」と名付けたそうである。あくまでも一説であるが、アイデアマン・永田キングらしい命名で、あながち嘘とも思えない。
その後は地元の演芸会や焼け残った寄席などに出演していたという。
間もなくキングは東京へ戻って行ったが、1949年に公演中、発病(ヒロポン中毒のため)。この急病が曲解され、「キングが急死、キングが自殺」という誤報に化けて届いた。
これを聞いた歌麿やキングの兄弟は「キングも馬鹿な事をした」と哀しんで色々と喪に服す準備を始めた――が、家の前で「姉さん」と声がする。飛び出すと髭ぼさぼさのキングが立っていた――などという笑い話が残る。
この後、キングは療養のため、しばらく歌麿の家に出入りしていたという。半年ほどして再び東京へと戻って行った。
1951年冬、歌麿夫妻は中島興行部から「美ち奴の一座に入ってハワイ巡業をしないか」という提案を受けた。座長は芸者歌手の美ち奴、そこに漫才師や喜劇役者を加えて、十名ほどの小規模一座でハワイの日本人街を中心に巡演しようという計画であった。
中島興行部と歌麿夫妻を仲介した主はハッキリとしないが、永田エロ子(チエ子)も同座していた事を考えると、このチエ子を仲介にして話を持ち込んだのかもしれない。
1951年12月、二人は美ち奴の弟、深見千三郎と共にハワイ行の船に乗り、美ち奴一行を追っかけた。美ち奴一行は既にハワイにおり、中島興行部や関係者と交渉に入っていたという。
到着は20日の予定であったが、1日遅れて到着した――と『ハワイタイムス』(1951年12月21日号)にある。早朝ハワイに到着した一行は入国審査を経て、美ち奴と中島興行部の社員と落ち合った。
一行の顔触れは、座長の美ち奴を中心に、喜劇の上田五万楽、永田チエ子・京子、美ち奴の弟の深見千三郎、そして歌麿・やちよであった。
年末はハワイの新聞社や劇場に出入りをして挨拶をし、1952年1月1日から興行が打たれることとなった。『ハワイタイムス』(1952年元日号)に広告が出ていたので引用する。
歌と芝居の美ち奴一座 三日間興行
ホノルルのお正月興行を飾る唯一の芸能團として大人気の”美ち奴”一座は、ファンの希望により元日より三日間、カワナナコアで再度お目見得する
△一月一日より三日間 毎日マネチー午後一時と夜七時の二回開演
△入場料は一弗五十仙(クキス共)入り込み、会場入口でもテケツでも販売してゐる
新プログラム
▲第一幕
A 美ち奴 歌謡集
B 時代劇 悲曲物語 二場
上田五万楽…主演
美ち奴…………特別出演
▲第二部
A 漫才(新作)流行亭八千代・歌麿
B 美ち奴の唄とバライテー 弥次喜多の道中記
弥次………………五万楽
喜多………………チエ子
▲鳥追ひ女の……美ち奴
宿の女中………八千代
町人………………歌麿
討れる武士……千三郎
討つ娘……………京子
一行は大成功をおさめて、1952年4月に帰国。しばらくの間、夫婦には「渡米芸人」の肩書がついて回り、良い待遇を貰ったという。
1954年3月、戎橋松竹で行われた「桂春団治追善興行」に弟子の生き残りとして列席。この時の公演を露の五郎兵衛『上方落語のはなし』で以下のように記されている。
二代目春団治追善興行。
昭和二十九年三月上席(一日〜十日)戎橋松竹はそれ一色でおました。ちなみに、この時の番組を申しあげますと。
大阪落語 桂春坊
東京落語 橘家竹蔵
漫才 流行亭八千代・流行亭歌麿
大阪落語 笑福亭枝鶴
漫才 喜音家花楽・平和ニコニコ
東京落語 橘家円蔵
講談 旭堂南陵
漫才 松鶴家 光晴・浮世亭夢若
東京落語 桂三木助
口上 文楽・市松・三木助・歌麿・南陵・福団治・文雄・春坊・九里丸
大阪落語 桂福団治
東京落語 桂文楽
漫才 浪花家芳子・浪花家市松
東京からのゲストも入れて、豪華な顔ぶれでおました。
この中で、流行亭歌麿、前名を桂春太郎と申しまして、あの後家殺しで有名な初代春団治の、俗に三十六門人と言われた弟子の当時は末席やったそうですけど、数少ない生き残りの一人で、もとは落語家、なかなか美声のもち主で、音曲噺が得手やったようですけど、初代の没後、沈滞の落語界から抜け出て漫才に転向しゃはったんでおます。
自分で三味線をかかえての弾きうたいで、どんな曲でも三味線にのせてしまう達者で、すっきりした高座小紋の着物に袴をつけて黒足袋という絵かきさんか陶芸家、いわゆる美術家の普段着といったおもむきのあるしゃれた立ち姿でおました。
けど、その美声は、あくまで日本調の声で、この人が、
卯の花の匂う垣根に
ほととぎす早も来、鳴きて
忍び音もらす、夏は来ぬ
と歌うてるのをきいて、小学校で習うた「夏は来ぬ」やと気づくのに三日ぐらいかかりました。はじめは、小唄にきこえたんですわ。それぐらい小節がきいてたんでおます。
この頃、勃興を始めた松竹芸能部に所属し、長らく松竹の大看板として活躍。古風な音曲漫才で人気を集めたという。
松竹時代が一番全盛だったらしく、若手だった桂米朝や上岡龍太郎などの記憶にも残るコンビとなった。『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中に――
上岡 流行亭歌麿・八千代さんというのはなかなか色気のある、雰囲気のいいコンビでしたね。
米朝 なんともいえんな、雰囲気がね。 この歌麿さんは噺家でね、桂若春から春太朗になるンやけれども初代の桂春団治さんの弟子や。八千代さんは、永田キングさんの弟子や。 永田キング・エロ子、このエロ子さんと姉妹か何かやねん。流行亭というぐらいやから流行歌をうたっていた。この人も声のええ人でね、三味線を弾いて、踊ってもいたし。本人さんに聞いたら、芝居の子役がないンで、子役に借りられたらしい。そうしたら評判がいいでちょいちょい借りられていた。それで踊りが器用で、三味線の稽古もしていた。そのうちに誰かが世話をして、寄席へ出るンやったら春団治さんの身内になったらええといわれた。
上岡 色が白くてベタッとした。ボテッとした感じの目のグリッとした人でしたね。
米朝 若い時は可愛らしい子役やったらしいけどね。器用な人やった。
上岡 八千代さんはハンカチをもってはりましたですね。そういえば昔はよく漫才の女の人はハンカチとかをもっていましたね。
とあるほか、上岡龍太郎の自伝の中にも「歌麿師匠の身のこなしは綺麗だった」と高い評価で記されている。
舞台では「ノンキ節」をテーマソングにして高座に上がり、そこから三味線を弾きながらバナナボートの阿呆陀羅経、童謡の小唄などを唄った。
1970年代中頃まで第一線で活躍し、晩年は春団治の語り部としても名を残した。
1977年頃、子供たちが全員独立し、それぞれが親を養える立場になったこと、当人たちの老齢もあって引退を決意。静かに高座から退いたという。
晩年は趣味の寺社巡りや孫の世話などをして静かな余生を送ったと聞く。
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