ジャグラー都一

ジャグラー都一

 人 物

 ジャグラー 都一といち
 ・本 名 小田 登
 ・生没年 1910年1月11日~1960年10月5日
 ・出身地 神戸市

 来 歴

 ジャグラー都一は戦前戦後活躍した関西のマジシャン。漫才師ではないものの、漫才師と仲が良く漫才席に出演し続けたため、ここに採録した。長らく「一陽斎都一」と名乗っていたが、戦後、師匠の提案で「ジャグラー」を復興。ジャグラー一門の再建に力を注いだが、事故に倒れて夭折した。

 経歴は『奇術研究』(1957年6月号)のプロフィール欄に出ている。

(編集子) ジャグラー都一はその芸名にして、本名は小田登。学生時代より奇術に興味を持たれ、卒業後、神戸市役所観光課に奉職。観光外人客接待の席上、「城地都夢」の名でよく上演するうち、義兄初代一陽斎正一師に師事してプロとなる。戦後、特別調達庁の意を受けて関西特殊技芸連盟を創り、推されて初代理事長となり、引きつづき現に三代を冒す。ジャグラー家の一門たりし師匠の遺言により、ジャグラー都一と改称し、目下同家再興のため鋭意活躍中と聞く。稀に見る人格識見ともに高邁にして芸亦卓絶。和妻「胡蝶の舞楽」はジャグラー家のお家芸として天下の逸品である。氏は現 在、関西特殊技芸連盟理事長・名古屋都栄奇術研究会講師・日本奇術連盟参事・陽友会参与・京都アマチュアマジシアンズクラブ顧問・神戸都一奇術教室講師である。

 また、『アサヒグラフ』(1950年3月号)の「手品師掲示板」にも詳しく出ている。

一陽齋都一さん(40)本名小田登 大阪に生れ市岡中学卒業 半年ほど神戸市役所観光課に勤務したものの生来の猟奇趣味の上に義兄(一陽斎正一)の手引きがあって奇術界入り 大阪弁天座で初舞台以来初代一陽斎都一を名乗り得意の トランプ奇術でノジ上げ 現在では関西特殊技芸連盟理事長という肩書で「関西奇術会」を牛耳る腕前は手品以上を斯界での評判 「奇術もレヴューなどの中に織り込みレヴューガールに奇術師もかねさせるといつた方向に伸ばしたい」というのが氏の念願 最近はアマチュア奇術流行の気運が再燃しファンが舞台裏や自宅まで押しかけてくるが 特に大学生が好奇心にかられて面会を申込んでくるのなど「本当にタノモしい」 そうだ 現在神戸市灘区に在住 夫人子女を合わせ六人暮し 「税金や交際費などで芸人の生活は楽じゃない」とここでもコポされる

 上から見てもわかる通り、公務員のエリートから奇術師になったという変わり種であった。

 生年は「出演者名簿1963年度」より割り出した。

 姉が初代一陽斎正一(宮田源之助)の嫁だった関係から一陽斎正一に入門。正一の息子が二代目・三代目正一なので、都一も一陽斎一族という事となる。

 当時、師匠の正一が売れっ子だった関係もあり、大劇場での公演を中心に腕を磨く。後年、正一たちは吉本へ入るが、都一は吉本と深い関係は持たなかった。

 ただ、漫才の席には長く出演をしており、漫才師とも仲が良かった。

 そのため、戦前の活躍は結構謎が多かったりする。一枚看板で相応に売り出していたようではあるが。

 1939年6月、国民会館にて兄弟子の小正一が「二代目一陽斎正一」を襲名。襲名披露に参加している。

 1940年、ジャグラー禎一が入門。

 1944年、二代目正一が戦病死。弟の純二が「三代目正一」を継ぐ事となった。

 戦後は進駐軍慰問をしながら焼け残った劇場や寄席に出演。関西方面の慰問芸人では最高ランクの一人だったそうで、大いに稼いだという。

 1947年、師匠で義兄の一陽斎正一が死去。「亡き父(ジャグラー操一)のジャグラーの名前を復興するように」と遺言した事もあり、都一は「ジャグラー」の屋号を復活する事を考えるようになった。

 1950年頃、大竹農具製作所の御曹司・大竹和美が入門。「親父が禁煙して自分も禁煙する気でいたが手持無沙汰になったため、奇術をはじめることにした」と『中部財界』(1982年3月号)で語っている。

 大竹は都一から可愛がられ、四つ玉、コインとシルクハット、5枚のカードなどの秘伝を伝授されている。

 また、この頃、後の漫才作家・織田正吉が奇術を習いに出入りしている。

 1953年、ジャグラー晴一が入門。

 1953年11月、三越劇場で行われた「第四回奇術祭り」に出演。この時の名義は「一陽斎都一」となっている。 

 1953年12月、三越名人会に出演し、「胡蝶の舞楽」を披露している。

 1954年頃、「ジャグラー都一」と改名し、独立。「ジャグラー一門」の復活に成功した。弟子たちも「ジャグラー」と名を改めている。

 当時の寄席ブームも相まって、人気奇術師として大いに売り出した。東京にもたびたび参上し、東京の好事家を喜ばせている。

 奇術のレパートリーは多かったが、主にスライドハンドマジックと手妻を得意とした。

 手妻は養老派の技芸を知っており、帰天斎正一と並んで数少ない手妻の後継者であった。

 帰天斎が「胡蝶の舞」と称する中で、都一は「胡蝶の舞楽」と称した。『奇術研究』(1957年6月号)の中に――

「胡蝶の舞楽」と名づけ坐して演じたものを、現代に至って筆者立ち技で上演し、しかも若き方々にも興味深く鑑賞できるよう、庶民的な味をもったものに改案したのである。
【追記】 養老滝五郎なる人が、養老派独特な蝶を創ったので、演じ方にも今では柳川派 と養老派の二つがある。この話はもう三十年ほども前のこと、わたくしがある片田舎の劇場に行った時、若い頃、手妻師だったという老人(当時すでに七十才をすぎるとか)が来訪され、親しく伝え習い、また聞いたものである。
 現在、大阪で帰天斎正一という老奇術師が、養老派の「蝶」を演じられていますので、 一度暇をこしらて門を敲き、柳・養二派の相異点と養老派の演じ方を、『奇術研究』愛読者のみなさまへ、お報せする機会を早く得たいものと考えております。

 また、西洋奇術も見事で凄まじい手さばきを見せた。奇術の要であるカードマジックは天才的な物があり、観客を唸らせた。

『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』の中でも、米朝、上岡龍太郎、それにゲストのいとし・こいしがこの技芸を誉めまくっている。

米朝 あのジャグラー都一さんがね、カードをちらばらして、目隠ししてから指定したカードを バーンとナイフで突き刺す。あれも客に目隠ししてもらう。あれは手ぬぐいを折ってね、そこへハトロン紙の封筒を、
いとし ひとつかます。
米朝 「かまします。 二重にします」。あの封筒がなかったら見えヘンねん。 封筒を挟むことによって隙間が出来る。
上岡 ああ、なるほどね、手ぬぐいだけやったらベチャッとなる。浮かすために。
こいし 「見えンように入れる」て、見えるように入れる(笑)。

 毒舌の芸能評論で知られた立川談志は、色川武大との対談(『寄席放浪記』)の中で――

色川 大阪の紙の蝶々を飛ばすのは日本風だな。
立川 あれは日本です。死んだ都一がやってた。一蝶斎都一。これは一度東京へ来ましたよ。 私は楽屋から見てますよ。人形町末広の……。京都の階段から落っこって死んじゃったってい
色川 何年か前に、弟子か何かかもしれないけど、まだやってるのがいたな。
立川 正一というのと、それから帰天斎正一……。帰天斎じゃないな 一陽斎正一かな。 それから、一人じいさんがやっていた。名前を忘れて申し訳ない。この間スミエちゃんがやってたけど、あんまりおもしろくなかった。都一さんは見事でした。都一さん、それを見せといて、今度はミリオンカードをやりましたですよ。カードが幾らも出てくるやつね。あれも見事でしたね。スマートで、最高だった。あんなうまい手品師って見たことなかった。

 かの談志に「あんなうまい手品師」と言わしめるのだから相当巧いのだろう。

 また、『上方演芸大全』の中で、横山ホットブラザーズの鼎談にも――

――印象に残っているマジシャンは?
アキラ 三代目一陽斎正一さんは幕内の間でもネタを絶対見せない人でした。
マコト 袖で仕込みを見てたら顔をしかめて怒った。いらちな人やったんで、金魚に網をかぶせておさまるまで待てばいいのに、急いで仕込みがばれたりする。よう失敗やってはった。
アキラ ジャグラー都一さんはトランプ一つでうまかった。最高、といってもいいほどでした。

 と絶賛されている。

 1955年、茶人で奇術愛好家として知られた田中仙樵が「高松宮様の銀婚式の余興で奇術を披露する名誉を受けたので胡蝶の舞を教えて頂きたい」と直訴。都一は一週間かけて指導したという。

 孫の田中仙翁は『茶道の研究』(1971年3月号)の中で―― 

 私は、この詩については、思い出がある。当日天覧に供した手品は、日本古来のもので、その頃一人しか伝承した人の無かった”胡蝶の舞”というものであった。 
 大阪にジャグラー・都一という奇術師を尋ねて、一週間がかりで、これを習った。私も供をしていたので、その時の態度の実に謙虚で、師弟の礼をとって、一つ一つ伝授を受けるさまを見て、感銘をうけたのだった。修練を積んだ後、舞台に上がると、技はともかくも、師伝を正しく伝えていることに打たれたものである。

 田中仙樵はこの時の感激を忘れないように「高松宮銀婚式典能宮中余演奇術恭賜天覧」と題し「理外神道術更奇術励胡蝶扇風時業人間技迫宮闕咫尺天類仰鳳姿」と漢詩をしたためている。

 また、大竹農具製作所の社長だった大竹和美の招きで、「名古屋アマチュアマジシャンズクラブ」の顧問なども勤めている。

 1957年4月、安藤鶴夫が京都富貴で都一を見た印象を記している。その文章は『芸について』とまとめられている。

奇術の都一がブリキ製のシルクハットに、そこら中から銀貨をかき集めてもどす奇術で、高座を降りて、わざわざサンダルをはいて客席の中へ入っていくのも、芸人と客との親近性を心得たこれも一種のサービス精神であろう。

1960年9月28日、京都駅のホームの階段から滑り落ち、大怪我を負った。

『奇術研究』(1960年冬号)の中で――

ジャグラー都一師 九月二十八日の夜、京都市四条の南座における日立演芸会に出演され、のち、帰宅すべく京都駅発午後八時五五分の神戸行急行に乗車せんとした際、駅ホームにて転倒して頭部を強打され、出血多量のため、意識不明に陥り、駅前の福島病院(下京区七条新町北)に入院加療中。昏睡状態が持続して、かなり重傷の由。

 と、その旨が記されている。

『米朝・上岡が語る昭和上方漫才』によると、手を庇って頭から落ちて亡くなったという――

いとし 都一さんはね、階段でこけて亡くなりはった。
米朝 京都駅の階段でね、手を庇って頭から落ちた。
上岡 手を置いとけば、骨折したかも分らんけど死ぬことはなかった。
いとし 手を怪我してはイカンからというて、手をカバーして。 本能的にそうなるンやね。
米朝 肩の骨が砕けても何とかなると。指の骨が折れたらもう出来ひん。 あの人のカードはホントにうまかった。

 そして、この雑誌が刊行される直前に死去。最期まで意識は戻らなかったという。

本号印刷中、十月五日午前、師の訃報に接しました。わが奇術界、稀に見る名手を失ない、等しく痛惜に堪えない。ここに衷心、哀悼の意を捧げ、ひたすら師の冥福をお祈りする。

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