永田キング

永田キング

永田キング・ミスエロ子

26歳のキング

一世を風靡した野球漫才
(野球の丹下左膳)

グルーチョ・マルクスに扮した永田キング

晩年のキング
左からミッキー、キング(捕手役)、チコ、チャーリー

来歴

 人 物

 永田  ながた キング
 ・本 名 永田 義一
 ・生没年 1910年8月~1977年2月4日
 ・出身地 京都府

 永田  ながた エロ子
 
・本 名 永田 チエ子
 ・生没年 1920年~平成以降
 ・出身地 京都府

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才師兼コメディアン。その生涯は澤田隆治氏の『永田キング』に詳しいのでそちらを是非買ってください。名著です。

 大体の経歴はそこに出ているので気になる人は本を読んでください(二度目)。資料付きで貴重なそれです。

 下記項目は、澤田氏が書き漏らしたものや(当人からこれは知ってる知らないと判別してもらった資料)の補遺という形で形成しております。

 生涯の全貌を知りたい方は、是非本を買ってみてください(三度目)。

永田キングの前歴

 出身は京都。五女四男の兄弟がおり、男の兄弟では末っ子――というが、その下に盛由という弟がおり、澤田氏もご存知ではなかった。澤田氏にその旨を尋ねた際、「倅たちも親兄弟の正確の人数を知らなんだ」。

 姉に流行亭やちよという人がおり、後年初代桂春團治門下の桂春多楼とコンビを組んで、1970年代まで活躍していた。妹はミスエロ子。また、「狩人」のヒット曲「アメリカ橋」を手掛けた信楽順三の母親も、キングの姉――と、信楽氏当人より伺った。

 本名と年齢は、『読売新聞』(1936年3月13日号)のラジオ欄に出ており、管理人もその写しを持っているので引用。

漫才 東京よいとこ 本誌娯楽版をラヂオでお裾分 永田キング熱演

今度の漫才は本誌娯楽版にユーモア作家中村正常氏との名コンビで「東京よいとこ」を連載し好評を博してゐる永田キング(二七)さんが妹のミス・ペテ子(一七)さんとマイクの前に現はれ「東京よいとこ」の一節をラヂオではお裾分する
キングさんの本名は義一、京都東山中学を二年でおさらばして映畫俳優を志したが十九の時に漫才千鳥會に加はり地方回りで苦労し、昭和七年八月吉本興行部の専属となり、昨年五月横濱花月劇場を振り出しに丗人の漫才シヨーを結成。目下浅草花月劇場で「清水次郎長」を熱演中である。妹のミス・ペテ子さんの本名はチエ子、舞臺ではエロ子なのだがラヂオでは遠慮してペテ子と名乗るのである

 また、三越劇場『三越名人会200回記念 名人鑑』にも生年が出ており、「1910年8月」と尻についているが、真相は不明。

 実家は土建屋で、なかなか羽振りがよかった。その一方で一族揃って変人揃いだったという。

『都新聞』(1940年9月2日号)掲載の『明朗ユーモア座談会16』に、永田キングが自らの経歴を語っている。なお、芸名の後ろのカッコは、管理人がつけたものであり、原文にはない。

キング 問はれて名乗るもおこがましいが、変りまして小生が一席やりませう。僕の親父は建材○(建材屋みたいなことが書いてあるが判読不能)でした。環境が環境でしたから堅気で世を送るなんてえことは、始めから考へになかつたんですね、初舞台は十八の時です、○○一つで舞台に立ちました
川田(義雄)何だね、漫才かい
キング さう漫才だよ、漫才だから一人ぢや出来ません、と云つて相棒がありません、仕方が無いから妹を使ひました
ワカナ(ミス)此兄にして此妹ありですわね
金語楼(柳家)きつとあんたに似たんですよ
キング アハハ……まア僕の妹ですからね、僕に似て人を喰つた奴でしたよ、大体僕の兄弟は変りもので、僕の兄は親父の稼業をやつてゐましたが、会合などへタキシードを着て出かける、始めはかしこまつてゐるが酒がはいると段々地金を現し、上衣、チョッキと段々脱ぎ捨ておしまひには素つ裸になつて踊り出すといふ愉快な人物であります
金語楼(柳家) いい兄貴を持つてるなア
キング で、兄弟漫才を開業することになりましたが、衣裳がありません、妹は女の事なので、何とか着物が間に合ひますが僕は困る、とう/\學生服で舞台へ上りましたが、これがかへつて効果的だつたやうです
川田(義雄)芸名は何てえんだ
キング しぐれ亭とほる
ワカナ(ミス)歌の文句見たいですわ
キング 名前が時雨亭のせいさ、旅廻りには何時も雨につきまとはれ興行師に嫌がられたこともありますよ、廿歳で一座を組織して座長になり、七年程前今の名前に改めたといふ次第です。

 なお、初舞台の時に名乗ったという「しぐれ亭とほる」は、澤田氏の本の中には出ていない。

 一方、「時雨亭文男」と名乗っていたという記録もあり、『大阪朝日新聞夕刊』(1966年4月2日号)の連載『ざい界紳士録45』の中に、

「まもなく野球漫才の永田キングが世に出た。立体漫才である。そしてそのキングこそ時雨亭文男であった」

 どちらが正しいのか知らんが、当初から「永田キング」ではなかったことは確かである。

 また『サンデー毎日』(1936年10月18日号)掲載の『笑ひの人国記G』の中に、

 このうちで、最近、とてつもない珍藝で賣出したキングは近頃にない優秀なナンセンス人であらう。
 彼は明治四十二年京都に生れて、平安中學に二年まで行つた、ところが、この二年の時、例の少年によくある神経衰弱をやつて「學校は當分休んだほうがよい」と医者にいはれて、休學することになつた。その原因は、彼が姉のようにしたつてゐた女性が、結婚してしまつてからのことだつた。
 そこで家のものは、妹のエロ子が、漫才の一座に入つてゐるんで、何なら、年がら年中笑つてゐるような一座について歩けば、気保養にもなるだらう、といふので淡路に興行してゐた妹の所に、のこ/\この失戀少年をおくり届けたものだ。
 大体、素質があつた所へもつて来て、こんな雰囲気の中で生活し初めたのだから耐らない、忽ちのうちに面白くなつてしまひ、神経衰弱なんて、どこへ行つたか跡形もなく、時々太夫が病気かなんかで休んだりすると、その穴へ、代役として出て居つたりするが、これが、また、何ともいへない奇妙な味があつて、お客に受ける。しかも、着てるものといへば、學生服で、野球が好きなほどあつて、とんだり、はねたりする、一切合切、無軌道だ。これが、漫才のお客に受けたんだから、いよ/\本人その気になつちまひ、妹の心配するのもきかず、さつさと學生から、急転直下、漫才師に走り込んでしまつた。
 こゝで三年ばかりやつてゐて、すつかりコツがわかつてしまふと野心がむく/\と起きて来た。世間知らずの坊ちゃん漫才師が、十九歳の若さで、十人足らずの一座を組織して、地方廻りの漫才師一派といふふれ込みで、興行を始めたんだから、相當なませ方だし、心臓の強さでもある。が、廣島で、難破船みたいに、漂流して来て、こゝで沈没の一歩前まで来た。その時、ふツと考へたのが、野球である。元来好きな上に、當時、廣島商業が野球全盛の時で、全国大會に優勝した直後なので、街を歩いて見ると、どこも、かしこも、この野球熱ではり切つてゐたものだ。
 こゝで三年ばかりやつてゐて、すつかりコツがわかつてしまふと野心がむく/\と起きて来た。世間知らずの坊ちゃん漫才師が、十九歳の若さで、十人足らずの一座を組織して、地方廻りの漫才師一派といふふれ込みで、興行を始めたんだから、相當なませ方だし、心臓の強さでもある。が、廣島で、難破船みたいに、漂流して来て、こゝで沈没の一歩前まで来た。その時、ふツと考へたのが、野球である。元来好きな上に、當時、廣島商業が野球全盛の時で、全国大會に優勝した直後なので、街を歩いて見ると、どこも、かしこも、この野球熱ではり切つてゐたものだ。
 早速、廣島のナインの癖を調べたり、それまでの戦績を聞いて調べたり、試合の時のエピソードをたづねたりして、これにちよつと漫才の匙加減をつけて高座に上げて見ると、俄然大受けに受けてしまつた。
 早速、廣島のナインの癖を調べたり、それまでの戦績を聞いて調べたり、試合の時のエピソードをたづねたりして、これにちよつと漫才の匙加減をつけて高座に上げて見ると、俄然大受けに受けてしまつた。
 この、中国の都会で芽を出した漫才は、次第に一流都市を攻め上げ、とう/\浅草や道頓堀の一流所まで陣を張ることになつたのである。
 妹のエロ子は、彼と二つちがひの廿五歳である。
 エロ子といふのは何ともあからさまな、凄い名前ではないか。一時「エロ子はあんまりひどいぢやないか」といふんでその筋から一寸叱られて、ペテ子と、顔の平ぺつたいような名前にしたが、最近もとの名前に還つた。

 とある。19歳、20歳と独立には諸説あるが、若くして独立したのは間違いなさそうだ。

キング漫才師になる

 上にあるように、中央へ進出する前までは時雨亭とほる名義で活躍していたらしい。

『都新聞』(1935年8月2日号)に掲載された『漫才銘々伝』によると、入った一座は花の家福丸・鶴賀梅之助という古いコンビが花形であった。しかし、キングが入って数か月で福丸がドロン。学生服のまま梅之助の相手をする事になり、もう頭も真っ白になって「松の廊下」の寸劇を演じていたという。

 その出来のひどさたるや梅之助が呆れ、キングも無我夢中の代物だったというが、観客は詰襟の学生が塩谷判官を大熱演するという珍妙さに大爆笑の渦を生み出し、これがキングの大きな自身となった。

 この広島の駆け出し時分に偶然舞台を見ていたのが、後年、東京漫才の大御所となる大空ヒットであった。ヒットは自伝の中でその印象を書いているが、澤田氏の本に詳しく書いてあるので、省略する。

 駆け出し時代に入っていたという千鳥会は、謎が多いが、どうも「千鳥家力丸」なる漫才師が主宰していた萬歳一座で、門弟たちが「千鳥家」と冠していたのが特徴的であった。このビラを入手したので、追々追記する。

 1932年頃、永田キングと名を改め、吉本興業部に入社。1932年8月時点には永田キングと名乗っていたようである。『上方落語史料集成』の、1932年の記事に、

大阪の寄席案内

十二日より △南地花月 新昇、小雀、おもちゃ、一光、扇遊、エロ子・キング、五郎・雪江。余興「娘都々逸」、「三人舞踊」、「落語相撲」、「歌舞伎レビュー」、「怪異百物語」(右余興出演者:紋十郎・喬之助・九里丸・延若・円枝・千橘・染丸・五郎・蔵之助・小円馬・小春団治・文治郎・三木助・春団治)

 とある。以来、アクションを生かした漫才でみるみる頭角を現し、吉本の看板漫才の一組に数えられるようになる。

 1933年以降は毎月、掛け持ちのように一流の寄席に出演を続けている。その年表が本に出ているので、詳しく知りたい人は読んでください(投げやり)。

キングの上京と漫才ショウ

 1933年11月、上京し、浅草万成座に出演している様子が、『都新聞』(11月20日号)の広告から知れる。

 1934年2月、RKOの映画『爆笑王キング万歳』に主演。

『都新聞』(1934年1月16日号)に、このゴシップが出ている。

太秦トーキーでは、春の第一作として「キング万歳」といふのを作ってみる、永田キングといふ東京じゃ余り有名前でないが、関西では売り出しの万歳師を主演させたものだが、監督の水島正雄も、脚色の浅野秀治も、この方面には新人だけに一般案内で、みにしてゐたのは、キングの助演者ミスエロ子の御入来であつた「名からしてエロ子、ウフッ!と云つてみたら、何と現れた二人顔合せて「名は體を現さネーな」

 1934年8月21日より新橋演舞場で行われた『吉本興業第二回爆笑漫才大会』に出演。この大会は大成功をおさめ、東西での漫才ブームをおこす一石となった。

 1934年11月、宝塚劇場に出演。『大阪毎日新聞』(11月16日号)に、

◇吉本興行が宝塚へ進出 今夏の東京新橋演舞場での好成績に気をよくした吉本興業部では今度宝塚大劇場に進出し「落語と万歳の笑ひの夕」を十六、七の両夜午後六時半から開催することになつた。出演者はエンタツ、エノスケ、五郎、雪江、エロ子、キング、枝鶴らの一流どころ。

 1935年9月、横浜花月に進出。ここで成功を収めたため、11月、浅草花月に進出。長らくここで打ち続けることになる。

 1936年1月、『新喜劇』(1936年2月号)に『漫才シヨウつれづれ』を掲載。これは澤田氏の本に出ていないので丸々引用しよう。

漫才シヨウつれづれ 永田キング

東京へ来てから、まだやつと二ヶ月で、やりたいと思つてゐることの十分の一、いや百分の一にも手がついてゐない。ひと一倍、野心の多い僕のことだから、一つやつてみては不満を感じ、またやり直しては不満、未だかつて得心したことがない。
 一本舞臺に出して十日間、次の替りまで毎日演出が變つたりしたことがある。考へやうに依つては怪しからんことかも知れないが、僕は初日からラク日まで一回でも型にはまるのがいやだといふ氣がしてならない。いまのところでは、一切が研究である。殊に初日の第一回目などは、いつも舞臺稽古のつもりでやつてゐる。お客さんには重々済まない話だが、十日替りでは充分に練習出来ず、次から次へと新作をやつて行くのだからどうしてもさうなつて来るのだ。
 日を重ねるに從つて板について来る。だから僕等のシヨウは、ラク日になつてやつとどうにか満足出来る程度に運んで行く。然も同じ臺本を二度目にやる時は安心できると思つたら間違ひだ。その時はまたアイデアが變つてゐるから、結局いつも同じことを繰り返してゐるのだ。
 漫才シヨウといふ名をつけたには別に本質的な理由があつたのではない。僕は以前漫才師であり、二人漫才から構成漫才となり、それが舞臺上では一種のシヨウ形式になつて見えるといふ批評があつたのてわ、それではといふところから「漫才シヨウ」なる名称が生れたのだ。
 漫才シヨウでは随分と徳なところがあるが範囲が狭いといふ點では損なこともある。今のところは漫才シヨウでもいゝが、やがてはその形式が自然に變つて来るだらう。
 しかしどつちにしろ漫才シヨウには自信がある。ただ新形式であるだけに関係者一同に飲み込みにくいことがあるのがこまる。僕等の舞臺を見ると、随分出鱈目に見えるだらうが、その出鱈目を二日も三日も寝ずに考へた上でやつてるんだから、おかしなものだ。僕等が出鱈目をやらなくなつたらおしまひだらう。
 シヨオといふからには、レヴューでもなし劇でもない。なにかさういふものに挑戦して行く。形を壊して行く。
 臺本でもなんでも自分一人でやりたい。本質的ななにものかが見出されるまではさうしないと不安なやうな氣がしてならない。
 細かいことはまだ何一つ云へない。ただ抱負のみ、それだけだ。熱心に見ていたゞき、熱心な批判を受けたい。決して妥協はしないつもりだが、何にも云はれないと淋しくなる。どうぞ宜しく。

 1936年1月、花月劇場の漫才ショー「殴られた彼奴」の立ち回りの中で負傷。『都新聞』(1月29日号)に、

花月劇場の漫才ショウ「殴られた彼奴」の立廻りで永田キングが怪我をして一日休演、これでは不死身のキングも看板をおろさなければならない譯だが、その怪我の模様が鶴嘴で眉間を割られたとあつては、なるほどこれぢやいかな不死身のキングでもたまるまい

 1936年3月13日、漫才として、ラジオに出演。タイトルは『東京よいとこ』。

 1936年4月、『ヨシモト』(1936年4月号)に『舞臺見たまゝ むつしゆ次郎長』を掲載。

 1936年4月6日、『都新聞』に「ユーモア芸談」なる漫才ショウ所感を掲載。以下はその引用。

ユーモア藝談 ニユース第一
僕にもわからない万才シヨウの定義

 漫才シヨウ、これは僕が創めて、僕がやつてゐるのですが、さて漫才シヨウとは何ぞや、テナ事になると一寸困るですナ、漫才シヨウなるものに就いては、まだ定義めいたものはないのでーーだから批評家もいろいろに言ふです、やる事が演劇に近いので、これを演劇的に扱つて批評家はケナスです、然し漫才シヨウは演劇ではありません、然るが故にこれを演劇として扱はれては、全く一たまりもない事になるです、然らば一體漫才とは何ぞや、といひますと話がまたもとに戻りますが、いくら何ぞやを繰返しましても、正直のところこれを創めました僕にもハツキリと何だか判らないのです、ですから勿論作者も判りません
 既に役者判らず、作者判らず、とすると批評家だつて判らないのは當然な話で、かう三方判らないといふ判らない話もないですナ、するてエと漫才シヨウといふものは、皆目得體の判らないものかといひますと、これを他の類似的なものに比較対象して見まして、聊か形がボンヤリながらも現れない譯ではなく、即ち漫才シヨウはエノケンに非ず、緑波に比べて緑波に非ず、更に曾我廼家に非ず、新喜劇に非ず、といふ譯で兎も角何だか判らないが、是等の喜劇以外のものだといふ事は認めて貰へますナ
 而も漫才シヨウはこれ等の喜劇のうちのあるものゝやうに踊も唄もないので、どうもレベルの低いものゝやうにも見られ勝ちですが、然しこれ等の演劇が既に演り尽したものをその中に取り入れ活かして行く所に漫才シヨウの特質はあるです、従つてエノケンが演つた村井長庵なら村井長庵を僕は僕の村井長庵として漫才シヨウとして見せる自信はあります、それから漫才シヨウの持つものに就いては、これはどの演劇の場合もさうでせうが、場面轉換、即ち明るい場面から暗い場面、センチメンタルな場面から朗らかな場面の轉換は、軌道によらない思ひ切つたものがあります、これは普通の漫才のヤリトリの轉換の精神を場面の動きにとり入れたものに他ありません
 次に漫才シヨウは、ニユースを極端に尊びます、そしてこれを自由に取り入れます、ニユースに就ては百本の臺本のうち九十八枚が、あとの二枚のニユースにすつかり押されて仕舞ふ精神に生きまして、毎日でもこれを自由に活かします、で僕の漫才シヨウの脚本は最初は十枚位であつても十日間演つてゐる間には二十枚になるのが普通です、デハ最初の脚本はどんな風に書かれてあるかといひますと「こゝで客笑ふべし、以下よろしく」テナ工合に大いに役者に自由な餘地を與へ、漫才精神の當意即妙と、ニユース精神尊重に資する所あらしめます
 次に漫才シヨウは、ニユースを極端に尊びます、そしてこれを自由に取り入れます、ニユースに就ては百本の臺本のうち九十八枚が、あとの二枚のニユースにすつかり押されて仕舞ふ精神に生きまして、毎日でもこれを自由に活かします、で僕の漫才シヨウの脚本は最初は十枚位であつても十日間演つてゐる間には二十枚になるのが普通です、デハ最初の脚本はどんな風に書かれてあるかといひますと「こゝで客笑ふべし、以下よろしく」テナ工合に大いに役者に自由な餘地を與へ、漫才精神の當意即妙と、ニユース精神尊重に資する所あらしめます
 新喜劇は役者よりも作者を大切に立てますが、漫才シヨウは作者より何より、見物を一番大切なものにし、これに対して最も忠實です、まア漫才シヨウとはざつとこんなものです、といつてもこれだけではまだ判らんでせうが、さうなると先づ實物を見てからといふより仕方がありませんかナ、漫才シヨウは大いにこれからです

 4月12日、『サンデー毎日』に漫才台本を掲載。メモだけしてあって、現物はない。あるのは確認しているが、2021年のコロナ禍のせいで見に行けない状況にある。

『東京朝日新聞』(1936年6月25日号)掲載のサトウハチロー『漫才の強味 前途は洋々漫才バンザイ』の中に、永田キングの事が取り上げられる。

 永田キングといふ男がゐる。いまでは漫才シヨウなるレヴューの變型をやつてゐるが、この男のよさは、漫才でたゝいて来たよさだ 僕は「弾ずむ歌」なる小説の中で鼻でハモニカを吹く男のことを書いた、ところがそれから後に、キングの舞台をみたら、ちゃーんと鼻で吹いてゐるのだ。それから又一二月後に見たら、今度はハモニカにゴムバンドをつけて頭の後へしばりつけて、手をつかはずに、ゴムののびちゞみを利用して上唇の上へハモニカをのツけて鼻で吹いてゐるのだ。
「おもしろいッ」
 手をたゝいて感心した。浪花節のメロディをとつてハモニカで吹いてゐたのよこの男だ。だが漫才には進歩がある。キングが漫才からシヨウの役者に転向したのはたしかに他のレヴュー役者のシゲキとなつていゝだらうと思つてゐる。

 7月、大衆雑誌『日の出』に、漫才台本を掲載。これも上と同じ。

  10月21日封切りのPCLの映画『かっぽれ人生』の主演。所謂B級の喜劇映画であるが、キングがアクロバットな演技を見せたり、香島ラッキー・セブンが漫才を披露したり、と中々侮れない作品である。これは現存している。

 11月、『ヨシモト』(1936年11月号)に『映画物語かっぽれ人生』を掲載。

 1937年2月、『ヨシモト』(1937年2月号)に『上演脚本 ギャング街』を掲載。

 4月、『ヨシモト』(1937年4月号)に『漫才シヨウ 學生三代記』を掲載。以上の記事は復刻版で見る事が出来る。

 1937年9月封切りのPCL『楽園の合唱』に出演。これも現存している。

新興演芸部移籍騒動と太平洋戦争

 1938年年末、吉本との契約が切れるのをいいことに、満州巡業へ出発。このタイミングで新興演芸部に移籍。

 1939年3月、吉本興業から新興演芸部に勝手に移籍したため、吉本興業とトラブルを起こす。この移籍は裁判沙汰となり、吉本から訴えられた。

『都新聞』(1940年8月4日号)に、

「吉本では永田一座を相手どつて裁判沙汰にまで及び、大阪に於て十数回の裁判が行はれ、キング一座は新興キネマに引抜かれたものの、新興演芸部としての興行が出来ずこの間地方巡業を行つてゐたが、吉本新興の和解成立とともに正式に新興傘下の舞臺に出演が可能になつたもので」

 とある。

 以来、ミスワカナ・玉松一郎、西川ヒノデ・サクラなどと共に新興演芸部の主砲として活躍。一幕物を担うなど、喜劇俳優としても活躍した。

 1940年8月、久方ぶりに東上し、花のお江戸の新橋演舞場でお目見え。『都新聞』(8月4日号)に、弟の永田ポンヂと共に紹介されている。

 片腕で舞臺へ 徐州會戦で名誉の負傷 永田キングの弟盛由君

新興演藝部の第一回新橋演舞場進出公演は、八月一日初日で幕を開けてゐるが永田キングの一座が三年振りで東京の舞臺に姿を現したのが目を惹いてゐる
 キング一座には御承知の通り吉本興行から新興演藝部に引抜かれたものであるが、引抜きにからまり契約の不備もあり、吉本では永田一座を相手どつて裁判沙汰にまで及び、大阪に於て十数回の裁判が行はれ、キング一座は新興キネマに引抜かれたものの、新興演芸部としての興行が出来ずこの間地方巡業を行つてゐたが、吉本新興の和解成立とともに正式に新興傘下の舞臺に出演が可能になつたもので、従つて、こうした経緯から、東京の舞臺へは三年間姿を現さなかつた譯である、そのキングの演舞場の出し物「月形半平太」に、新選組の隊士に扮してゐる片腕の俳優が観客に異様な感じを與へてゐる
 この俳優はキングの實弟永田ポンヂで、本名は永田盛由君と云ひ、昭和十二年八月、聖戦勃発直後名誉の應召を受けて勇姿出征、十三年五月徐州の戦ひに於て負傷不幸左腕を切除した傷痍の勇士であり、帰還後上等兵となり除隊したものであるが其後不自由な身體の為療養につとめてゐたが、舞臺への愛情断ち難く、再び兄の一座に協力する為め最近返り咲いたとのである、ポンヂ君は語る
 不自由な身體なので顔をつくるにも他の人より半時間も前にかからねばなりません、然し私の第二の戦場と云ふべき舞台臺を断念することは出来ません

 ただし、澤田隆治氏に伺った話では、「横山ホットブラザーズの兄貴(アキラ)が、『僕らも若い頃おやじと一緒に永田キングの一座にいましたが、おやじ(東六)が永田ポンヂとちゃいます』いうてはった」。

 1943年、出征され、大阪の川村部隊に配属。3年ばかり転戦を続け、最終的にはハルマヘラ島にいた。

 奥田宗広『私は音楽が好き』によると、奥田は上官の頼みで慰問団を結成。当時ハルマヘラにいたのが、永田キングと曾我廼家二三蝶だったので、三人で手を組んで各地を慰問したとある。

 敗戦後、同地で抑留され、引揚げを待った。帰ってきたのは1946年だというのだから遅い。

戦後のキング

 戦後は、一時期大阪にいた後、地方巡業に出、長らく静岡にとどまっていたという。

 1948年3月11日から10日間、国際劇場に出演。長谷川一夫、ディック・ミネ、笠置シズ子、古川緑波、水の江瀧子、草笛美子、東海林太郎、内海突破・並木一路という豪華メンバーの中での出演であった。

 1949年6月、川田晴久の斡旋で日劇『アラブの盗賊』に出演。その大抜擢には、大いに期待と張り切るところがあったらしく、『スクリーンステージ』(1949年6月14日号)に、

 来年は満願の永田キング 10年振りに丸の内へカムバック

往年浅草六区の人気をさらつた猛優永田キングが10年ぶりで丸の内の日劇に登場した、戦後一度東劇と国際の舞台を踏んでいるから厳密にいえばうそになるが、そのときは僅か数日の公演とあつて世人の関心を得るに至らなかつただけに今度が本当のカムバックといえるわけだ、記者は「アラブの盗賊初日」に楽屋インタービューを試みた
『十年間東京を離れていたらお客さんが全然私を知らないという点で一抹の寂しさを感じますが、ニユーフエースになつたつもりで臨めば又愉しさもありなんとも複雑な感情です』ーー舞台とはうつて変ってもの静かな口調で語りだした彼は、「再出発を期して三年の願をかけ来年が満願になるのでそのときこそ研究の成果をみていたゞくつもりです」と謎のような言葉を洩らした、数々のギャグを記した独特の譜面をつくつている彼、大小とりまぜて五百の脚本と三十の漫才台本をかいた今様曾我廼家五郎は此の「アラブの盗賊」を打上げてからはまた実験移動劇團ともいうべき仕事を地方でつゞけるつもりだという、今年四十歳、まだ/\働ける年齢であり問題の来年に果してどんな手を打つか、他ならぬ永田キングのことだからボードビルの世界をアツといわせるかもしれない、

 と、意気揚々と語っているが、あまり上手く行かなかった。『内外タイムス』(1949年6月12日号)の劇評に、

 アラブの盗賊 日劇ショウ

川田晴久、永田キング、高屋朗、草苗美子、石井亀次郎、山村邦子にNDT、ダイナ・ブラザーズ、これだけの持役を使いながら、楽しいショウに出来なかったのは何んとしても演出(白井鐵造)の責任であろう。十分に本領を発揮して光彩を放っているのは川田ただ一人、キングのギャグには客席から一向に笑声が湧かない、もちろんキング自身にも向上の跡が見えず十年一日の古臭いギャグを散発してちる不勉強も責められるが、活かす箇所を踏えてない演出にも責がある、往年の宝塚のプリマドンナ草苗もこのショウでは過去の名声に傷をつけるだけ、高屋は例の悪ふざけを封じられて却ってよく、石井、山村は相変らぬ大根ぶりをたつぷり見せている、NDTの踊り子たちが一様に巧くなって来たのが目立つが、ズバ抜けた娘がいないので、刺身のツマ的存在から抜け切れずにいる、思いつきに負けたショウの一見本

 とボロカス貶されている。

 こうした悪評やキングの不摂生もあったのだろう、同月19日、ヒロポン禍や過労のために体調を崩し、休演。 

 その錯乱ぶりから、早くもヒロポン中毒だと目されていたらしく、各社はそれとなく書き立てたが、『スクリーンステージ』(6月28日号)は

発狂はデマ
過労で倒れた笑いのキング

日劇「アラブの盗賊」出演中の18日夜日劇前でたおれ千秋楽の19日も遂に休場したギャグの猛優永田キングはその後順調に恢復したが、傳えられたヒロポン中毒による急性中毒幻覚症とは誤報で原因は過労とのこと”ヒロポンではなく、ヒローでポンと倒れたのです”病院へ運ぶのに円タクや輪タクでは面倒くさいと救急車を呼んだので騒ぎが大きくなつたとはキングらしい話だ

 と、過労説を展開し、話題の方向転換を薦めた。然し、澤田氏や遺族によるとやはりヒロポン中毒だったらしく、体面を保つ為に疲労のために休演――という形に扱われた模様である。

『読売新聞』(1950年1月19日号)に、

「去年の夏、日劇出演中にヒロポン中毒の結果発狂した永田キングはその後京都の自宅で静養中だったがこの程全快し早速京阪神の進駐軍慰問に歩いている。 」

 とある。澤田隆治氏から伺った話では「姉貴の流行亭やちよさんの家で療養してはったそうですわ」。

 親父に倒れられた倅たちは、自主公演やほかのコメディアンの手伝いをして何とか生計を立てたという。

 猪狩定子氏から伺った話では、「キングさんの倅二人……ミッキーと誰だっけなあ。その二人が、うちの兄貴の、ショパン猪狩の助手をやっていたこともありますよ。」

ちなみに妹のエロ子は、戦後「永田チエ子」と改名し、女優として舞台に立っていた。1951年から1952年までの半年、歌手の美ち奴を座長に、永田京子、コメディアンの深見千三郎と上田五万楽、それに姉夫婦の流行亭八千代・歌麿と共にハワイ・アメリカを巡業している。

 その後、引退し、京都に居を構え、平成頃まで健在だった――と歌麿の遺族から伺った。

キングの晩年

 復帰後は、野球漫芸を中心に、進駐軍慰問やOSミュージック、北野劇場といったストリップ系の小屋を中心に出演した。澤田氏が見かけたのはこの頃であったという。

 1954年11月7日、毎日新聞主催の「谷津遊園演芸大会」に出演。出演者は、

司会・漫談吉井俊郎、奇術川畑陽子、ハーモニカと漫画葉茂狂児、体技川田三知夫、ベースボールコメディアン永田キング、曲技東富士夫、歌テイチク原田美恵子、美ち奴、楽団ブルーナイト

『毎日新聞』(11月5日号)

 1955年10月14日、NHKのヴァラエティショウ「テレビ楽天地」に出演。

 出演者は、霧立のぼる、中原美紗緒、上原町子、松竹歌劇団、内海突破、益田喜頓、フランキー・堺、市村俊幸、中田康子、大泉滉、並木一路、松井翠声、宮城まり子、カワベキミオ、松旭斎天洋一座、モリリン奇術クラブ、永田キングー座、中川トルウパース、シティスリッカーズ。

 1956年4月10日、NHK『舶来寄席の夕―俳優座劇場―』に出演。

 出演者は、小野田勇、越路吹雪、中村メイコ、フランキー・堺、三木鮎郎、三木のり平、森繁久弥、柳家金語楼、楽団シティスリッカーズ。

 1956年5月9日、NHK『演芸』に出演。

曲芸 キャンデー・ボーイズ 鏡味次郎 吾妻孝志 鏡味健二郎
漫談 マキノ洋子
漫芸 永田キング 永田 チャリー 永田 ミツキー 永田 チコー

 年月が不明であるが、この頃取材されたであろう新聞記事の切り抜きを、青空うれし氏が所有していたので、引用。プロ野球開始の年から20年という所から、1956年頃の記事と思われる。

 ハイッ! ごかっさい⑫ 野球漫芸 永田キング

長男のミッキー、二男のチャーリー、三男のチコ、それにお父さんのキング、親子水入らずの野球漫芸チームは、四人のスタープレーヤーから成る世界最小の“プロ野球チーム”である。 舞台がグラウンドになるせいもあろうが、一座を組織するキングは監督兼ピッチャー兼キャッチャー、それに四番バッター、ピンチヒッターという一人五役、例えば長男ミッキーが、バットを一度すると、写真のようにのみシリのところ一 に考えた捕手役のキングの頭上をシュッと快音を残して一回転する。また他の二人のプレーヤーもランナーになったり、一塁手になったり、テンヤワンヤの珍プレーをスリルのうちに続出する“高速度転換プレー”が見もので、衝突したり、ケガをしないのが芸の見せどころ。監督のキングは「戦前は浅草の花月劇場で、野球ショーをやっていましたが、そのうち長男がメンバーに加わり、ついで二男、三男と一座に加わって、やがて孫娘もメンバーになると思います。プロ野球といっしょに生れたので私の方も今年で二十年選手になりますかな。野球漫芸は、曲芸に近いようなもんですから百回に一回ぐらいのエラーがありますね。しかしそこは肉親達だけでやっていますので、私から申すのもおかしいですが、なかなか気合が合いましてね。三男のチコは子供のころからやっていますからもう十年選手になります。この仕事をやりだしたのはその昔“ブラウンの怪投手”という喜劇映画を見てからですから、大ロブラウン (現在米国で野球解説者として活躍)は大先輩となります。ニューヨーク・ヤンキースが来日した時、ワシントン・ハイツでステンゲル監督から“アメリカでもメシが食えるよ”と賞められて大いに意を強くしましたね」 と笑う。そういえば、キング一座は、米軍キャンプが主な仕事場で、その合間にテレビとかキャバレーなどに出演しているが、 後楽園球場でやってみたいというのがキングの夢。舞台を離れて二十戦十一勝のかぼちゃチーム(関西芸能人で編成)のメンバーでもある。

 1957年9月7日、NHKホール収録の『芸能特集』に出演。

ジャズ 原信夫とシャープス・アンド・フラッツ 歌 朝立雪路、東郷たまみ、有島一郎
スポーツショー   永田キング一座
しょっきり     生駒山、海州山
モダンミュージック コーラス ダーク・ダックス 中村八大モダン・トリオ
フランキーショー  フランキー堺、シティー・スリッカーズ
タップダンス    荻野幸久タップ・トリオ
ラインダンス    SKDアトミック・ガールズ シティー・スリッカーズ

 1958年1月、渡米。前年11月頃から渡米の報道は出ていた。当地でテレビに出た後、一度帰国。

 1958年3月26日、NHK『テレビ木馬館』に出演。出演者は以下の通り。

「野球ショー」永田キング一行 キング・チャーリー・ミッキー・チコー
「曲芸」松旭斎天右一行 松旭斎天晴・小天右・小文
「漫画」春田美樹 ピアノ伴奏 末広ゆき 

 1958年5月10日、NHK『連続ヴァラエティー「びっくり百科」(17)』に出演。「野球」と「バードデー」に因んで、永田キングー行と、日高第四郎と小鳥友の会という変な組み合わせである。

 1959年から1961年まで、ラスベガスのニューフロンティアホテルのショーに出演。澤田氏曰く「三兄弟にあれこれ問い訪ねましたが、答えてくれなくて困りましたわ。沢山ギャラもろうたけど、ギャンブルですって自分たちで先に帰国、親父はブラジルに行った、なんて返事しか来なかった。」

 1961年4月〜秋、倅たちと別れて、ブラジル巡業へ出発。

 1963年5月5日、NHK『こどもの日大会「へんなお家が笑ってる」』に出演。

 共演者は、池田秀一、安田マリ子、江戸家猫八、市川すみれ、森山加代子、武智豊子、千葉信男、黒柳徹子、玉川良一、左とん平、友竹正則、ダーク・ダックス、スリー・グレイセス、永田キング、ゴールデン・アームス。脚本の一人に、『ダウンタウンヒーローズ』の早坂暁がいた。

 1964年4月27日、『お笑い娯楽館「粉骨砕身」』に、出演。

 共演者は、三笑亭笑三、泉 和助、晴乃チック・晴乃タック、向井十九、奈加英夫、竹村奈苗、小野栄一、水野純交とグラマシー・ファイブ。脚本は、あの人気作家の小林信彦である。

 1967年4月29日、この回はエンタツ・アチャコが最後に共演したという貴重性も加味されてか、NHKに保存されている。

 管理人もライブラリで見たことがあるが、夢路いとし・喜味こいしの司会、若井ぼん・はやとの漫才と続いて、永田キングの野球コント――最後、それを受けて、エンタツ・アチャコが「早慶戦」をやる、というものであったが、当のエンタツ・アチャコは半分耄碌していたせいか、あの伝説とされる「早慶戦」を再現することはできず、単なる雑談で終わってしまったのが残念である。

 1964年6月9日より、日劇『グランドショー’64』に出演。これが公に残った大舞台の記録、らしい。

 1968年3月22日、NETテレビ『テレビ演芸場』に出演したのが最後か。

 最後は謎の病に罹患し、一進一退の末に亡くなったという。結末は澤田隆治氏の『永田キング』で調べてみてください。

 倅たちは、親父が一線を退く前後で、「キングキングキング」なるコメディグループを結成したが、自然解消した。

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