松原勝美
晩年の松原勝美
高田幸若とのコンビ(左が勝美)
人 物
松原 勝美
・本 名 松原 克巳
・生没年 1907年~1967年3月1日
・出身地 大阪?
来 歴
戦前戦後活躍した漫才師。しゃべくり漫才全盛の中で、漫才の前身の一つである軽口の趣を残す漫才コンビとして、独特の孤塁を守った。桂米朝などの随筆に出てくる名お茶子・おくらはん、こと、松原くらは、この人の妻。
出身は不明であるが、山川静夫『上方芸人ばなし』の中に、「花蝶の家は錺職人。勝美の父親は住職。」とある所から、出は厳格だった模様。
『大阪朝日新聞夕刊』(1966年3月9日号)に掲載された三田純一『ざい界紳士録』によると、尼さんにかっぽれを習い、それを褒められたのがきっかけで、芸人になったとの事。いい加減な尼さんである。以下はその引用。
「わたいは、尼さんからかっぽれを習いました」
勝美がいう。尼さんがかっぽれとは…? それもそのはず彼はお寺の息子。たまたまそのお寺にいた尼さんが芸事を仕込んでくれたのが病みつき。
「お経を上げる声がええさかい…」
芸人になりなさい、としかけたというから罪な尼さんである。
芸人になりたい、と申し出たら、「とんでもない。芸人はなるものやない。あれは一人前になってから見るものや」と激怒されるが、時すでに遅し。実家を飛び出して芸人になってしまった。
相羽秋夫『上方演芸人名鑑』に、経歴が出ているので引用。
松原勝美 まつばらかつみ【漫才】
本名松原克己。一九〇七(明四〇)~一九六七(昭四二)
最初落語家で桂枝香と言ったが荒川千成門下となって漫才に転向、荒川千坊と名のる。その後この名に改める。落語ネタや軽口ネタを導入し、晩年は一輪亭花蝶との息の合ったコンビに定評があった。夫人の松原くらは、角座のお茶子としてつとに名をはせた人である。
ただ、落語家であったという記録はいささか心許ない。桂枝香という芸名は、師匠の荒川千成が噺家時代に名乗っていたものである。
荒川千成に入門して、「荒川千坊」と名乗る。若い頃の動向には謎が多い。師匠の一座に居て、全国巡業をしていた模様か。
1935年ころ、吉本興業に入社。高田幸若なる先輩とコンビを組んだ。
高田幸若は、吉本の大先輩、高田水月・朝江の弟子にあたる。
当時は先鋭的な若手と目されていた。
戦時中に一輪亭花蝶とコンビを組んで、「一輪亭花蝶・荒川勝美」を結成。1944年にはコンビを組んでおり、吉本系の劇場で活躍。『近代歌舞伎年表京都編』に
〇四月(一)日~ 花月劇場
エンタツの芝居 神谷鶴蔵作演出
時代劇 明治維新街道 全五場 エンタツ エノスケ 橘多美夫 大倉多一郎唄と手風琴 三根耕一音樂集団
【出 演】 唄(福田文子) 手風琴(小泉幸雄)漫才爆笑陣 【出 演】志津子・寿郎 麗子・繁子 勝美・花蝶 朝江・水月 鈴子・鈴若 美雁・雁正 美代子・一蝶 奇術 正一
とある。戦後しばらくも「荒川勝美」と名のった、とワッハ上方の資料室のパンフレットなどに残っている。
公的な記録としては『近代歌舞伎年表京都編』に載せられた、1947年5月京都座の番組表、8月京極演芸館の番組表、同年9月11日、戎橋松竹が開場した際の番組表がある。
5月、京都座。
〇五月(二十四)日〜(二十七)日 十一時より二回京都座
大阪名流演芸大会
【番組】漫才 文ノ家たより・恋しく 音曲と踊り 橘家小円太
浄瑠璃さわり集 豊竹東昇 講談 旭堂南陵 漫談 丹波家九里丸
落語 笑福亭松鶴 舞踊色くらべ 坂東三之丞 落語 桂春団治
軽口 一輪亭花蝶・荒川勝美
8月、京極演芸館。
〇八月(十一日)~ 朝十一時半開演 京極演芸館
【納涼演芸大会番組】
麗人ノ全裸歌誦劇 霧笛(大林護歌劇団)
万 才(美松勝子・花の家福太郎 文の家たより・恋しく 平和花楽・ニコニコ 一輪亭花蝶・荒川勝美 松葉家喜久奴・奴)
戎橋松竹のこけら落とし。
戎橋松竹こけら落とし
軽口 荒川勝美・一輪亭花蝶
舞台開笑三番叟 平和ニコニコ・喜音家花楽
落語 桂米団治
奇術百種 一陽斎陽一
落語 桂春団治
漫談 丹波家九里丸
東京落語 三遊亭金馬
万歳 寿御膳獅子引抜き二見浦初日出 浪花家芳子・市松
以来、上方漫才の中堅として活躍。淡々たる話術と軽口風の古き良き漫才で人気を集めた。
1953年ころ、松原勝美と改名。なぜ「荒川」姓を捨てたのかわからんよ。
晩年の舞台の様子を桂米朝・上岡龍太郎が『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中で語っているので引用。
私がのちに、あれたった一ぺんだけやったなァと思ったンが、花蝶・川柳というコンビ。兄弟漫才やってンけどね、兄貴の川柳さんが兵隊にとられてね、戦死した。それで、あの花蝶さん、いろんな人とコンビを組むようになったンや。
上 岡 ぼくらの時代は松原勝美師匠と組んでやってましたですね。
米 朝 花蝶・勝美、これもやっぱりええコンビやったけどねェ。花蝶・川柳も面白いコンビやった。秋田實はんの『秋田實名作漫才選集2』(日本実業出版社刊)に、この花蝶・川柳の『お笑い明石めぐり』というネタが入ってるけどもね、これは五代目の笑福亭松鶴師匠から聞いたンやけどね、明石でラジオの生放送があった。その時分、録音なんてあらへん。五代目に、「明石にええネタおまへんか」というから落語の『明石名所』をすっくり教えた。そやから同じやねん。新しいクスグリ(ギャグ)は入ってるけどな。
上 岡 花蝶・勝美の頃も『雑俳』 みたいなンの、漫才版をやってました。
米 朝 あれはよう出来てたなァ。
上 岡 ぼくは、漫才でいうたらですね、当時からキチッとした漫才が不思議と好きでした。松鶴家光晴・浮世亭夢若の『お笑い曾我物語」とかですね、ああゆうキチッとしたネタが好きやったンですよ。それで寄席の世界へ入って、花蝶・勝美さんの『雑俳』やとか『りん廻し』とかああいうのが好きでねェ。
米 朝 『国づくし」のネタでもよう出来てたな。ところが録音があんまり残ってないねん。惜しいわ。『雑俳」はつまり、川柳みたいな俳句みたいなわけの分らンことをいいあるく。「フクジュソウ、六畳一間で五千円」みたいなね、「なんやそれ」「うちの近所のアパートや」「誰がそんな、福寿草という花や」「花は嫌い」「あんなことばっかりいうてンねや」。「伊賀から出た芭蕉」ちゅうのが、「イガから出るのは栗じゃ」。
上 岡 「初雪や二の字二の字の下駄のあと」「そんなん、わしでも出来る」「初雪や一の字一の字一本歯の下駄のあとちゅうてね」「そんなんではアカン。見たままをいうたらええねん」「初雪やこれが塩なら大儲け」「あ、それでええ。そんなもンやろ」「初雪やこれが砂糖なら大儲け」「うん、まァ、それもええなァ」 「初雪やこれが味の素……」「あんなんばっかりいうてンねっ」というね、このくり返しの面白さでね。さっきの「フクジュソウ、六畳一間で五千円」でね、「なんやそれ」「アバート、アバート……」。これがね、アパートといわんとアバートというあたりが面白かったですね。「くちなしや鼻から下はすぐに顎」「ボタンでいける」「洋服の……」「お前、ちょっと考えてやれよ」という、何でもすぐにやる(笑)。好きやったンが、「古池や蛙飛び込む水の音。これが今までで一番大きい句とされたあるな」「そんなもン何が大きい。わしらもっと大きい句作ったる」「そんならやってスィ」「大海や象ほり込んでドブンかな。どや大きいやろ」「そら見た目が大きいだけやないかい」というね、あのいつやっても寸分狂わぬという、これが好きでね。その花蝶・勝美さんが一度だけボロボロになったンを目撃したことがある。京都花月で。あれは昭和三十八年の五月三十日にミスワカナ・玉松一郎の一郎先生が亡くなられはって、山科でお通夜があって、皆、ベロンベロンに酔った。次の日の京都花月の出番は皆、酒でベロンベロン。まだ、花蝶さんはちょっとしっかりしてはるけど、勝美さんがもうボロボロ。「(酔いながら)お前はアホか……」これしかいわん (笑)。「ほんならりん廻しといくか」「お前はアホか」(笑)。でも、 あの頃のお客さんはそんなに怒らなかった。
米 朝 正月なんか、よう酔うてやってましたわな。花蝶さんという人は間をもてる人でしたけどね、勝美さんがコンビ別れをした時に木村郁夫(美雪)という元・活弁士と組んでたことがあった。 その時に、「やっぱり花蝶師匠とのコンビの方が私らええと思いますけど」というと「いや、花蝶は太夫(ツッコミ)をつけさしたら日本一や。けど強情でっしゃろあのおっさん、人のいうこと聞きよれへん」。自分の演出にすべてしたがわす。それでチョイチョイもめた。まァ、晩年は何もいわンようになってたけどね。
最晩年は吉本系の劇場で活躍したほか、俄・軽口のできるコンビとして重宝され、テレビにも進出。
吉田留三郎『まんざい太平記』によると、「ソッテン芝居」(落語にもある)という珍品をテレビに持ち出したことがあるそうで、芝居狂の床屋とお客が芝居がらみでドタバタの髭剃りを演じ、顔を切られて膏薬を塗りたくられる――という舞台で注目された。
1963年11月12日、コロムビアトップ・ライトの主導・演出の下、東京サンケイホールで行なわれた『漫才変遷史』に「軽口」として出演。いかにも古風な芸で注目を集め、東京の客の関心を得た。この時の音源は確か残っているはずだが、未確定事項。
また、1967年、国立劇場が開場した際には民俗芸能公演の一環として、この花蝶・勝美の「軽口」を呼ぶ噂もあったそうだが、その直前に夭折。
1967年2月まで鷹揚と仕事をこなし、3月もうめだ花月の仕事をもらっていたが、その上席に出勤する直前、脳溢血で倒れて死去。59歳の若さであった。新聞名不明であるが、好事家が保存していた新聞の切り抜きを頂いたので引用する。
松原勝美が急死
吉本専属の古参漫才師吉本専属の漫才師、松原勝美= 本名・松原克己さん(五九)=は一日午後一時、うめだ花月の初日に出演するため自宅を出ようとして脳いっ血のため死去した。
葬儀は二日午後、大阪市住吉区 粉浜中之町一の一七の自宅で営まれたが、勝美は一輪亭花蝶と軽口 (かるぐち) 漫才としては古く貴重な存在だった。夫人は角座の名物お茶子、おくらさん。
証拠として原紙も掲載しておく。多分大阪朝日あたりかと思うが、確証はない。おいおい調べます。
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