荒川キヨシ

荒川キヨシ

 人 物

 荒川あらかわ キヨシ
 ・本 名 新居 清一
 ・生没年 1911年4月3日~1994年1月30日
 ・出身地 大阪府 豊中市

 来 歴

 荒川キヨシは戦前戦後活躍した漫才師。木魚を叩きまくって早口に唱える阿呆陀羅経を中心に、大津絵、都々逸、数え唄を取り入れた古風な「音曲漫才」を得意とした。長身でヒョロヒョロ、大きな眼鏡をかけていた事もあり、「カマキリ」の愛称で慕われた。

 前歴はよくわかっていない。上方漫才の大御所・荒川芳丸に入門し、「荒川芳清」。本名から芸名を取られた模様。

『上方演芸人名鑑』によると、1931年、千日前小宝席が初舞台だという。

 一方、『日本演芸家名鑑』だと「昭和9年 荒川芳丸師に入門、神戸吉本興行に入社」とあり、食い違いが生まれている。

 戦前は長らく神戸や地方巡業が中心で、余り表舞台に出てくることはなかった。阿呆陀羅経を会得した背景は判然としないが、若松家正右衛門の芸から学んだらしい。

 また、演芸評論の木村万里は生前のキヨシに「昔の阿呆陀羅経を復活させようと思ったきっかけはなんですか?」と尋ねたら、「この木魚をみつけたときなんですわ」と、小さい木魚を見せてくれた――と『木村万里の芸人モノガタリ』に記している。

 戦後は妻の浪花政江(本名・新居マサエ)とコンビを組み、本格的に活動。西成区――通称・てんのじ村に居を構え、焼け残った寄席や劇場に出演するようになった。

 基本的にはキヨシが舞台の主導権を握り、相方は軽い掛合と三味線演奏、合の手を入れる程度であった。昔の漫才の型をよくとどめていたのが自慢で、「阿呆陀羅経」「大津絵」「数え唄」「芝居の真似事」「阿呆陀羅経」「落ちてるよ」など、戦前の漫才小屋で演じられていたようなネタを得意として演じた。

 トリをとる漫才ではなかったものの、如何にも味わいがあって、笑いの邪魔が少ない、それでいて観客を飽きさせない話術と諸芸の数々は、トリ前や露払いの漫才としては上質の部類で、松竹でも優遇を受けた。

 新世界花月をホームグラウンドにし、うるさい観客や野次を見事に手玉にとった。数え唄や阿呆陀羅経で喝采を得るなど、市民に愛される古き良き漫才であった。

 1960年代より政江が体調不良で寝込むようになったらしく(政江はキヨシよりも10数歳上)、1961年頃より小林さよ子とコンビを組んだ。さよ子は中村直之助・小夜子で売った人物であるが、直之助が1960年に亡くなり、未亡人となっていた。

 このコンビで数年活動した。1965年頃、キヨシは政江を失ったか、あるいは病院送りで別れ別れになったのか、近所の広多成三郎の自宅に転がり込む事となる。

 この成三郎の妻だったのが小唄志津子。後に再婚して夫婦となる。

 1970年代初頭、成三郎が病気で寝込むようになった事もあり、小唄志津子と行動を共にするようになる。

 1973年12月に成三郎が没。翌年の1974年に二人はコンビを結成する。その前後で二人は籍を入れ、夫婦となった。いい加減というかなんというか。この夫婦は20年近く連れ添う事となる。

 1975年5月24日、「第46回和朗亭・平和ラッパ追悼」に出演。出演者は、

コメディNo.1『漫才』
荒川キヨシ・小唄志津子『万才』
海原お浜・小浜『漫才』
桂米朝『小咄』

 1970年代後半より、角座や浪花座の集客力が悪くなり、漫才ブームで若手主導の公演が打たれるようになったためか、キヨシ・志津子は大須演芸場や巡業で活躍するようになる。

 如何にも古風で趣のある漫才は、色川武大にして「しびれるような退屈さ」と激賞をせしめた。一見すると悪口であるが、なるほどこれほどうまくツボを突いた批評もない。「退屈さの中に何とも言えない上質な娯楽と面白味がある」というべきだろうか。

 1970年代後半より、放浪芸ブームや演芸のリバイバルブームで注目を集めるようになり、テレビに出演するようになった。

 小沢昭一の『日本の放浪芸』の中でも、自宅の長屋で阿呆陀羅経を演じている様子が収録されている。

 1982年10月16日、国立劇場の邦楽公演「第10回日本音楽の流れ・打楽器」に出演し、志津子と共に阿呆陀羅経を実演している。これは映像で残っている。

 1983年3月19日、『とっておき米朝噺し 第46回』に出演し、「阿呆陀羅経」を披露。

 1983年4月、閉場をする新世界花月の舞台で涙し、話題となった。相羽秋夫『演芸おち穂ひろい』の中で、

舞台で思わず涙 荒川キヨシ・小唄志津子

 新世界の新花月が、この五月で寄席の幕を閉じる。
 戦後いち早く笑いの看板をあげたのが、この劇場だった。スターの出演よりも若手の道場として、ここから幾多の人気者を生んだ。
 ここへやってくるお客さんは、そうした若手の成長を見つめる一方で、確かな鑑賞眼を持ち、なまはんかな芸をあからさまにののしって排斥した。 そうしたなかから、たくましく本格的な芸風が培われていった。
 荒川キヨシ・小唄志津子のコンビは、この厳しい新花月のお客さんに最も喜ばれていた漫才である。 キヨシは、「万才」の本流である荒川家の流れを汲み、数え唄や大津絵などの古典芸を伝えている。
 志津子は亡夫広多成三郎と「牛漫才」で知られた人だ。
 新花月の閉館を知って、二人は呆然とした。
 仕事場を失うことの悲しさもさることながら、永い間かわいがってもらったお客さんとわかれるつらさに、四月の舞台で思わず涙を流した。
 この涙は、客席にも伝わって、「新花月よ、閉めんといてくれ!」との絶叫に変わった。
 だが、新花月は不入りのための累積赤字が雪だるまのようにふくれあがっている現実がある。
 予定通り、あと二十日足らずで静かに幕を閉じる。

 その後は大須演芸場、巡業、時たまのテレビで活躍。平成に入ると「最長老漫才師」の一組として結構チヤホヤされた。芸歴の割に映像がそこそこ残っているのは、こうした厚遇のおかげがある。

 最晩年はてんのじ村の貴重な語り部としても活躍。『読売新聞』の「どっこい消えず上方演芸の灯 てんのじ村は今」(1991年1月1日号)の中でも、

「しずちゃん、入り婿みたいに、あんさんの家やったここに押しかけて、もう三十年になりまんな」 「あのころはこの筋にもぎょうさん芸人がいて、にぎやかでしたな」  
 音曲漫才の荒川キヨシさん(79)、小唄志津子さん(77)夫婦が、昔を懐かしむ語り口は、舞台でのやりとりそのものだった。

 と紹介されている。

 80過ぎても矍鑠と舞台に出、オールドファンを喜ばせていたが、1994年に82歳で没。没年は『上方漫才黄金時代』に依った。

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