浅草四郎

浅草四郎

姿三平・浅草四郎(右)

浅草四郎・岡八郎(右)

 人 物

 浅草あさくさ 四郎しろう
 ・本 名 海住 清一
 ・生没年 1928年~1968年3月24日
 ・出身地 大阪市

 来 歴

 浅草四郎は戦後活躍した漫才師。姿三平とコンビを組んで「三平・四郎」で売り出し、続いて岡八郎と組んで「四郎・八郎」。ハイセンスなしゃべくりとコント仕立ての漫才で人気を集めたが、酒のために遂に前途をしくじり、自殺を遂げた。

 出身・前歴は謎が多いが、裕福な家の出身であったらしい――と、弟子の前田五郎が記した『素晴らしき芸人たち 前田五郎写真館』の中で触れてある。

 師匠は常々、「ワシやな親はおらん」と言ってました。それがある日、
「これから親父に会いに行く」  
 と言うんです。ぼくもお供して、大阪住吉区へ向かいました。訪ねた先は大邸宅。別室で控えていたぼくの目の前で、師匠の弟と思われる人物と殴り合いの大喧嘩が始まりました。その二人の後ろでウロウロと見守っていたのが、おそらく師匠の父親だったんでしょう。帰るときの師匠の大声が、今でもこの耳に残っています。
「お前等とは縁を切る。二度とこんな家に来るかぁ!」

 10代半ばにして家を飛び出し、芸能界入り。戦時中、新興演芸部に入っていたコメディアンの沢力夫(当時は甲斐力夫)に入門。師匠の屋号をもらって「甲斐力三」として舞台に立つようになる。

 浅草と名乗ったものの、東京都はあまり縁がなかった。むしろ、相方の姿三平の方が東京と縁があり(東京のストリップ劇場にいたこともある)、あべこべであったのがおかしい。

『キネマ旬報』(1964年11月上旬号)に、澤田隆治が「クローズアップ 浅草四郎と岡八郎」と題して浅草四郎の経歴を書いている。

 昭和三年生れの浅草四郎は、戦時中に「新興演芸」所属の軽演劇沢力夫一座に弟子入りしてコメディアンを志しているからスタートは早いがコメディアンとしては地方廻りをしたり新世界のヌード劇場にしか出演出来ない存在でしかなかった。
 三十一年に人にすすめられて漫才ブームの大阪で姿三平・浅草四郎のコンビを組んで秋田実の率いる「上方演芸」に所属してデビューするや、フレッシュな動きの多い漫才で人気をよんだ。彼の足をピョンコピョンコさせる不思議な動きはこの頃から人気があった。

 戦時中から活動していたものの、漫才デビューまでの活動の拠点は温泉劇場であった。一説では温泉劇場で姿三平と知り合い、そこで意気投合して漫才コンビになったという。

 人の紹介で、秋田実の「上方演芸」に所属。すぐさま人気コンビとして売り出した。主に漫才ミーハーの若年層に高い評価を受け、アイドル的な人気を博した。

 芸にうるさかった上岡龍太郎もそのファンで、自伝『上岡龍太郎かく語りき』の中で、

〇なつかしの三平四郎
姿三平・浅草四郎という漫才さん。ぼく、大好きやったんです。もう高校時代から好きでよう真似してたんですよ。
「三平ちゃん、三平ちゃん」
「なんですか、四郎君」  
 と言う調子で、楷書でしゃべる人でしたね。
「あー腹たつなあ」
「癪にさわるわな」  
 というのがギャグでした。四郎さんが、素朴、朴訥という感じでとつとつとしゃべる三平さんを おちょくるのがすごくおもしろかった。このコンビも、アルコールでやられました。三平さんがアル中でもうどうもできんようになって、別れた四郎さんが岡八郎さんとコンビを組んだんです。
 三平さんは松竹へ移籍して、若い人を相方にして「一平・三平」とかいってまたやってたんですけどね、もう舌が回らんようになってしもうてね。ぼくらの知ってる三平四郎さんの、あのテンポは望むべくもありませんでした。四郎さんは浅草の軽演劇上がりの人で、体がやわらかくてよう動くんですよね。三平さんはまったく体の動かん人でしたからね。この二人の対比がよかった。
「彼女に結婚申し込みたいんやけど、どうしたらええやろ」
「それぐらい簡単やないか。ほな今から教えたろ。家へ行くわな。相手の家のまず戸を開けて」
「ガラガラガラ」 「きょうびそんなドアがどこにあるねん」
「ほな、どういう風に開けるねん」
「ドアはこうやないか。ギリギッチョンギッチョンチョン」  
 てな調子で、なんやわけのわからん擬音ばっかり使うてね。新しかったんではクイズのネタをやってましたね。
「では今からクイズを出しましょ。バスが走っています。ある停留所から五人乗りました。次三人乗って四人降りました……」
 てな調子でダーッと言うていってね。
「さて、運転手の名前はなんでしょう」
「ええ加減にせえ」  
 というようなネタを当時からやってましたですね。そういう意味で言うと、うめだ花月出てたなかで、三平四郎さんが、ぼくらにとってはライバル、ということはないけど、ああいうテンポとか、あれに負けんようにしよう……みたいな意識はありましたね。

 と、絶賛を続けている。ちなみにクイズのネタは、桜山源若が演じていたそうであり、これを自家薬籠中の物にした模様か。

 この頃の漫才、雰囲気は『上方漫才の黄金時代』の中にある「死ぬほど愛して」でうかがい知ることができる。

 1958年4月19日より、1シーズン、朝日放送で「パッチリ天国」というレギュラー番組を受け持った。この番組のプロデューサーを受け持ったのが澤田隆治で、澤田氏にとっては処女作であったという。そうした事情からか、澤田氏は自著の中で何回かこの経験を記している。

 因みに芝居は滅茶苦茶下手だったそうで、上の『キネマ旬報』の中でも、

その番組を担当していた、私は正直言ってコメディアン出身のくせに芝居の下手さ加減にあきれたが、それだけ彼は漫才にむいていたというべきだろう。

 と、本音をぶちまけている。逆に言うと、朴訥ながらもやんちゃ坊主のような可愛らしい風貌と、独特の声と、天性の明るさで漫才の面白さを補っていたようである。

「パッチリ天国」はカメラ会社がスポンサーで、三平・四郎を主軸にしたコメディであったが、この番組で澤田と知り合ったのが藤田まこと。澤田隆治は藤田の才能を見抜き、「てなもんや三度笠」に昇華した――と生前の当人から聞いた。思えば、三平・四郎の噂をもっと聞いておけばよかった。

 1959年12月1日より1960年1月26日まで、関西テレビの「ミタか聞いたか」に出演。

 この頃、大阪商業大学を退学した19歳の前田邦弘が入門。当初は弟子入りを断り続けていたが、楽屋はおろか千里公団住宅の部屋にまで押しかけてくるので驚いたという。『素晴らしき芸人たち 前田五郎写真館』では「8回目に奥様が出てきて、『これだけ頼んでいるんだから……』と後押しをしてくれて弟子入りを許してくれた」という。

 その後しばらくして、西条ロックも芸人の勉強と称して浅草一門に在籍した事があるらしい。

 四郎は前田青年をカバン持ちにしていたが、最終的に「俺にいつまでついてても仕方ない。1年辛抱したんだし、後は吉本新喜劇で勉強し」と、吉本に口を聞いてくれた。前田は吉本新喜劇へ移籍し、そこで坂田利夫と出会う事となる。

 師弟関係の距離が離れた後も、四郎は前田を気遣っていたそうで、前田がはじめて吉本新喜劇からギャラをもらった際「師匠、はじめて給料を頂きました」というと、「がんばりや」と1万円を祝儀でくれた。前田はこの1万円で質流れのカメラを買い、撮影に勤しむようになる。

 1962年、姿三平とコンビを解消。三平は入院を経て「姿一平」とコンビ結成。『米朝上岡が語る昭和上方漫才』では「三平はパンチドラッガーみたいになってしまい、倒れた」というような旨があるが、詳細は不明。

 なお、ウィキペディアなどにある「コンビ解消して三平は廃業」は嘘。上岡も記すように「姿三平・一平」でコンビを続けていた。漫才研究会に一年ほど在籍したほどもある。

 浅草四郎は、吉本ヴァラエティにいた市岡輝夫を誘って「浅草四郎・岡八郎」と名乗る。『素晴らしき芸人たち 前田五郎写真館』の中に、

 その姿三平師は過度の飲酒がもとで倒れ、そのままコンビ解消。師匠はすぐ、吉本ヴァラエティの第一期研究生だった市岡輝夫に「岡八郎」の名を与え、四郎・八郎のコンビで再出発。漫才の相性もよく、すべてが順風満帆の船出でした。テレビのレギュラーも増え、クラブ、キャバレーの仕事量は三平・四郎時代とは比べ物にならないほど。ほとんど毎晩でした。  
 昭和四十年の年末の多忙さたるや、おそらく一日平均三時間の睡眠も取れていなかったと思います。しかし、その多忙な仕事の疲れを癒すために、師匠は酒に休息の場を求めました。結局、この酒がもとで、取り返しのつかないことになってしまうんですが、本人は知る由もなかったでしょう。

 すさまじい人気を誇り、テレビにラジオに忙しい日々を送っていたが、その疲労やストレスを酒に当ててしまった。

 相方同様、酒の多飲が命取りとなったのは皮肉である。酒の飲み過ぎで二日酔い、酩酊状態で舞台に出る、寝込んで仕事をすっぽかす、漫才に力を入れない――その結果、信頼を失ってますます酒に当るというスパイラルに陥った。

 昔、澤田氏だったかに「へべれけで舞台に出るような事もあってみてられなかった」と聞いた記憶があるが、あながち嘘ではないだろう。前田五郎は――

 酒量が次第に増え、四十一年に入ってからは、仕事上でのトチリが目に見えて多くなりだし、結局同年六月に浅草四郎・岡八郎のコンビ解消。岡八郎は古巣の吉本新喜劇に復帰し、四郎師匠は豊中市民病院へ入院しました。 退院後、師匠は東映の大部屋にいた人に三郎と命名して、三郎・四朗のコンビで舞台に復帰しますが、昔のような勢いも、覇気もなく、三ヶ月ももたずに解散。八田竹男社長(当時)直々に吉本除籍をいい渡されました。
 それでも娯楽観光の千日劇場(現プランタン)に移り、水田かがしとのコンビで舞台に立ちましたが、酒量は増えるいっぽう。ついに吹田市の榎坂病院へ再々入院することになりました。

 と、吉本を解雇されるまでの経緯を弟子の視点で書いている。戦後吉本黎明期に活躍したスターの首を切ってしまった八田社長の思い切りがすごいが、酒癖が悪い上に、舞台や漫才も酒でままならない四郎は、既に庇いきれる存在ではなかったのかもしれない。

 岡八郎とのコンビ解消後は、関西演芸協会も脱会し、流浪の身に近い状態となった。千日劇場に所属したものの、千日劇場も往年の勢いはなく、仕事も人気も限られるようになった。

 酒ゆえに引き起こされる体調不良、酒ゆえに起こしてしまった数多のトラブル、そしてそうした自己嫌悪や反省などといった要因が、四郎の心身を蝕んだ。最終的にはアルコール依存症治療で入った病院で首をくくって死んだ。

 前田五郎は、その最期を聞きつけたらしく、自著の中に詳しく書いている。これが唯一命日を知れる手段であろう。

 そして、四十三年三月十八日、病室で首を吊って、三十九才という若さで天国へ旅立ったのです。ぼくが弟子入りしてから五年目の春でした。

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