白川珍児

白川珍児

 人 物

 白川しらかわ 珍児ちんじ
 ・本 名 白川 正元
 ・生没年 1925年1月24日~2014年7月8日
 ・出身地 愛媛県 四阪島

 来 歴

 白川珍児は戦後活躍した漫才師。喜劇役者から出発し、千日前コメディから漫才「白川珍児・美山なをみ」、そこから吉本新喜劇の幹部――と多彩な生涯を送った。吉本のギャラの悪さやワンマンを揶揄する悪口ネタを新喜劇でネタにしたのはこの人が最初だという。

 ご遺族(娘さん)を発見し、ご遺族の運営するブログの引用許可が取れたので紹介していく。珍児の生涯は謎が多いので、これを機に再考がなされれば幸いである。ご遺族様へはご協力深く感謝申し上げる次第。

 白川珍児は「愛媛県四阪島」の出身。今では住友金属の所有地になってしまっているが、珍児が生まれた頃は住友金属鉱山がなかなか盛んで、工夫や従業員でにぎわう街だったという。かつての軍艦島に近い感覚だった事だろう。なお、『吉本新喜劇名場面集』では「堺市出身」とあるが、これは嘘だろう。

 ご遺族のブログ『おいらの言いたい放題』によると(このブログには若い頃の珍児の写真が出ていて帰朝)、

父ぁ大正14年1月24日、
愛媛の四阪島(写真)で産まれたっす

戦中ぁ海軍の水兵になり、乗った軍艦は東南アジアあたりを回っとったが
運よく、海戦にゃー出くわさず、日本に戻る
その後、日本は負けると思って脱走したんだが捕まり
広島に投獄され、別の場所に移送された午後に原爆投下だったそう
移送先は長崎、そっからまた別の場所に移送された翌日に原爆投下
なんとも強運の持ち主である

住友金属で働き、社員寮に住んどったそうっす
ある日、旅の芝居一座が寮にやって来て、芝居を見せてくれた
その翌朝、門の前で待っとって、
出て来た一座に「入れてください」と頼んで、そのままついてったんだと
ふざけてはいけない、それぁ蒸発っつーんだ

一年くれぇして、見つかって連れ戻されるが
また家出して一座に戻ったそうで
それで、親ぁ諦めたみてぇだな

北海道から沖縄まで、全国あちこちで芝居をして回った
そのうち自分でやりたいと旅の一座を出て、
千日劇場で芝居しとった
その頃の芸名は、白川一二三(ひふみ)
何故かと問うと「変わっとって、すぐ覚えられるからな」
白川ぁおいらの旧姓である

 大正末生まれの宿命か、思春期がほとんど戦争と非常時で、戦争末期には自らも戦争にとられる――という苦境の中で無事に生き延びた。

 復員後、住友金属に勤務していたが、旅回りの漫才師・桂枝輔に入門。枝輔に関しては以前書いた。ブログ曰く、

父ぁ、旅回りの役者、女捨丸についてって連れ戻されたあと
女捨丸の最後の弟子、桂枝輔の弟子になったっす
愛媛弁を徹底的になおされたらしい

 珍児は生前「女捨丸の弟子の枝輔が師匠」と語っていたそうであるが、枝輔は昭和初期から活躍していた漫才師である所から、実際の枝輔は女捨丸の座員として働いていたのでは――と案じたりもする。ただ、二代目枝輔がいたとするならばそれはそれで話は別であろう。

 因みに女捨丸は1907年生れ。実在した漫才師である。名前の通り女流漫才師で主に地方巡業で活躍した。

 枝輔から礼儀作法や舞台の言葉を教えてもらい、喜劇役者として舞台に立つようになる。

 長らく旅から旅の修行生活を送っていたが、1959年頃、演芸興行に復活した吉本に招かれ、コメディアンとして舞台に出るようになる。ご遺族の話では「千日前で自分の劇団(?)で芝居をやっていた時に、吉本に呼ばれて入ったらしい」との由。いずれにせよ、1950年代後半に大阪の大手劇場に出演するようになったのはまちがいない。

 この頃、共演経験のあるダンサーの女性と結婚し(14歳年下)、夫婦となった。遺族のブログでは――

そんなこんなで(前回の話、笑)、新喜劇に入った父ぁ
仕事で母と出会った
その頃、母ぁの群舞で踊っとったんだが
そっから母を吉本に引っ張って来て
一緒に舞台に出とって、結婚した

 Wikipediaなどでは「相方の美山なをみと夫婦だった」「親子で漫才をしていた。」とあるが全部嘘。夫婦説は山川静夫の『上方芸人ばなし』に「二人は夫婦だとかいうウワサも聞いたが定かではない」という噂に尾ひれがついたものだろう。

 現に珍児の妻は2022年現在も健在であり、子供たちも健在の手前、これ以上の証拠はない。当時芸人は「相方に手を付けてなんぼ」「男女コンビは大体できてる」みたいな事が平気で行われていたため、こうした噂が独り歩きしたのではないか。

 1959年4月、うめだ花月中席のコメディ「陽気な婦系図」に出演。主演は人気コメディアンの内海突破。突破が漫才時代に演じていたドタバタのお蔦主税を喜劇化したもの。

 目下、うめだ花月の目録しかないため判然としないが他にも吉本系のコメディ公演やなんやら精力的に出ていたという。花菱アチャコ、西川ヒノデ、大村崑、白木みのる、芦屋雁之助・小雁などといった大阪を代表する名コメディアンたちとしのぎを削り合った。

 1959年8月、うめだ花月中席の「加茂の河原に星が降る」に出演。芦屋雁之助が主演。

 1959年11月、うめだ花月下席の「あねいもうと」に出演。笑福亭松之助が主演。

 1960年1月、うめだ花月上席の「あんぽんたん譚」に出演。横山エンタツの「俺は名探偵」を舞台化したもの。 

 1960年3月、うめだ花月中席の「雁ちゃん小雁ちゃんの陳さんの青春」に出演。主演は芦屋兄弟。

 この頃、吉本を離脱し、千土地興行へ移籍(契約更新か?)。千日劇場の「センニチ・コメディ」の主要メンバーとして舞台に出るようになる。

 この頃の千日劇場の若手が鳳啓助・京唄子、すっとんトリオ、横山ノック・アウトなどであった。さらに東京から来た玉川良一と東けんじのWコントなどとも面識を得ている。

 長年培ったコメディの技術をふんだんに生かした芝居で一躍劇場の看板となる。浮世亭歌楽、啓助・唄子、森山みつるなどと共演した。

 クッキリとした顔立ちとロイド眼鏡が売りで、当時テレビスターであった三代目江戸家猫八と間違えられる事も多かったという。写真を見ると結構似ている。

 1961年頃、借金のために大阪に居残る羽目になった東けんじと行動を共にし、東けんじと漫才もどきの事をやったという。 

 1965年頃、千日劇場のコメディが廃止され、大喜利番組「お笑いとんち袋」に変えられたことや漫才ブームに便乗して漫才師に転向した模様。

 相方は浮世亭歌楽と組んでいた美山なをみ(同年春まで歌楽と組んでいた)。なをみは、島津志朗・近江京子の娘で、1933年4月27日の生まれ。漫才師としては珍児より芸歴が上であった。

 珍児がコメディで鍛え上げた話術で相方を煙に巻き、なをみがきびきびとツッコむというハイセンスなしゃべくり漫才を得意としたという。遺族によると――

刑務所ネタぁ超おもしろかった
父ぁ刑務所に入りたいっつって、相方が呆れるかえるのである
刑務所に入りたい理由が、
3食付きで、家賃も光熱費もただ
お洒落な、お揃いの服もくれる
健康に気を使って、体操もさせてくれる
暇をもてあまさんよう、工作とかいろいろさせてくれる
泥棒に入られんよう、高い塀があるしし、ガードマンが夜中も見張って守ってくれる
ってな感じの事を、軽快な口調で、相方のツッコミもらいながら喋るのである

 また、珍児は麻雀の名手だったそうで、楽屋でもどこでも麻雀を打ち続けたという。真木淳氏だったか「うちの親父(東けんじ)と共に楽屋でマージャンに相当熱を上げていて、本当に強かった」と聞いた記憶がある。

 そういえば故人澤田氏も「当時は麻雀みんなやったもんやが、白川さんは強くてねえ、麻雀やのうて舞台であれだけ強ければ、なんて嫌味言うてる芸人居りましたわ」と言っていたっけ。

 売り出しのしゃべくり漫才師として浪花演芸会(上方演芸会)やテレビに出演、相応に売れたが1960年代後半に入ると、千日劇場も斜陽になり始めてしまった。

 1970年前半に、古巣の吉本へ移籍。1973年3月の香盤まで「珍児・なをみ」として舞台に出ている様子が確認できる。

 そのなをみが結婚(出産?)で寿解散する事となり、10年近く続いたコンビを解消。珍児はコンビを特に求める事なく、古巣の吉本コメディに戻った。

 1974年2月、うめだ花月中席「恋のダイヤル110番」で久方ぶりに復帰。

 1974年9月、うめだ花月中席の「鰯雲」に出演。船場太郎が主演。

 うめだ花月のみならず、なんば花月、京都花月などの喜劇公演にも出演し、大御所としての役どころを見せていた。

 間寛平、木村進、船場太郎といった新鋭スターのギャグをうけつつ、自身も吉本の待遇やこき使い方をボロカスに茶化す自虐ネタを行って人気を得た。『吉本新喜劇名場面集』では「吉本の悪口を舞台でネタにした最初の人」と顕彰している。

 1970年代後半まで活躍を続けていたが思う所あって吉本を退社。吉本の社長の交代で(八田社長の事だろうか)、同期の鳳啓助を「座長」と呼ばせ、立てるような命令に嫌気がさしたともいう。「啓ちゃん」「珍ちゃん」の仲であった二人からすれば耐えられない事だっただろう。

 その後は愛媛に戻り、故郷の近くに居を構え、しばらく普通に働いた後に隠居生活に入ったという。

 晩年は趣味の釣りや旅行をして余生を送った。釣りは幼いころからの趣味だったそうで、暇を見つけては船を出して釣りをしていたという。

 心筋梗塞で倒れた後は娘と息子の世話になりながら、静かな余生を送っていたという。最晩年は老年なりの衰えをみせるようになったというが、80過ぎてもカクシャクとしていた。

 2014年7月、死去。89歳というから長生きである。今もご遺族が彼の菩提を弔い続けているのはいうまでもない。

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