松鶴家千代八・八千代
日露戦争従軍時の千代八
千代八・十八番の都都逸
人 物
人 物
松鶴家 千代八
・本 名 上田 八郎兵衛
・生没年 1885年~1950年?(1952年説もある)
・出身地 大阪府 堺
松鶴家 八千代
・本 名 上田 たき(旧姓・内藤たき。タキエとも)
・生没年 1908年2月5日~1987年以降
・出身地 大阪?
来 歴
松鶴家千代八は戦前活躍した漫才師。八千代はその妻にあたる。千代八は、萬歳時代からの立役者であり、名門「松鶴家」を創始し、松鶴家團之助、光晴、千代若・千代菊などを輩出した。ビートたけしも漫才の流れで行けばこの人にぶち当たる。
千代八の経歴
千代八は「荒寅」という名門料亭の御曹司。吉田留三郎は『寄席fan』(1967年1月号)の『上方漫才の神々』に、
「出生は泉州堺市、家は酒問屋で代々、上田八郎兵衛を名乗っていた。酒屋の子供のくせに酒が好きで、よく盗み酒しては叱られたと語っていた。」
と書いているが、複合的に経営していたのだろうか。
その前歴及び漫才界入りまでの経緯は『ヨシモト』(1936年10月号)掲載の『私の自叙傅』に詳しい。まずは歌舞伎役者になったという。
泉州堺の街で「荒寅」といへば、料理屋仲間では相當幅を利かせ、食通連にもかなり賣り込んだものでした。
その「荒寅」のボンチとして生れた私に両親は、粋人だけに歌舞伎にのこる「古手屋」のお妻との情事に因んでか、八郎兵衛といふ、いとも時代的な感じのする名前をつけた、維新明治十八年のことです。
今日「荒寅」は既になく、その跡は宿院の學校となつてゐます。
世間並に極く無難に成長してゆく中に、商賣柄藝事が何より好物という厄介な根性が終いに両親や親類一同を説伏せ、十二のとき、歌舞伎の浅尾工左衛門に弟子入りして、戦國時代の鬼武者を偲ぶやうな本名上田八郎兵衛から二枚目然たる浅尾朝太郎となりました。
浅尾工左衛門は、上方歌舞伎の名門的な名前であるが、どの浅尾工左衛門なのだろうか。幕末に活躍した三代目は1853年に亡くなっており、四代目は1911年襲名の為、辻褄が合わない。代数なしの浅尾工左衛門が、明治初頭にいるが、その弟子なのだろうか。
四代目は、長らく市川鬼丸と名乗っていた。後年東京へ上り、浅尾工左衛門を襲名。澤村訥子、中村芝鶴等と共に小芝居三羽烏と称されるほど、小芝居の人気を持っていた。人間国宝・尾上多賀之丞の叔父でもある。
“申し上げます”級六年の歌舞伎役者生活で、今ひと息といふ十八の時に猛烈な鉛毒に罹り、命あつての物種と歌舞伎を断念して、信濃家蝶吉の仁輪加に入り藝名も蝶太郎と改めました。
この座は蝶吉、尾半、小半三人が組んでゐて、仁輪加の始まりと云っていゝ位で、大變な人気でした。今落語の立花家千橘さんは此の小半師の息子です。
この仁輪加一座に入って二年目のことです。千日前にあった「江川」といふ小屋に一本で看板をあげることになりました。恰度その時、師匠の蝶吉は向ひの改良座の鶴家團十郎一座に客員として出演してゐました そのために“江川に自分の弟子が看板を上げるとは怪しからん、それやったら名前返せ!” “ではお返しします”といふ譯で、蝶太郎の名を師匠に返しました。
名なしでは商賣になりません、上田八郎兵衛では困るし、何とか藝名をデッチあげねばと思つてゐる。仲に入って下さつたのが曾我廼家十郎さんと鶴家團十郎さん、“この名前どうや?”と示されたのが、その後三十有餘年飽きもせず使つてある「松鶴家千代八」です。
この藝名の因つて来るところを記すと、松は師匠の喜代松の松、鶴は鶴家の鶴、千代は曾我廼家の蝶千鳥の千代、八は本名の八郎兵衛の八、と云った具合にまことに下らない、呆氣ない所から生れたのですが、各々関係筋が一株宛もつて、彼が此方の顔を立てある所が値打です。
「申し上げます級」とはなかなか人を食った言い方であるが、多分名題下にもなれない下回りで終わったのだろう。当時上方歌舞伎は一つの全盛期にあり、いくら道楽息子の出身とはいえ、門閥のない千代八の出世などは、ないに等しいものだったに違いない。
信濃家蝶吉は、明治時代に活躍した俄師で、「尾半」「小半」等と共に看板であった。信濃家一門は、義太夫の名作「帯屋」の登場人物をなぞった名前をつけているのがミソであった。
芸名の斡旋をしてくれた曾我廼家十郎は、「曾我廼家五郎」と共に「喜劇」の地盤を作った喜劇界の大立者。
鶴家團十郎は、信濃家一門などと鎬を削っていたニワカの名人である。彼の弟子筋に、松鶴家団之助がおり、後年弟子として迎える事となる。
一部文献では、「松鶴家」は上方歌舞伎の『松鶴屋』から名付けたというが、千代八の証言ではまるで異なっている。全く意識がないとも言い難いが、別に歌舞伎から引用したとも言い切れない名前である。
それから間もなくして、日露戦争へ出兵する。
それから一年経つと徴兵検査に甲種合格、由良要塞に入營ったのが、日露の戦争最中で毎日戦捷號外に昂奮してゐた明治三十八年で、基礎教練を済すと、直ちに某方面に出征といふことになった――と云っても赤い夕陽の満州ではなく、朝鮮カトク島の守備兵です。
戦ひすんで、内地に歸還して明治四十年除隊しました。
帰還後、ニワカに復帰、しかし、一度堅気になって酒屋をやっていたという。実家に連れ戻されたのだろうか。
店をはじめても来るのは、馴染の友人や芸人ばかり、こんな調子では当然酒屋が続くはずもなく、舞台へ復帰。にわかではなく、漫才になってしまった。
戦勝國日本の景気は上々、すぐに神戸に開演してた名古屋源氏節、岡本美與次一座に大門亭小東蝶と二代目稲廼家たにしと三人で應援で入座しました。
二十五の歳に一旦堅氣になつて尼酒屋をやつてゐると、次から次へ友達がやって来て、誘はれるまゝ再び舞臺に起つことになり、松島の中島席に「萬歳」で出ることになりました。 この話が仲間に知れ渡ると、以前の信濃家の方から
“中島なんかに出ちゃ困る、そうなると信濃家を継ぐものがないから、此方へ復歸つて後を継げ、それに萬歲で出るなんて――!”と變な横槍が入りましたが、それを斥けて萬歲で終始すると頑張って出たのですが、そのまゝ今日まで續けてある始末です。
その頃の萬歲は、初めに地をやって、次に謎かけをやり、そして道中づけ、喋舌くり、そして亦謎かけをつけて落ちる、といった定式通りのもので、中に數へ唄などをあしらつてゐた位です。
しかし今と違つて樂屋、舞臺の禮儀はやかましく、こんな服裝でも、二つ目位までは縞物で、男でも女でも綿をつけ、才蔵は着流し、モタレから黒の木綿の紋付、トリになると繻子の紋付と思つてゐました。これが今日では太夫も才蔵もなく、洋服まで飛び出してゐます。私も大正八年に今着てあるやうなダブ/\の洋服を着たが、他では餘り着なかった。私が舞臺責任者だから、私が洋服を着ると他の連中は着られない、着物にしても一人が麻を着ると他は麻を着ないといふ風に規律正しかつたのが、今では同じ服装で禮儀も何もない。
番組は萬歳の中に、江州音頭、剣舞や踊、四ツ竹等もあって、仁輪加や踊、剣舞を取り入れた芝居事などは私が振り付けてゐました。
この後に、艶話みたいなことを披露しているが、余談に近いので省略する。
漫才に転向後、相方を転々とする。これといった相方もいなかったようであるが、中村力春とのコンビが長かった模様。
吉田留三郎は『寄席fan』(1967年1月号)の『上方漫才の神々』の中で、
「漫才の最初の相方は中村力春といった。千代八と余り年齢の相違のない女性であったが後に本妻の妹の八千代をコンビにして最後まで続いた。この八千代が、今、桜川末子とコンビを組んでいる二代目の松鶴家千代八である。」
と書いている。また、後年妻となる八千代の姉とも組んでいた事があるという。凄まじい関係性よ。
1922年、栃木から来た安藤定夫青年を弟子に迎え入れる。この安藤青年こそが、後年東京漫才で一世を風靡した松鶴家千代若である。この頃にはもう相当の一門を形成していたらしく、『大衆芸能資料集成』のインタビューの中で、
――入門した時、千代八師匠のお弟子さんは何人でしたか?
千代若 千代八師匠は大看板でしたからね、十一人いました。
と語っている。
大正末に、八千代と漫才コンビを結成。歳の差実に23才というのだから、凄まじい。今の常識では考えきれない結婚である。
但し、後述の『ヨシモト』や吉田留三郎の証言から考えるに、コンビ結成が先で結婚は後なのかもしれない(吉田留三郎が本妻の妹とコンビを組んだ、と書いているのが引っかかる)。
八千代とコンビを結成
相方の八千代は、子飼いの芸人で旧姓、内藤タキという。『上方演芸人名鑑』ではタキエとなっているが、これは誤差であろう。
同著には「大四年松島中島席が初舞台。」とある、若干7才くらいで舞台に上がっていたのだから、親も芸人だったのかもしれない。
姉が千代八の本妻だった関係から千代八の門下に入り、八千代と名乗る。後年、コンビを組んだ。『ヨシモト』(1935年9月号)の「千代八八千代と語る」の中に、
漫才以前、万才以前、そして萬歳以前とも云ひたいほど古いーーと云つても演ずる内容の古さを意味せずーー経歴を持つ千代八さんは斯界の元老格。
「あんたより古い漫才家がありますか?」
「吉本興業廣しといへど、自慢やないがおまへんわ」
「漫才生活は何年になりますか」
「三十四年だす」
「全く古いですな、その時いくつでした?」
「十七だした、それまでは歌舞伎の方で浅尾工左衛門の弟子だした」
「八千代さんは?」
「二十歳のときに漫才界に入ってーー今年八年目だす」
「若い八千代さんを相手に舞臺に出る千代八さんは、よく八千代さんにボロカス云はれては、満場の客に愬へるやうに”数多公衆の面前に於て斯くまで女に侮辱されては何のために生したのか、この髭の要領が解らん!”とよく笑はせたものだが、この頃は髭がない。
「髭はどうしました?」
「白うなつてきたからあきまへんよつて剃りました。染めても頭の方も白髪になつてきましたさかい」
熱演居士の綽名通り、彼氏の舞臺は熱と力そのまゝだ、そしてフアンは子供と老人が多い、弁慶と牛若丸の話、ゴリラなども面白いが、珍藝として安来の鰌掬ひに至つては千代八ならではのお家藝である
とある。この計算を適用すれば、1927年頃結成した、という感じになるが、一方で、『大阪朝日新聞』(1925年7月18日号)に、
○みだらな寄席芸人 田舎から入り込んでお灸
大阪市内の寄席に出演する芸人でみだらな言葉やいやしい素ぶりをして観衆を笑はし人気とりするものが多いので府保安課興行係は十五日西区方面の各寄席に一斉臨検を行つた結果、九条正宗館で出演中の万歳若松屋正右衛門こと野洲政吉(四十四)、米子(二十二)、花子(二十三)、咲子(十六)、末春こと田川義雄(二十一)、花びしやアチヤコこと藤本清太郎(二十九)、平和ニコニコこと八木常一(四十二)、松島廓内中島席松鶴家八千代こと内藤たき(十九)等が臆面もなくみだらな言葉を連発していたので十七日課に召還取調中である。
とあるのが気になる。1925年には結婚して、コンビをやっていた模様か。あるいは弟子という扱いで、取り上げられているのか、真意のほどは不明。但し、この時にはもう活躍していたという証拠には、なる。
コンビ結成後、相変わらずの諸芸尽くし漫才に加え、小柄な八千代が、大柄の千代八をボロカスに貶し、時には板や竹刀で千代八をシバき倒すという、女性優位の漫才で人気を集めた。
舞台を見ると、千代八はとても情けない存在に見えたというが、それは舞台上の事だけで、楽屋に入ると千代八の怪我の手当やら身の回りの事はすべて八千代が行っていたという。
吉本に入る前は、気晴館という小屋に出演を続けており、絶大な人気があったという。その席は、1銭漫才という端席に近い扱いだったというが、煩い客も多かったそうで、さぞ芸も鍛えられたことであろう。
そこでは、普通の漫才の他に、剣舞や居合抜もやっていたそうで、他にも御殿漫才や三曲万歳も出来るという芸達者ぶりであった。吉田留三郎は『寄席fan』の中で、
伊勢万才といわれた市川順若とも何か縁戚の関係があったというくらいだから三曲万才東京万才と呼んでいた御殿万才もうまかった。剣舞あるいは改良剣と、なんでも流行は身につけた。得意の芸題は「花岡山」である。吉本に入る前は新世界の気晴館(きばらしかん)俗にいう一銭屋で苦労したものであった。
剣舞は発展して居合抜となった。四尺に近い秋水をスラリと抜いて見せる。但し、これは後で彼の後妻の二代目の千代八から聞いた話しであるが、この居合術には度々怪我をして楽屋で、いつも傷の 手当てをしていたという。ともかく、なんでも大まじめで面白いところのあるオ ッサンだった。
と記している。また、ゴリラの物真似も得意としたそうで、同じく『寄席fan』の中で、
本芸の十八番としては橋弁慶の立廻りが有名である。だが、この「五條橋」も見ているうちに、いつしか安来節になっている。アレレと思う間もなく安来節も忽ちにしてゴリラの泥鰌掬いと再転するという目ぐるましさである。
昨今、エテ公やゴリラのパントマイムは、鼻につくほど漫才の誰でもつるが千代八のゴリラは今やってみても特別製の真似手のないものであった。第一、舞台拭姿というのが、大時代物のフロックともなんとも言えない上衣を着て、ゴム紐で止めたダブダブのズボンをはいた大入 道がゴリラの真似をしてユラリユラリと踊るのだから突飛であった。パントマイムには違いないが、けっして写実だけではない。
単に似ているだけでは林家染団治も非常にうまかったことは東京の人々は知っていられるであろう。大正の初め、横浜の花月で千代八・染団治のゴリラ大会があったという。染団冶も、けっして顔貌尋常な方ではないから、さぞかし壮観だったと思われる。
林家染團治とゴリラ大会を行ったというのが馬鹿馬鹿しくて、あほらしくてよい。なんでも全力投球で演じて見せる所から、ついたあだ名が「熱演居士」。
吉本入社と松鶴家家元
それからしばらくして、吉本興業に入社し、看板芸人として迎え入れられる。ここでも、相変わらず芸尽くし漫才を見せていたという。その凄まじいデフォルメぶりと熱演ぶりから、多くの人の記憶に記憶されることになったという。
1930年代前半より、エンタツ・アチャコを代表とするインテリ風のしゃべくり漫才が勃興。猫も杓子もしゃべくり漫才に移行する中で、徹底的なデフォルメにした漫才を貫いた。
その古風ながらも古びる事のない漫才は、流石の大御所の貫禄を見せ、吉本興業の中でも別格の趣があったという。
その人気ぶりは、インテリ的な分野から疎い老人と子供から慕われた他、意外にも文化人から受けたという。秋田實『大阪笑芸史』の中で、
千代八・八千代という人気漫才がおった。千日劇場での人気者、光晴・ひな子、その光晴さんの師匠である。だぶだぶズボンの大入道で、その坊主頭を相方の八千代が大きな板でびしゃとなぐると、お客は腹をかかえてよろこんだ。いまでいう暴力漫才の元祖で、ひところは大阪だけでなく、浅草で人気を独占していた。長沖一やなくなった武田麟太郎も、千代八・八千代の大ファンで、それから漫才が好きになっていたのである。
と、武田麟太郎がこのコンビを敬愛していたことを指摘しており、また、吉田留三郎も『寄席fan』(1967年1月号)掲載の『上方漫才の神々』の中で、
「そのように彼の芸の対象は庶民の中でも、その底辺に近い層にあったといえる が、その反面、最も程度の高い知識人にその支持者があったということは誠に奇具妙な事実であった。当時、来阪した東京のジャーナリストや作家などは、大阪の 新名物として必ず漫才を見て帰ったものであった。そのうちの一人はエンタツよ りもアチャコよりも千代八に最も興味を 持ったと明言した事実を覚えている。ちょっとダダ的の傾向のある友人の若い詩人も千代八一人が贔屓であった。つまり中ブラリンのインテリだけが合性が悪かったということになる。」
と書いているのが面白く、『まんざい太平記』の中でも、
「その時分のこと、来阪の斉藤竜太郎氏に、どの漫才が一番面白かったかと長沖一氏が聞いたところ、氏が千代八・八千代の名を挙げられたのは、全くわれわれには意外であった 当時流行の知性的なんていうものと正反対の漫才だったからである。」
と指摘しているのも興味深い(斎藤竜太郎は小説家兼編集者。菊池寛に可愛がられ、文芸春秋の編集局長を務めた)。
1937年、久方ぶりに御殿漫才が行われることとなり、その太夫として君臨。『近代歌舞伎年表京都篇 九巻』によると、
十一月(二十一)日〜 昼夜二回開演 京都花月劇場
〈まんざい祭〉 キングシヨウ 新喜劇陽気な一座 裴亀子楽劇団 吉本特輯演芸
【1】新喜劇 貴方とお月様 三転
【2】新作朝鮮舞踊曲 八曲 裴亀子楽劇団
【3】まんざい系図 まんざい祭り 五景
【番組】司会者(九里丸)
一、御殿万歳「東京万蔵」太夫(千代八)右大臣(雁玉) 左大臣(三好) 官女(末子・花子・八千代・末子)
一、今日の漫才(ワカナ・一郎)
一、昔ながらの万歳(千代八・市松)
一、三曲万歳 おかる(アチャコ)勘平(雁玉・十郎昼夜交代出演)伴内(九里丸) 三味線(芳子・八千代・ワカナ・ 末子)胡弓(八千代・市松)鼓(末子・花子・三好)ほかキングショウ マドロス動員令 全三部
(映 画)
【典拠】「京都日出新聞」11・21広告、22、「京都日日新聞」11・28。
【備考】●「花月劇場の二十一日からの新出番に中川三郎ハタアス公演に替 るアトラクシヨンとして吉本幹部の「まんざい祭」を出す。その内容は、“万歳”から“漫才”への発展過程を時代的に特集した今昔笑ひのヴアラエティで絢爛豪華な御殿調から、珍配役笑演の三曲、舞台等古典的、現代的、色とり/\の漫才の沿革史で、時代と共に進んだ即興芸術の足跡を振り返ると同時に、今日以後の漫才演出の方向をも見せる極彩版である。」
また、この頃になると漫才を回顧する声が出てきたと見えて、放送局に招かれて古い万歳をたびたび演じている様子が確認できる。
その特異な芸は、良くも悪くも変容しつつある上方漫才における異彩だったと見えて、多くの関西の文化人や評論家がこのコンビの芸を記している。以下はその中の抜粋。
まずは吉田留三郎『まんざい太平記』。
漫才と言えば、奥山辺の端席で鼓をポンポン鳴らしているものくらいに思っていた東京へ、しかも芸どころの新橋演舞場へ、昭和七年、大阪の漫才が大挙して乗り込んだ時は大変な騒ぎであった。この時エンタツ・アチャコの名が全国的になったのである。以来、来阪する東京の文化人には、灘の生一本や文楽と共に、漫才見物が予定コースにはいるようになった。
その時分のこと、来阪の斉藤竜太郎氏に、どの漫才が一番面白かったかと長沖一氏が聞いたところ、氏が千代八・八千代の名を挙げられたのは、全くわれわれには意外であった 当時流行の知性的なんていうものと正反対の漫才だったからである。
松鶴家千代八と言えばご記憶の人も多いと思うが、ギョロギョロ眼の大入道、相力の八千代(二代目千代八)が小柄なだけに一層怪偉であった。ダブダプのトレパンみたいなものを履いて、時々ゴムひもを引張って中へ風をあおぎ入れる。客は笑う前にあきれたものであった。奔放とかデタラメと言っても、もう一つピンと来ない。言うなれば芸のデフォルムと言えないだろうか。
逆説と誇張は漫才の大きな要素であるが、その上に、もう一つデフォルマシオンを加えさして頂きたいのである。例えば、頭たたきは暴力漫才にまで発展したが、ここまで来ればデフォルムと言うより仕方がない。また、十年一日、高座で天王寺の乞食の真似をしているオトロシヤこと佐賀家喜昇の存在はデフォルムの定形化したものと言うことが出来る。 この間まで時々ジャンジャン横町の漫才小屋「新花月」に現われていたが、必ず一定数のファンが待っていて、舞台に投げ銭の贈物をするのである。
再び松鶴家にもどるが、初代千代八はもと改良剣舞をやっていた。その前には浅尾奥山の許にも居ったというがはっきりしない。松鶴家一門のめぼしいところとしては鍋鶴、団之助らのほか、光晴はもっとも有名である。好相棒の浮世亭夢若を失って吾妻ひな子と組んで、その名調子は第一線級の地位に安定していたが、また分かれてしまった。惜しい。 ただしデフォルムは千代八一代で、弟子の方は、年期のはいった、洗練された本格の芸風 を誇っている。必然のないデフォルムの真似事の無意味さをよく知っているからであろう。
終りに千代八、十八番の都々逸を記して芸風の一端をしのびたい。文句は少々違っているかも知れないが、リズムだけで怒鳴るようなネブカ節都々逸だから、歌詞の間違いくらい、地下の千代八は許してくれるであろう。
おかして/\たまらんものは
夜とぎの坊ンさん屁をこいた港祭りで神戸の町は
電気がいっぱい ほんまにキレイや
そやけんどアノ電気代
一体 だれが払うのやろかいな
ついで、三田純市『昭和上方笑芸史』。
松鶴家千代八・八千代
さきに松鶴家の祖として挙げた松鶴家千代八・八千代の高座も忘れがたい。千代八は大男、というより大入道といったほうがふさわしい巨漢で、相肩の八千代(後に二代目千代八)は細面のなかなかの美人であった。
千代八はふしぎな都々逸をうたう。
「可笑しいて、可笑しいて、笑えんものは」
とうたっておいて、あとは一息に、
「夜伽ぎの坊さん、屁をこいた」
とうたう――というよりは、まるで自棄くそのように怒鳴る。そして、ズボンの胴を押しひろげ、扇子をパッと開いて、そこから風を入れる。彼のズボンはそのために、ウエストをうんと大きくし、ベルトで締めるのではなく、なかにゴムが入れてあるのだ。
この滑稽さも、文字では書きあらわせない。「可笑しいて、可笑しいて……」から、ズボンのなかを扇子で煽ぐまでが、ちゃんとひとつのリズムになっていて、まるで節のない唄、怒鳴る声、扇子を使う動作、この三つの組み合わせには、寸分の狂いもない。ひとつ間をはずせば、たちまち芸全体がガタガタになってしまう。そんな芸であった。
最後に『寄席fan』の『上方漫才の神々』。
漫才である以上、千代八も自分の持ち芸の数々を持っていた。但し、この芸をどう繋いで行くかは、その時その場の雲行き次第、気分次第であった。たとえば 「ただ今は結構でした」の当時、行われていた定式のマクラも、彼にかかると忽ち爆発する。島八郎・柳子という、その時分では珍しくギターを持って出る漫才の次ぎに出た時のことであった。千代八は挨拶のマクラを言い終るか終らない先 に唇をうまく震わしてブルルンブルルンとに、一つユーモラスにギターに擬音をやっていたものである。印象が新しいだけに、客はそれだけでワッと来た。ここで、おもむろに本芸にと取り掛かるという願序であった。
次に、一世に鳴り響いたものとして独特の千代八都々逸も省くことは出来ない。
「坊主抱いて寝りゃ可愛ゆてならぬ
どこが尻やら頭やら」
全くだ。とらまえ所のない都々逸、歌詞も即興なら、旋律に首尾も何もあった ものではない。でも伴奏の三味線にはチ ャンと合っているというのだから奇妙不可思議というより仕方がない。
「おかしておかして、たまらんちのは
夜伽の坊さん屁をこいた」
のバレ句は千代八節の代表として、今に残っているが、舞台で歌いこなせる人は 一人もいない。また字余り字足らずも勝手次第、たとえば、
「動物園の熊が逃げて大騒ぎ
ぜんざい屋のオッサンが出て来て
小豆をかけよったら
熊は一ぺんに、ひっくり返りよった
熊も金時には勝てやせぬ」
小咄であるが千代八は都々逸として、 これを糸に載せるのである。神戸で港祭りがあって神戸中は電飾で昼のようになった時、なんとかかんとかあった末に、
「――あの電気代誰が払うのか」と結んだ千代八であった。相当な社会批判眼である。弟子としては光晴、団之助など錚々たるところがある。東京の千代若・千代菊も、まだ松鶴家の亭号を守っている。ここで気のつくことは、その門下は一人残らず本格派でデフォルムのかけらもないことである。デフォルムというより千代八の個性的な芸は本質的に護り渡したり受け継いだり、出来るものではないらしい。そこに価値もあると言えるのであろ う。もっとも今も大阪にはデフォルムと呼ばれる漫才は存在するが、それぞれ自分一人で作りあげたものばかりである。 系列は佐賀家喜昇のオトロシアこと乞食のパントマイムを経て平和ラッパのアホ漫才に到達する。受けるからといって何人も模倣の真似事も出来ない点にその独自性がある。
上記の文章から見ると、本当にデフォルメに徹した萬歳らしい漫才の香りを残すコンビだったのであろう。いかにも卑俗で、猥雑で、何でもありで、おかしくて、どことなく遣る瀬無いコンビ――と考えると、存在そのものが大阪漫才のようである。
1940年9月13日、戦時協力のために吉本興業内で作られた「演芸自粛同志会」の選挙に当選し、会員となる。『上方落語史料集成』によると、同月15日の『大阪時事新報』に
吉本の芸人委員決まる
吉本の漫才師百余名によつて結成した「演芸自粛同志会」の委員は各自の投票によつて決定することになり、何れも清き一票を投じたが、十三日開票の結果左の二十名の委員が決定、十五日総会を開くこととなつた。
横山エンタツ、芦の家雁玉、浮世亭夢丸、高田久子、花月亭九里丸、林田十郎、林田五郎、三遊亭柳枝、松鶴家千代八、浮世亭歌楽、都家文雄、竹本小糸、花菱アチヤコ、桂三木助、柳家雪江、秋山右楽、砂川菊丸、一輪亭花蝶、浪花家市松、千歳家今男(当選順)
しかし、この頃から舞台とは疎遠となる。どうも千代八が老齢の為に患った模様である。
無事に終戦を迎えるものの、舞台へは上がらず、実質の引退に近い状態となったという。
没年は『笑根系図』では「昭和25年(62)」となっているが、『寄席fan』では「昭和27年 68才」とある。どちらとも信憑性に欠けるので判別は出来ないが、私としては計算の合う(数え年換算だろう)後者が正しいと思っている。
『笑根系図』は誤記があるので、すべて鵜呑みにはできない。以下は、千代八の死に関する『寄席fan』の記事。
さて初代、松鶴家千代八は戦後まで生きていた。京都府、石清水八幡のある八幡(やはた)町で昭和二十七年に没したという。行年六十八才。念のため花月亭九里丸者「笑根系図」を見ると行年は二十五年になっている。だが二十七年というのは妻君の現千代八に聞いたのだからまあ、それに従っておこう。なんとも、 たよりない話しばかりで申訳がない。
夫の亡き後、八千代は二代目松鶴家千代八を襲名。吉田茂とのコンビを経て、古くからの仲間である桜川末子とコンビを組んで、上方漫才の長老格として活躍を続けたが、これは別項に記すことにする。
相羽秋夫『相羽秋夫の演芸おち穂ひろい』によると、1987年時点では健在で、岡山県に在住との由。
松鶴家一門
松鶴家日の丸(元・二代目市川順若)
松鶴家八千代(二代目千代八)
松鶴家團之助
松鶴家光晴
松鶴家團治
松鶴家鍋鶴
松鶴家千代平
華井八千代(小八千代)
松鶴家鶴八
松鶴家千代一(千代若)
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