隅田川千鳥・中村種代

隅田川千鳥・中村種代

 人 物

 隅田川すみだがわ 千鳥ちどり
 ・本 名 北村 芳春
 ・生没年 1907年~??年
 ・出身地 ??

 中村なかむら 種代たねよ
 ・本 名 北村 マサ
 ・生没年 ??年~??年
 ・出身地 ??

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才師。夫婦漫才であったという。千鳥は、三遊亭円若の弟子、中村種代は中村種春の妹であったという。

「笑根系図」によると、千鳥は音曲師の二代目三遊亭円若の弟子であったという。噺家時代の芸名は不明であるが、ボヤキ漫才で人気のあった都家文雄の弟弟子にあたる。生年は、ここから割り出した。元々落語のような事をしていたが、漫才に転向した模様。しかし、詳しい事情等は一切判らない。

 種代は、中村種春の妹であったという。『笑根系図』では門弟扱いとなっているが、生年が書いていないので謎が残る。若いころ面識のあった西条凡児は「嫁さんは中村種春の妹とかで威張っていた。」と記していることから、種春の妹であることは、間違いではなさそうだ。

 若い頃は、種二と名乗っていた模様。なぜ種代に改名したのか、いまいち判然としない。弟弟子に、種太郎・種二郎というコンビができて、間違えられるのを癪に思ったのだろうか。あくまでも推測の域を出ない。

 1926年6月8日、『俚謡雑曲 諸国音頭づくし』と称してJOAKに出演。共演は、唄・中村種春、立美三好、中村なたね、囃子・中村種二。

 実際は歌づくしの名を借りた漫才であったようだが、放送局が漫才という概念そのものを嫌がったため、このような形になった模様。なお、紹介欄に「巡業の合ひ間に放送」とあるのが、当時の一行の消息となっている。

 当時の番組表を見ると、『河内音頭』『山城音頭』『福知山音頭』『伊勢音頭』『江州音頭〜葛の葉〜』『鹿児島音頭』『上州音頭〜鈴木主水〜』『支那歌』とメドレーで演じている。

 1927年8月、浅草凌雲座に出演。『都新聞』(8月6日号)の広告に、

▲凌雲座 變更せる一座は
力春、染團蔵、月子、芳子、仲子、菜種、種二、小鶴、鶴子、時奴、お萬、種春、天洋一座外

 また、姉から離れて漫才もやっていたらしく、『都新聞』(12月5日号)の広告に、

▲民衆座 五日夜より万歳競演會 東喜代駒、中村力春、荒川ラヂオ、桂駒之助、中村種二、荒川房丸、橘家花輔

 と、ある。なお、この記載はリーダーだけを記してあり、相方の名は記されていない。喜代駒と力春が組んでいたというわけではないので、注意。

 コンビ結成年は不明であるが、1930年初頭には組んでいた模様。

 1933年、なぜか朝鮮半島を巡業している。『上方落語史料集成』によると、『京城日報』(10月24日号)に以下の記載があるという。

◇[広告]朝日座 十月二十二日より 
 漫歳の王京の福太郎/プログラム 萬歳(京の市太郎 小太郎)萬歳(京の福丸 時子)曲芸(萩村雲山)萬歳(花の家のぼる 雪子)萬歳(秋山文男 かよ子)新舞踊(花柳春代 一黨)萬歳(千本家若丸 静)漫劇(京福会)萬歳(隅田川千鳥 種二)小唄舞踊(松川家米子社中)漫歳(京のキャラメル 福太郎)笑喜劇(京福会)
 入場料 特等七十銭 一等五十銭 二等三十銭 子供二十銭/毎夕正六時開演

 1934年は京城で迎えたらしく、『京城日報』(1月13日号)に、

◇京の福太郎 朝日座に開演 十一日から六日間朝日座に開演する京の福太郎一行のプロは左の如し。
 萬歳(京のチェリー 天の小玉郎)萬歳(林家楽春 玉子)レヴュー(花柳娘連中)萬歳(花の家のぼる ゆき子)気合術(萩村雲山)新舞踊(花柳一黨)萬歳(秋山加代子 富美男)萬歳(隅田川千鳥 種夫)小唄漫劇(京福会)萬歳(富士モンキ 千本家静)漫劇(律世亭キャラメル) 
毎夕正五時三十分開演 入場料 特等七十銭 一等五十銭 二等三十銭 子供二十銭。

 帰国後間もない6月27日、息子・芳彦を授かる。朝鮮巡業は妊娠した状態でやっていたのだろうか。それなら凄い話である。

 芳彦は、戦後、ギターを覚え、玉松一郎に入門。長らく河内音頭の伴奏を担当。後年、京山幸枝若にスカウトされる形で、浪曲親友協会に出入りし、ギター伴奏を務めていた。このお話は、『錦糸町河内音頭関係者』の関係者よりご教示いただけた。ありがとうございます。

 その後は、籠寅興行に近づき、主に神戸千代之座を中心に活躍した。戸田学「凡児無法録」に掲載された常連漫才一覧に、

梅之助、つゆ子 花の家福丸、富奴 平野ノボル、あき子 照夫、芳夫 菅原家千代政、千代子 幸三、うの子 春次 珠児、節子 エンコウ、花枝 唄之家成太郎、田鶴子 山田家千代次(一人高座) 永台、五月 五條家文若、静子 伊村一瓢、末春 桂かん治、都家駒蔵 富士廼家蝶八、ちどり 林家染羽、同染右衛門 桂木東声、小柳 西条凡児、同芸児 端唄美代司、端唄とんこ 隅田川ちどり、中村種二 石川歌柳、女猫 吾妻家ぼら、国春 五條家菊二、平和ニコニコ 中井染丸、河内家兼子 秋山道楽、桜本国雄

 とその名をうかがえる。

 この頃、神戸で一緒に仕事をしていた西条凡児が、二人の芸風と人柄を記録しているが、毒舌の彼だけあって、ボロカスに貶している。以下は『凡児無法録』の抜粋。

隅田川ちどり・中村種二 夫婦共嫌な奴。ちどりは目のトロンとした男。落語の片目の延若の弟子。酒ぐせ悪く、小柳氏のところへ夜這いに行ったとか聞く。嫁さんは中村種春の妹とかで威張っていた。 私の嫌いな女の一人。気が強かった。歌高座、三十石をやった。

 それでも人気はあったようで、新興演芸部と吉本の対立を経て、正式に籠寅興行に移籍した模様。

 1939年10月、浪花座で開催された漫才大会に出演している様子が、『近代歌舞伎年表京都篇』より伺える。以下はその抜粋。

10月1日 浪花座 籠寅のまんざい秋季大会 

ススム・アケミ 尚子・代志子 里子・文弥 色香・圓太郎 華枝・茶福呂
駒坊・成駒 種二・ちどり 捨丸・春代 端唄とん子・美代司 小夜子・直之助

ナンジャラホワーズ アクロバツチツクバー

 その後も、淡々と籠寅興行系の劇場で人気を集めていたが、終戦による混乱と解散により、地方巡業などを余儀なくされた模様。

 1950年以降は、関西演芸協会に参加し、同会の古老として記録されている様子がうかがえる。澤田隆治氏所蔵の名簿によると、1953年には健在で京都市に居を構えている。本名はここから割り出した。

 舞台から離れたものの、芸能界との関係は依然として持ち続けており、芳彦が音楽を志した際は、音楽学校へ入学させた他、玉松一郎への紹介の便宜も図ったらしい。この芳彦はデビューして「近江吾朗」と名乗るが、この名前は千鳥が名付けたものだという。

 1960年の名簿には二人とも名前がない所から、引退した模様か。それでも1963年の『笑根系図』には健在として書かれているので、一応は生きていたと見るべきだろうか。

 弟子には、雑芸をやった隅田川春治、戦後、正司歌江とコンビを組んだ北晴夫(隅田川鶯月)がいる。

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