三遊亭柳枝

三遊亭柳枝

三遊亭柳枝・南喜代子(左)

 人 物

 三遊亭さんゆうてい 柳枝りゅうし
 ・本 名 山本 卯三郎
 ・生没年 1903年12月10日~1961年5月19日
 ・出身地 大阪市

 来 歴

 三遊亭柳枝は戦前戦後活躍した漫才師。漫才黎明期より活躍し、澤田正二郎や阪東妻三郎の芝居を真似にする漫才で人気を集めた。戦時中はミヤコ蝶々と結婚、数年間の夫としても知られた。戦後は柳枝劇団の座長として活躍。上方柳次・柳太、やなぎ浩二などを育てた。

 経歴は手元にある『芸能画報』(1959年3月号)の『新撰オールスタア名鑑』の中に、南喜代子・三遊亭柳枝のコンビが写真と共に出ている。以下がその経歴である。

柳枝 ①山本卯三郎②明治36年12月10日③大阪④大正11年大阪落語、三笑亭柳枝に師事す、昭和3年漫才に転向し同7年吉本興業入社同20年自劇団成立す

 一方、以前も出した慰問名簿「陸恤庶發第七七七號 船舶便乗願ノ件申請」(1938年11月14日)をみると――

「漫才 中 三遊亭柳枝 山本卯三郎 明治三十四年一二月一〇日生」

 芸人が鯖を読むのは珍しくないが、どちらが本当なのか困ってしまう。

 一応「書類」という分類上では後者の方が信頼できるのだが、そうすると後述の享年とつじつまが合わなくなる。

 出身のことは『漫画と読物 上方演芸』(1956年9月号)掲載の「女心をマドわせた僕のマドロス姿」の中に詳しく出ている。その部分を見てみよう。

産れた家だっか。どこで上げたかといやはるさかい、えらいまちがいましてすんまへん。家は大阪の元南区、終戦後は浪速区に変りましたけど、ヘエー千日前です。千日前の通りを南へ行くと新金毘羅はんが、おますやろ。道具屋筋へ入る口にあの新金毘羅さんの南の辻を西へ、何まっすぐにだっかあきまへんで、屋敷なら二十軒もあらしまへんで、まっすぐに行ったら今の高島屋な、そうそう難波の市電の通りえ出てしまいますがな。その電車通りからなら東へ九軒目。くわしく言うと河原町の一丁目と二丁目の境目、だれやジゴクの三丁目やいうのわ。
 あんまり昔は柄の良い所やおまへなんだ。近所には人力車の車夫やら、今の言葉で言うニコヨンも住んでました。エッそこでわいたんかて蛙の子みたいに言いなはんなや。これでも立派に両親はおました。本名だっか、あまり自慢する様な姓名やおまへん、父は山本名は権兵衛、だれや横からごちゃごちゃ言うのん。それは海軍大将や父の名は十郎兵衛かって下手な漫才やらんといて話しがむこえ進まんがな、お父さんは小兵衛と言う日歩の金貸した。毎日五銭、十銭と集金に行きまんねん、今だっか、今は集金に来られてますけど。

 母親は浪曲が好きだったそうで、二代目吉田奈良丸のファンだったという。そして、「卯三郎は浪曲師にしてやろう」と、毎晩のように浪曲を教えた――というのだから、不思議な親である。

 しかし、柳枝は浪曲が好きではなく、むしろ落語家に憧れた。自叙伝曰――

そんな頃から稽古した浪曲に、 なんでならなんだかてだっか、さあそこが立って喰うすしもすしすしで、浪曲はあんまりすきまへんねん。いいえ聞くのわ好きでつけどもな、それより当時一寸踊りの一ツも踊って縞の着物に角帯姿の噺家、つまり落語家が好きでね。と言うのが家の前を夕方車に乗って通う落語家の姿、ヘエ其頃は私の家も難波の大火後、千日前の西賑橋の方におりましたんで、先代林家染丸師先々代桂春団治師等の楽屋入りの姿、ああー噺家は良いもんやなと、ぞっこんほれ込んで入門したのが二代目三笑亭柳枝の門下。此の時十六才の紅顔かれんな美少年だしたけど、美少年五十を越すと、一寸くたぶれました。

 この三笑亭柳枝という人はセミプロのような人だったそうで、本格的な落語家ではなかった。ついたあだ名が「提灯屋の柳枝」という所を見ると商売半分な落語家だったという。どうしてこんな人に入門したのか不明である。

 何はともあれ、三笑亭の名前を貰い、「三笑亭柳歌」と名乗った。師匠について端席や巡業などを行っていたという。

 しかし、三笑亭柳枝に入門したのも束の間、三笑亭柳枝門下を飛び出した

 ウィキペディアでは――

後に勝手に「三笑亭柳枝」の名の入った後ろ幕を持ち出し勝手に「三笑亭柳枝」を名乗り独演会を開いた事で破門される。  

 と、破門理由が書いてあるのだが、この出典がイマイチわからない。

 その後、どういうわけか柳枝は外国行きの客船に乗り込み、マドロスとなったという。前述の自叙伝によると「19歳の時船乗りになった」という。ちょっと引用してみよう。

何んだす? 船に乗ってた頃だった、あれは十九才頃だした。大阪商船の演芸ボーイ、大運航路青島航路、上海航路、南洋航路、若き日のマドロス姿、流行歌手ならこれまた良いとこだんな。写真だっか? 残念ながらB29のおかげで皆焼けました。このアメリカの写真もマドロスの頃かて、ちがいま。 これわ喜劇に変更してから行った時の写真だっせ、むろん最近だっせ、喜劇になったのわ大東亜戦争後だす。

 移籍先の三遊亭圓子は曲りなりにも上方落語では名の通った芸人で、「二丁鼓の圓子」というあだ名があった。落語よりも踊りや鼓の芸が達者で、一部では「色物」とバカにされながらも、人気を持っていた人である。

 この人の門下に入り、「三遊亭柳枝」と改名したそうであるが、三遊派の名前に柳派の総帥たる「柳枝」をくっつけてしまうのが甚だいい加減である。当然の如くこの芸名は落語界から嫌われたという。

 その後数年間、圓子門下としてついていたものの、落語家として花が咲くことはなかった。圓子自体が上方落語の異端児扱いをされており、その弟子となれば扱いが悪くなるのも無理はなかっただろう。

 一方、この頃台頭してきたのが漫才(萬歳)であった。かつては落語にも浪曲にも歯牙にもかけてもらえない底辺の芸能であったが、大正中頃より勢力を伸ばすようになり、興行師や関係者も無視できない存在となっていた。「十銭漫才」と格安の漫才小屋が繁盛したのもちょうどこの頃である。

 結局、柳枝は落語家をやめて漫才師となった。1926、7年頃に漫才師に転身したという。大正が昭和に代わる頃漫才になったのである。

 戦前の「都新聞」を始めとする放送欄では「大正15年漫才へ転向」とある。演者の説明があるラジオ欄や何やらを見ても大体はこの経歴である。「昭和2年転向」というのもあるが、これは誤差であろう。

 漫才に飛び込んだ当初は、花の家豊子という漫才師とコンビを組んで活動していたという。この豊子の経歴は不明であるが、女道楽の出身だろうか。

 漫才に転身した彼は自慢の美貌と所作を生かして「剣劇漫才」と呼ばれるような独自の芸風を開拓した。中でも新国劇の創始者である沢田正二郎の剣劇・居合の真似は絶品だったそうで、大菩薩峠や近藤勇の台詞を言いながら、芝居仕立てで漫才をやる姿で人気を集めたという。

 その巧みでハイカラな漫才でメキメキと頭角を現し、1920年代後半には既に一枚看板となっていたのだから出世は早い。

 1928年4月には、早くも日東レコードから「文化万歳・浮世評定」なるレコードを吹き込んでいる。爾来、柳枝は100枚近いレコードを吹き込むこととなる。

 1930年頃、花子と別れて「花柳一駒」と結婚。

 この一駒は元々神戸福原の芸妓であったが、柳枝と仲が良くなり独立して(落籍された?)、柳枝と結婚した。その流れで夫婦漫才を結成したらしい。「一駒」はどうも芸妓時代の芸名らしいが判然としない。「花柳」は芸妓時代に踊りを得意としたところから(舞踊花柳流)、こう名付けたものだろう。

 一駒は恰幅がよく、ちょっと見ると舞台女優のような華やかさを持っていた。柳枝の恰幅の良さも合わさり、二人の舞台は華やいで見えたという。「月形半平太」などがこの頃の十八番だったそうで、一駒が雛菊、柳枝が半平太に扮して芝居仕立ての漫才を演じたこともある。

 一駒とコンビを組んだ前後で吉本興業と専属契約を結び、吉本の漫才師となった。『上方落語史料集成』によると、初出演は1931年4月、新京極「富貴」の上席だという。 

△新京極富貴 右の助、助六、三馬、源朝、三八、一駒・柳枝、円枝、正光、福団治 円馬、アチヤコ・エンタツ、千橘、枝鶴、亀鶴。

 しかし、この頃はまだ大阪の本舞台には上がれず(落語家の勢力もあったこともあり)、あまりいい待遇はうけなかったという。二人は東京へ下り、当時できたばかりだった神田花月に出勤するようになった。

 初出勤は1932年9月1日――九月上席からである。調べられる限り最古の東京出演記録は『都新聞』(1932年8月30日号)にある。

▲神田花月 一日より
 金語楼、柳好、日廼出家連、一駒、柳枝、芳一、壽賀若、日出子、一蝶、六三郎、栄二郎、笛亀、市丸、花菱、伯龍、大喜利五万楽主演「一目見てから」

 当時、神田花月と金語楼たち率いる日本芸術協会が提携を結んでいたこともあり、早くから芸術協会の寄席に出ることができた。『都新聞』(9月19日号)に、

▲日本藝術協会 二十日より
▼神楽坂演芸場(正蔵、蝠丸、談志、橘松、助平、胡蝶斎、一駒、柳枝、菊語楼、正幸、一朗、九官鳥、小柳枝)

 その後、2年ほど東京を拠点に活躍。東京で名声を得て、関西で売り出すというアベコベの例を生み出した。『読売新聞』(1934年10月12日号)のラジオ欄演者紹介の中に、

◇花柳一駒、三遊亭柳枝さん(漫才)…柳枝は元神戸で落語家をしてゐたが、後漫才に転じて映画漫才を売出し元神戸福原の芸者だつた一駒と相携へて高座生活を続け二年前から東京へ出て浅草その他の席でお目見得評判を頂いてゐる

 とあるところから明白だろう。

 以来、吉本の人気漫才師として君臨し、掛け持ちをする忙しい日々を送った。レコードも数多く発表し、人気を獲得したが、中には「風紀上問題あり」という理由で取り締まられた例もある。

 売れっ子になるにしたがって女性関係も派手になった。浮世亭歌楽が永六輔とのインタビュー(『極道まんだら』)で語ったところによると「借金しちゃ小屋を休んでたのが先代の日佐丸、蝶々の亭主やった柳枝、それに私だ。これが女遊びの三人兄第」という破格の遊び人であったという。

 若い頃の美貌と女の扱いの上手さは、恋多き人生を送ったミヤコ蝶々にして

「私が本気で惚れたのは、柳枝さんやった。上背のあるところと、寝たときにこんもり盛り上がっている胸板の厚さ、無口でとにかく優しいところがほんまにたまらんかった」

(『週刊女性PRIME』2021年1月15日号より「ミヤコ蝶々さん、実の息子が独占告白」)

 と舌を巻くほどであった。

 女遊びの激しさの激化、その上吉本の新人として入って来たミヤコ蝶々に手を付け始めたのを機に、相方で妻だった花柳一駒は激怒。柳枝の遊び癖の悪さ、愛人や妾を平然と作る複雑な恋愛関係、家庭を顧みない性格にしびれを切らして離婚を申し立てたほどであった。

「芸人の遊びや色恋沙汰を見ても温かく送り出すのが芸人の妻や」――今なら間違いなく訴えられそうな倫理観が横行していた当時の芸能界において、本気で一駒がキレて、離縁を申し立てたというのだから、相当に腹に据えかえる所があったのだろう。

 その離縁の顛末を、柳枝と面識のあった吉田留三郎は『まんざい太平記』の中で右のように記している。少し長いが引用しよう。

昭和十三、四年のことだったと思うが、その少し後、柳枝はミヤコ蝶々と、一時、 結婚生活に入っていた。だから、これから書こうとする、もう一つ前の妻の花柳一駒との大モンチャクは、その少し以前のことになる。
 ゴタゴタというのは、天下茶屋の自宅へ主人の柳枝が全然帰らなくなったことから始まる。先ず、はたの者や弟子達がヤキモキしたりハラハラしたのであるが、特に困ったのは 弟子の柳太郎であった。というのは彼は一駒の甥だったからである。現在、松竹芸能の課長になってソツなくやっているくらいのカイショ者ながら、さすがにこの時だけは右往左往、すったもんだの末、どう話がついたものか、ある日、柳太郎が、一駒からの預かり物を風呂敷に包んで師匠のアジトに届けて来た。中には羽織はかま、その他、すぐに舞台に立てるだけの衣裳一切がそろっている。言わば武士の魂ともいうべきものであるから、柳枝も、その心意気にしんみりとした時、白足袋の片方に、自分の標札がはいっているのを発見した。
「これが縁切り状のつもりか」と、苦笑しかけたが、笑いは途中でこわばった。というのは、衣裳と標札以外に、身のまわりの下帯一つ添えてないことは、
「お前なんかイショウ(一生)タビ廻りしているがいい」とのナゾでないかと、頭の早い人だけに、ピンと来たわけであった。

 吉田留三郎は、この離縁の一件を深く感心しているが、一駒からして見れば「もしできるなら張り倒してやりたい」とでも思っていたのではないか。ましてや別れようとする相手が人気もあり、給料もいい。自分よりいい女を抱えていい家庭を築き上げようとする姿勢は、さぞや不快だった事であろう。

 柳枝が家を飛び出す前後、既に代理妻のようにおさまっていたミヤコ蝶々は、一駒とバッタリ会ってしまった。一駒は蝶々を見るや(『女ひとり』より)。――

「あんたか、蝶々いうのは。まぁ、たいした女やない。小いそうて赤いコート着て、達磨みたいな女や」 

 と嫌味を言ったそうだが、その後に「でも、あんたも若いんや、よう考えなあかんでぇ。欲しかったらあげてもええけどな――」と平然と言い放ち、そのまま去って行ったという

 結局、柳枝・一駒は1938年7月、南地花月下席への出演を最後にコンビ解消。一駒は漫才をやめ、柳枝は文の家久月というこれまた女性の相方とコンビを組んだ。

 久の家文月は、本名・前島久子といい、1901年1月26日の生まれである。この人に関してはまた別項に記そうと思う。

 柳枝はこの文月にも手をつけたらしく、1939年6月上席を持って彼女とコンビを解消する事となった。久月には福勇という夫があり、その関係者からクレームがついたのかもしれない。

 芸能界内の批判や冷たい目線を逃れる為か、1939年6月より、不二乃道風という男性とコンビを組んで、しばらくやり過ごす事となった。不二乃道風もまた別項を記す。

 この道風とコンビを組んでいた頃、本格的にミヤコ蝶々と関係ができ、1942年頃に蝶々の家へ転がり込んだという。その時には3人の愛人がいたというのだからこれもすごい。

 かくして事実婚状態になった2人であるが、柳枝の女癖はひどく、僅か1年足らずで事実上の夫婦生活が終わっている。それでも「戦時下」ということもあり、二人は別れなかった。その間に一子・日向利一を設けているが、父親として愛情を注ぐことはほとんどなかったという。

 1945年6月1日には大阪大空襲に遭遇。この時ばかりはミヤコ蝶々と手を取り合って逃げ惑った。この際に家財道具や資料をほとんど焼いてしまっている。

 戦後、吉本と契約解除となり、「柳枝劇団」を結成。漫才、喜劇、芝居何でもありの一座をこさえて全国を巡業するようになった。

 この頃、弟子の胡蝶(後の南喜代子)とデキてしまい、ミヤコ蝶々と対立するようになる。蝶々は柳枝の女癖の悪さに愛想をつかし、最終的には離婚という形となった。この柳枝劇団に「スタッフ」として入り込んできたのが、ミヤコ蝶々の後の夫となる南都雄二であった。

 ミヤコ蝶々に去られた後は南喜代子と再婚。自らを座長に一座を再編成し、全国を巡業。さらにはアメリカ巡業へと出たという。よくも悪くも大きな博打であったが、その結果は――前田和夫『漫才繁笑記』に詳しい。

職業では食えぬと、若い者十数人と一座を組んでアメリカへ渡ったのが三遊亭柳枝・ 南喜代子夫婦コンビだ。どれだけの効果があるか、ヤマのものともウミのものともわからぬ外地に”リュウシ劇団”の旗をあげた。ところがフタをあけてみると二世、三世がワンサとつめかけてきた。予定スケジュールを終わっても、なかなか帰してくれなかった。そのうちにホームシックかかる座員もでる始末だった。

 ただ、当時のアメリカで発行された日系新聞があまり残っていない関係から、どういうルートを辿ってどれくらい在籍したのか、いささか謎が残る。

 わずかに残された新聞を国会図書館で手繰って行けば何かわかるかもしれないが、それをこなすだけの余裕は今筆者にはない。

 ただ、アメリカに行ったのは事実らしく、ハワイのパイナップル畑の前で笑顔を見せる柳枝の写真などは残っている。

 この頃に弟子入りしたのが後の人気漫才師となった上方柳柳太である。

 1957年1月、久方ぶりに漫才界へ復帰し、夫婦漫才「南喜代子・三遊亭柳枝」として高座へ出るようになった。

 もっとも、柳枝劇団の人気は依然として高く、漫才師と劇団の二足草鞋を履いて働いていたというのだから忙しい。松竹に入ってからは「松竹爆笑劇団」と改名するに至ったという。

 この復帰後に収録した音源がいくつか残っている。また、二人の舞台の模様は『米朝上岡が語る昭和上方漫才』に詳しい。少し長いが引用しよう。

上岡 三遊亭柳枝師匠、ぼくらの子どものころは「柳枝劇団」もあって、吉本新喜劇にのちに出てた南喜代子さんとコンビを組んで、コントみたいなことをやっていました。ミヤコ蝶々先生の最初の旦那が柳枝師匠で、のちに蝶々先生とコンビを組んで、夫婦でもあった南都雄二さんも「柳枝劇団」の元々座員だったそうですね。
米朝 柳枝さんとは神戸松竹座で二回ぐらい出番が一緒になったかな。 柳枝さんも台本を自分で書いてはった。 
上岡 柳枝師匠の漫才もよかった。ぼくらが漫画トリオの頃に柳枝師匠から、「もったいないなァ、あんたらの二十分の漫才を私らやったら一時間やる」といわれた。
米朝 そやね、間をとってね、
上岡「それそれいうか、 それいうか」(笑) いうてね、ねちっこい漫才でしたけど、何ともいえン面白かった。
米朝 海外旅行するというネタで、二十分経っても海外旅行へ行けヘンねんからね(笑)。飛行場の話で、パッと両手を水平にして、自分を飛行機に見立てて、で、脇の下を示して、「ここにちょと毛を生やして」(笑)という。
上岡 しょうもないことをね(笑)。海へ潜るという話があって、「(早口で)むこうから来る魚、 チョトつかまえて、ワサビをチョトつけて、キュッと食べる」とか、しょうもないことをウダウダいうンやけど面白い。

米朝 「刺身食べ競争をする。 昔、腰にワサビおろしをブラ下げて」という(笑)。「かげで魚が待ってねや」とかね。上方柳次・柳太さんはこの柳枝師匠のお弟子さん継ぎで、「柳枝劇団」の役者でしたですね。梅次さんが二枚目でね、いてはりました。

 1959年4月に体調不良で倒れ、入院。糖尿病が発覚したそうで、亡くなるまでの間、糖尿病との闘病を余儀なくされた。最後の2年ほどは糖尿病でボロボロになった肉体との戦いだったという。

 1960年6月、東横ホールにおいて行われた「東横喜劇祭」に出席。この時の上京が最後の東京行だった模様か。

 同年7月15日より、「松竹爆笑劇」と称して京都南座に初出演。10日間興行を打った。 

 同年12月より名古屋御園座で年末公演を実施。

 そうした仕事の合間を縫って1960年の間、当時の人気スターだった東千代之介、美空ひばり、丘さとみのトリオを主軸にして撮影されたコメディ時代映画「花かご道中」(工藤栄一監督)に出演。

 丘さとみ扮するお喜久の父「武蔵屋喜多八」としていい脇役をもらっている(本来弥次喜多で旅するはずが弥次喜多ともに病弱なために、弥次郎の娘・お弥重、喜多八の娘・お喜久が父の代わりに東海道の珍道中に出るという設定)。

 ちなみに「喜多八」の名前通り、相方の弥次郎兵衛も存在する。映画の中での弥次さんは、ミヤコ蝶々と兄弟分だった島ひろし――とは何かの因縁だろうか。

 この映画は1961年1月に公開され、当時の娯楽映画としてなかなか高い評価を集めた。

これが最後の大輪だったらしく、間もなく体調不良を訴えて入院。ほとんど表に出ることはなくなったという。

 入院中の柳枝にあった事のある澤田隆治氏は生前、「柳枝さん、乃木将軍みたいに髭を生やして、げっそり痩せていましてね。そそくさと帰ったことがありますわ」といっていた。氏の著作『上方芸能列伝』曰く――

 蝶々さんといえば、たった一度だけ柳枝さんの名前をその口からきいたことがある。神戸で公演中の蝶々さんの楽屋を訪ねていろんな話をしていたときである。
「なんちゅうこっちゃ、わしをすてる男はみんな糖尿になりよる。柳枝さんやろ、雄さんやろ、それにあいつもいま糖尿なんやて」
 私は、柳枝さんが糖尿病で入院して、もう長くないときいて阿倍野の病院に見舞った時、あの大きな顔がすっかり小さくなり、白いヒゲに包まれてまるで乃木将軍の様になってしまっているのをみて哀しくなった日のことを思い出した。

 糖尿病の免疫力悪化と胃癌のダブルパンチでやせ衰えたのではないだろうか。

 1961年5月19日、57歳の若さで死去。当時人気があっただけに、全国紙に訃報が掲載された。『読売新聞夕刊』(1961年5月19日号)を見てみよう。

三遊亭柳枝(漫才師、本名山本卯三郎氏)十九日午前十一時三十分糖尿病のため大阪市阿倍野区阿倍野筋一の鳥潟病院で死去。五十七。告別式は二十日正午から午後一時まで、阿倍野筋四の泰清寺で。

 一方、『芸能』(1961年7月号)などでは「胃がんで死去」とある。本当の死因はどうなっているのだろうか。

当時の人気者の死とだけあって葬儀は中々豪快なものだったという。

コメント

You cannot copy content of this page

タイトルとURLをコピーしました