芦乃家雁玉
雁玉・十郎コンビ(雁玉は左)
角座での一枚。
左からミスワカサ、雁玉、秋田実、都家文雄
後ろに海原小浜、お浜、正司歌江
最晩年、都家文雄とテレビに出演
人 物
芦乃家 雁玉
・本 名 三井 寒三郎
・生没年 1894年1月20日~1960年12月30日
・出身地 大阪府 大阪市
来 歴
戦前戦後第一線で活躍続けた上方漫才の大御所。頭でっかちな所から『タコ壺』の愛称で慕われ、第一期の『上方演芸会』の司会を勤め、「いらっしゃいませ、こんばんは」を流行語にするなど、関西弁の啓蒙にも一役を買った。今日では芦屋雁之助・小雁兄弟の師匠として知られる。
実家は大阪きっての袋物問屋であったらしいが、兄弟揃って道楽者だったらしく、兄は俄役者になって東明幸三郎と名乗っている。
この兄の影響で幼い頃から寄席に出入りしたり、開口一番のような形で高座に出ていたらしく――幼い頃楽屋の芸人に酒を飲まされ泥酔、高座の座布団の上で寝てしまい、「酔っぱらい小僧」とあだ名された――などという逸話から、早くから舞台に出ていたのは間違いないだろう。
然し親が芸人稼業を許すはずもなく、成長後しばらくして同業の袋物問屋に奉公へ出された模様である。『サンデー毎日』(1936年10月25日号)の『笑ひの人國記』をみると、
芦の家雁玉は難波新地二番町の生れだから、純粋の大阪つ子である。
家業は有名な袋物商、子供の時から芸事が好きで、一日中腰をかゞめて計をにぎつてゐる袋物師では、どうにもあき足らず、とう/\笑福亭吾竹の弟子になって夜だけ落語の勉強を初めたものだ。が、さてこの道で食ふのは並み大ていではない。と悟ったのが五年後、廿三歳の時だつたが、この時現れたのが、當時関西を風靡してゐた万歳師砂川捨丸で、”こりやあおもろいナ”といふので、安来節と珍藝を賣りものにして、この一座に入つたのが漫才のなり初めである。
『芸能画報』(1959年4月号)の『新撰オールスタア名鑑』に略歴が出ている。この時にはすでに雁玉十郎のコンビを解消していたはずであるが、コンビ扱いされている。どうしたもんかね。
雁玉 ①三井寒三郎②明治27年1月20日③大阪市④大正2年法善寺紅梅亭で落語家として寄席に出演後同5年漫才に転向。現在は十郎と共に関西漫才界の重鎮
上の『サンデー毎日』と折半すると、幼い頃から芸界に出入りをして、商売の傍ら、夜席だけには出ていたが、後年本格的に入門して、紅梅亭で初舞台を踏んだ、と見るべきだろうか。
1913年頃、笑福亭吾竹(笑福亭吉右衛門)の門下に入り、春の家雁玉と名乗る。雁玉は「中村鴈治郎と実川延若の舞台に陶酔していたので、延若の裏門(三ツ雁金)、鴈治郎の「雁」を頂いたのだそうである」(秋田實『ああ雁玉さん』より)。
この吉右衛門という人は、寄席の音曲や歌を得意とした人で華やかな芸風で知られたという。ここでしばらく修行を重ねるものの、1917年頃、独立して漫才に転向。なぜ独立したか不明であるが、吉右衛門が独立後2年足らずで死んだところを見ると(1919年頃没?)、師匠の病気などもあった模様か。
引き続き春の家雁玉で出ていたが、「幸田」という俳諧師から「春の雁は寒い国に帰って行くので、成功する名には適さない」(秋田實『ああ雁玉さん』)と諭され、雁に縁のある芦を元にして、「芦乃家雁玉」と改名する。
それから間もなくして先輩漫才師、玉子家春夫とコンビを組んで本格的に漫才へと移行。砂川捨丸一座に入った、という前述の記載は、この頃のものだろうか。独立後まもなく、ある漫才師の一団と共に上京をして、吉原を巡った逸話も残っている。
なお、一部文献に「玉子家春夫」と名乗ったというのもあるが、これは誤りである。玉子家春夫はずんぐりむっくりした人だったらしく、長身だったところから、「エンタツ(煙突の意)」の綽名があったと聞く。
端席や地方巡業で腕を磨き、1922年頃、吉本興業に入社。1922年11月の「吉本三友派合同プログラム」の中では、「玉子家春夫・芦ノ家雁玉」として出ている。
それから間もなくして春夫と別れ、春夫の兄弟弟子にあたる玉子家政夫とコンビを組み、吉本興業系の寄席に出演するようになる。但し、当時は落語が主流だったため、北の花月に出演できるようになるまでに四年、南の花月には六年かかるなど、待遇としては決していい物ではなかったようだ。
『柳屋』(1928年11月号)などの記載を見ると、大柄で髭ヅラの政夫が、大島の背広を着て出てくる舞台だったそうで、中々珍妙な取り合わせで人気を集めたと聞く。
このコンビで人気を集めるようになったものの、1927年頃解消し、林田十郎とコンビを結成。徳川夢声『問答有用1』の鼎談の中で、
夢声 ええと、あなた方がコンビになつてから、途中で切れたのは入れないで、何年になるわけですか。
雁玉 昭和三年からですわ。
十郎 足かけ二十四年だんな。
と語っているように、十郎とのコンビ結成年は、「1928年」説が一番有力であるが、1927年12月弁天座で行われた「全国萬歳座長大会」の中で、すでに「雁玉・十郎」として出ている事から、それ以前から暫定的にコンビを組んでいた模様である。
『落語系図』掲載の『昭和三年三月より昭和四年一月十日迄で 花月派吉本興行部専属萬歳連名』では「雁玉・十郎」として定着している他、前述の『柳屋』掲載の若葉薫『萬歳繁盛記』の中で、「そして、雁玉ともう一ど、なぜ、つるんで、でないか?!」と書かれている所から、1928年には確実にコンビを組んでいた模様である。
以来、吉本専属の漫才師として迎え入れられ、幹部格として活躍。二人とも雁玉・十郎ともに、根がにわか役者だけあってか、芝居ッ気があり、実に洒脱で味のある、大阪風にいう所の「もっちゃり」した味を遺憾なく発揮した。
高音で二枚目の十郎に対し、雁玉は三枚目でドスの効いた低音が魅力的であり、舞台の上では「タコつぼ」(雁玉)、「サエラ(さんまの意)」(十郎)と応戦する事も多く、これが内外での仇名となった。
俄の「宝蔵破り」を元にした「元は役者」、高座の上で喧嘩をはじめて、客席を二つの会場に見立ててしまう「笑売往来」、アフリカでは、競馬ならぬ「競キリン」が流行っている、という突飛な発想で競馬実況のまねごとをする「競キリン」など、当り作品で、また、余興的に『落ちてるよ』という古い音曲のネタをやる事があった。
今日でもこれらの音源、速記は秋田実編纂の本やレコードで聞くことが出来る。
1937年5月1日、「靖国神社慰霊演芸会生中継」に出演し、「蚊学戦」を披露。共演は五代目三遊亭圓生、柳家金語楼など。
1938年11月、第二回わらわし隊のメンバーに選出され、北支に派遣される。他のメンバーは、花月亭九里丸、鹿島洋々・深田繁子、満州日出丸。
この顛末は早坂隆『わらわし隊の記録』に詳しい。本当に興味のある人は読んでみてください。
11月14日、大阪朝日新聞本社を訪ね、レストラン「アラスカ」で壮行会。翌日、大阪駅を出発。
11月21日、塘沽に到着。ここまで偶然乗り合わせた水の江滝子一行と慰問会を行っている。以降、中国各地を巡演。
12月19日、中支班などよりも早く到着。一足早く凱旋公演を行っている。
1939年6月18日、海軍勇士慰問放送に出演し、「非常時発明家」をラジオ放送。
戦時中も吉本興業の大幹部として活躍を続けるが、敗戦前後に林田十郎とコンビ解消。
浮世亭歌楽と共に「劇団コロッケ」を結成し、地方巡業に出かけるようになった。
この劇団は軽演劇とこそ謳いながら、実際はニワカをやっていたそうであるが、元俄役者が集まっただけあってか、見事なユーモアがあり、二代目桂春団治が出入りする程の当時の一大勢力だった模様。
戦後直後(1946年)、この一座に子役として入り、芸界のイロハを学んだのが、芦の家一春――後の露の五郎兵衛であった。
戦後、行方不明になった林田十郎を探し出し、コンビ再結成。
1947年、松竹芸能に移籍(『アサヒグラフ』(1948年8月11日号)「漫才家告知板」)。松竹に参じ、雁玉とコンビを復活するものの、「吉本の借金を松竹が肩代わりする、その代わりに漫才は当分やらせない」という条件が付いたため、漫才ではなく喜劇で掛合をするという逃げ道を作った。
同年11月、雁玉十郎コンビ名義で、「喜楽座」を結成し、地方巡業に出かけるようになった。暫くして寄席が復興し、上方演芸会の司会に抜擢されたことから、自然解消した。
1948年4月、関西演芸協会設立に関与し、幹事に就任。会長は講談の旭堂南陵、副会長は五代目笑福亭松鶴。後年、南陵が会長職を辞し、松鶴が受け継いだが、就任後急死したため、まわりに推挙される形で、三代目会長に就任している。
1949年、西部清、秀郎兄弟が入門。雁玉は若い二人に期待をして「雁之助・小雁」と名付けた。然し、この二人が「芦屋」と名前を変えた事に激怒、破門という形にしてしまっている(名前は取り上げず、最晩年和解をした)。
1949年9月、JOBKで「上方演芸会」がスタート。秋田実の斡旋で、司会に就任し、「いらっしゃいませ」「こんばんは」で始まる上方味の強い構成は、全国の聴衆の心をつかみ、一躍人気番組となった。
但し、当初は司会をやる事に関して、いささか抵抗があったらしく、秋田実や局員を困らせるようなわがままをいったそうで、『米朝上岡が語る上方漫才』の中でも、
上 岡 芦乃屋雁玉・林田十郎さんが司会をやってはった。
いとし やっぱり、放送局としては初めに大物スターがバンと出ンことにはね。
上 岡 あの番組は漫才が三組ぐらい出ましたか。
こいし 初めは三組で、四組の時もあったンや。もち時間が三分から四分ぐらいやな。一番初めの時に雁玉・十郎師匠にいわれたで。「何でお前らをわしらが紹介せんならンねん」。そら、古い芸人さんやから。まァ、局のお方がやね、なだめてくれたけどな。
と内情が暴露されている。
然し、この上方演芸会の人気によって、雁玉十郎のコンビは、その地位を不動のものとしたのだから皮肉である。
その人気にあやかってか、雁玉十郎とその出演者の様子を撮影した「上方演芸会」のフィルムが残っており、NHKのライブラリーでその抄を見る事ができる。
その後は復興する大阪の劇場、舞台に次々と立つようになり、放送の仕事の傍ら、戦前からの代表的コンビとして、トリを飾り続けた。老いてもなお、飄逸とした味を失うことなく、老若男女問わず爆笑をかっさらった点は、もっと高く評価すべきであろう。
1957年、花月亭九里丸らと協力して、四天王寺に「笑魂塚」を設立。先人たちの苦労と御霊を労おうとした。今日もこれは、四天王寺に残っている。
この設立式の時のフィルムが残っており、洋装に数珠を首から下げた雁玉が、せかせかと動いている様子が確認できる。
1958年5月下席、角座のこけら落としに出演。大トリを飾る。しかし、その直後に林田十郎が和歌山県白浜で倒れ、昏倒。相方に障害が残ったため、コンビを解消する羽目となった。
その後は司会をやったり、1959年4月には秋田実の斡旋で、都家文雄とコンビを組みなおしたが、うまくはいかなった。
前田和夫『漫才繁笑記』によると、文雄とのコンビは刺々しい舞台だったそうで、舞台上から破門にした芦屋雁之助・小雁兄弟を「アイツラは師匠をバカにしとる」と放言して、彼らのファンから顰蹙を買うなど、コンビ的には恵まれなかった。
その後、文雄とのボヤキについていけない形でコンビ解消を申し出、コンビ解消。その後はピンで活躍する形となった。
晩年は、戦前からの草野球チームを再興させたり、野球ブームで生まれた南海ホークスの応援団長を買って出て、野球ファンを驚かせたり、松竹と揉めて歌舞伎界を飛び出した二代目中村鴈治郎が「漫才でもやりまっせ」と冗談を言った際に「漫才はそんな簡単なものではない」と本気で噛み付くなど、大御所芸人らしからぬフットワークの軽さや奇行で知られる事となった。
秋田實の追悼文『ああ雁玉さん』で、「ワンマン的で、わがままで、単純で、強情で」と書かれたように、よくも悪くも芸人気質の人だったそうで、そのわがままさ、子供っぽさに反抗する人もいた反面、その厳しい目で芸人たちを律していた、という見方もできなくはない。
一方、私生活では「仏のような」善人であり、一人で掃除も買い出しもやれば、近所の付き合いもよく、孫を溺愛しておもりをする、というような家庭人的な一面も持っていた。
秋田實はこのちぐはぐな二面性を「ひとりぼっちの淋しがりの一市井人ではなかったか」と評しているが、そんな人柄故に、自我を通し、かつ畏怖されながらも愛されたのではないのだろうか。
1960年の年末、心臓病に倒れ、急死。66歳であった。その最期の模様が『漫才太平記』に出ているので引用。
恐ろしく冷たい朝であった。心なき人がまく水も即座にコチコチに道に凍りついてしまった。この道を踏みしめて関西の演芸人のほとんど全員が黙々として玉出本通の雁玉さんの家に集まって来た。この日、昭和三十五年もギリギリの大詰めの十二月三十一日、芦乃家雁玉さんの葬式が自宅で行なわれたのであった。病気も大分よくなって孫さんを抱いている程だと聞いていただけに、前日その急死を知った時は皆ショックだった。心臓麻痺だいったという。
行年六十六歳、漫才の歴史と共に歩んで来た生涯ということが出来る。特に終戦後の活躍ははなばなしく、三十三年、病気に倒れた相棒の林田十郎と共に大阪の漫才の復興に尽くして来た功績は大きい。
人気漫才師の死だけあってか、全国紙で取り上げられたのは、彼の知名度を証明するものであった。また、秋田實は『漫画読本』(1961年4月号)に追悼文『ああ雁玉さん』を書いている。これは『秋田實名作漫才選集2』で読むことができるが、実にいい追悼文である。
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