大浪弘士・銀子
関係者提供
人 物
大浪 弘士
・本 名 小川 直己
・生没年 1919年2月20日~1983年以降
・出身地 ??
大浪 銀子
・本 名 小川 八重子
・生没年 1925年10月23日~1983年以降
・出身地 ??
来 歴
戦後活躍した夫婦漫才師。音曲漫才を得意としたというが、謎は多い。今日の宮川小助が一時在籍したボーイズグループ「スリーエース」を率いた事が、このコンビの業績といえようか。
出身地等、謎は多いものの、昭和末まで芸能界にいた事もあって、相羽秋夫『上方演芸人名鑑』に略歴が出ているので引用。なお、生年月日は『出演者名簿1963年度』から割り出した。
大浪銀子 おおなみぎんこ 【音楽ショウ】
本名小川八重子。一九二五年(大十四)~
大浪弘士の妻であり、秀也・正也の母である。はじめ弘士と二人の漫才であったが、竜士を迎えてスリーエースという音楽ショウとし、やがて子供の成長を待って弘士・銀子共に過程に入った。前名大空銀子。大浪弘士 おおなみひろし 【音楽ショウ】
本名小川直己。一九一九年(大八)~
エノケン一座、宮城千賀子一座を経て、大浪銀子と漫才コンビを組む。最初安井ジンと言ったが、現在名に改めた。一時大浪弘と表わしたこともある。大浪竜士を入れ、大浪トリオと名付けたが、二代目竜士の時より、スリーエースにした。以後の構成メンバーは〈弘士・銀子・竜士・正也〉〈弘士・銀子・正也〉〈弘・正也・ひでき・みどり〉〈正也・秀也・みどり〉〈まさや・ひでや・マコ・小助〉と変遷をたどった。
『笑根系図』を見ると、師匠なしの独立独歩のコンビとして記載されている。妥当という所か。
コンビ結成年等は不明であるが、戦後まもなく結婚して、やり始めた模様か。然し、情報がないので何とも言いようがない。
1947年、長男・正也が誕生。この子も、成長後にスリーエースに参加。宮川小助などとメンバーの変遷をたどりながらも、平成初期まで活躍したという。
1950年、二男・秀樹が誕生。この子もギター演奏を取得し、後にスリーエースに参加。大浪ひでき、大浪一也、大浪一也、後にひでやと改名して、親引退後も活躍をつづけた。
1950年代後半に松竹演芸に入社し、同社の専属芸人として、角座や松竹座などに出演するようになった。
当初はギターと三味線の夫婦漫才であったが、後に大浪竜士を入れ、「大浪トリオ」なる音楽ショウに転向。
更に二代目大浪竜士(1932年~?)にメンバーチェンジをした際、「スリーエース」となる。後に長男の正也が加入し、カルテット、更に竜士が抜けて、親子トリオ。かと思えば、二男と弟子を入れ、クインテットになるなど、凄まじい変遷をたどった。
1969年1月、秋田実発行の同人誌『漫才』を見ると、「大浪銀子・弘士・正也」のトリオになっている。この辺りの変遷には謎が多い。
達者な演奏技術と技芸を持っていたそうであるが、これといって話題になることなく引退。さっさと子供たちに看板を明け渡してしまった。
引退したとは言いながら、人生幸朗、山崎正三率いる関西演芸親和協会に長らく籍を置いており、演芸界との関係は持ち続けた模様。なお、弘士の名義は「大浪弘」になっている。理由は知らんよ。
『日本演芸家連合』の名簿を読み進めると、1983年度まで同協会に在籍している様子が確認出来た。それ以降名前が消えるので、完全に引退したか、どちらかが没したか。
二人の倅は生きてそうなものであるが、こちらも芸能界を去ったと見えて、消息がつかめない。困ったものである。
コメント