花月家花奴・山崎登吉

花月家花奴・山崎登吉

 人 物

 花月家かげつや 花奴はなやっこ
 ・本 名 山崎 春枝
 ・生没年 1883年~1943年
 ・出身地 関西?

 山崎やまざき 登吉ときち
 ・本 名 山崎 登吉
 ・生没年 1899年~1963年以降
 ・出身地 関西?

 来 歴

 戦前活躍した夫婦漫才師。漫才師としては古く、大正年間から一枚看板として君臨した。山崎登吉は当時として珍しく、本名が芸名と兼任という形をしていた。

 両人とも前歴はよくわからない。花奴は、名前から安来節か、女道楽の出ではないかと思うのだが、確証は得られない。

 漫才師としての経歴は古く、1920年代には既に一枚看板であったという。

 1925年2月には既に一枚看板になっていて、『上方落語史料集成』によると、

◇笑福亭 
一日より三馬、光月、藤男、助六、義弘、菊丸、小枝鶴、三八、文英、文俊、福松、花奴、登吉、枝太郎。

 同年12月、玉造三光館に出演。

▲玉造三光館 蔵之助、花橘、右円喬、ざこば、遊三、勝太郎、小円太、朝日日左丸、花奴、登吉、夏雲昇等

 と、ある。長らくこの玉造三光館を根城にした模様か。人気があった割には、吉本の主要劇場に出てこないのは、どうしたものだろうか。

 上にあるように、当時の漫才師にしては珍しく、震災前後からレコード吹込みを始めている。その数は多くはないが、「萬歳」の名残を残す貴重音源を残した。以下は『演芸レコード発売目録』に残っている花奴・登吉の吹込み記録。

 1925年10月、ニットーから「掛合小原節・掛合東雲節」。

 1926年1月、ニットーから「滑稽鴨緑江節・すっとんとん」を吹き込み。

 同年2月、ニットーから「滑稽都々逸」。

 同年4月、ニットーから「顔の口説・交通宣伝五段返し」。

 同年5月、ニットーから「数え唄」。

 同年6月、ニットーから「籠の鳥・磯節」。

 同年7月、ニットーから「滑稽鴨緑江・チュー廻し」。

 1927年4月、ニットーから「掛合小原節・吹寄せ春雨」。

 同年7月、ニットーから「滑稽さのさ・先代萩」。

 同年8月、ニットーから「浪花節入り都々逸・滑稽鴨緑江」。

 1928年9月上席、松島花月に出演。

△松島花月 小円馬、小柳三、扇枝、ベニヂツク、サモパイ、小文治、文治郎、静代・文男、三木助、小春団治、花奴、登吉、扇遊、蔵之助

 同年11月、松島花月に出演。

△松島花月 勝太郎、重隆・武司、小春団治、蔵之助、喬之助・清子、都枝・七五三、円枝、金語楼、花奴・登吉、円馬、升三、春団治、小円馬、円若

 その後は、吉本の中堅劇場へ出たりしている。

 ちょうどその頃、『柳屋』(1928年11月号)掲載の若葉薫『萬歳繁盛記』に芸風が掲載されている。前向きな若葉薫には珍しく、否定的見解で、

 山崎登吉に花奴といふのはレコードできくと、のどがいいからきかれるが、高座は、とても頂けない。――花奴といふ女のへんにひと許りくつてるやうなここも不愉快だし、何かの都々一で赤いパッチを、姫御前のあられもなくだし給ふのも、土台が美しからざる御婦人丈けに恐惶頓首だ。
 あれは、困る!

 と、花奴の淫靡な芸風が疎まれたようである。

 また、ちょうどその頃まとめられた『落語系図』掲載の『昭和三年三月より昭和四年一月十日迄で 花月派吉本興行部専属萬歳連名』に「花月家花奴・山崎登吉」として名前が出ている。

 1931年2月、新京極下席に出演。出演者は、

△新京極花月 小金・小三、房吉・鶴枝、成駒・玉太郎、市松・芳子、長春・一瓢、笛亀、政月・米二、慶司・歌江、亀鶴、鶴春・芳江、登吉・花奴。

 その後は、吉本の中堅として活躍。達者な芸風であったというが、しゃべくり漫才の波には乗り切れず、地味な中堅で終わってしまったのが残念である。

 ただし、東京の神田花月や浅草花月とは縁が深く、早くからこれらの劇場に進出している様子が『都新聞』などから確認できる。

 戦時中はなぜか松島家圓太郎の家に寄託する形で、帝都漫才協会に参加。本名はこの帝都漫才協会の名簿から割り出したりした。

 1943年、花奴没。没年は『笑根系図』より割り出した。其の後は富士子なる女性とコンビを組みなおし、新興形の舞台に立った。

『近代歌舞伎年表 京都編』の1943年7月のページにこんな記載がある。

〇七月十一日~ 正午開場 京都座

色島栄吉作・脚色 坪井正直演出
朝映え富士 市川男女之助一座
【出演】伊沢宏 長岡三郎 村井京二 花柳かつ子 岩井咲子 ほか

(歌謡ショウ) ニッチク 楠木繁夫テイチク新進歌手 福原のり子 田中福夫その楽団

大曲技松岡ヘンリー一行

 水田キング作 高槻駿演出
泣き虫石松 四景 劇団永田一党
【出演】永田チエ子 永田ボンヂ 永田小キング 伏見良子 ほか

新興新作漫才

【出 演】新人 山崎登吉・富士子 貞奴・愛子 洋月・艶子 染葉・照太一郎 一奴・みやこ

 この後、しばらくして、登吉は、祇園洋子なる少女とコンビを組んだ。

 この洋子は実の娘だという噺、笑根系図にはそれという記載もない。1929年の生まれで、登吉と組んだ時には、親子漫才に近い状態であった。戦後は『川崎登吉・祇園勝太郎』と改名したらしい。

 戦後は松鶴家団之助の経営する「団之助興行」の所属芸人として巡業や余興を中心に活動していたという。

『出演者名簿 1963年度』には、「川崎登吉・松島洋子」名義で出ている。松島洋子というと、後年吉本で浪曲漫才で売った「愛花・洋子」と同姓同名であるが――なぜか『浪曲ファン』(52号)の「芙蓉愛花が復帰」の中では、芙蓉愛花の両親が、この「登吉・花奴」だという。

 以下はその引用。

愛花は福岡博多の生まれだが、すぐ京都に移り三歳から歌で舞台に立った。これは両親が山崎登吉・花月家花奴という夫婦万才だったからで、小学校時代を除いて、ずっと舞台という根っからの芸人育ちである。

 しかし、これは管理人自身も初耳であった。後で愛花氏の関係者に聞くと「親は登吉・花奴の漫才師」と語っていたそうなので、間違いではないようである。それにしても、なぜ名前が逆さまになったのか。

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