桂春雨・ミスワカ子

桂春雨・ミスワカ子

河村節子時代のワカコ

 人 物

 かつら 春雨はるさめ
 ・本 名 川村 一郎
 ・生没年 ?~1960年
 ・出身地 ??

 ミス ワカ
 ・本 名 川村 せつ
 ・生没年 1914年3月2日~1985年2月27日
 ・出身地 大阪府 東大阪市

 来 歴

 桂春雨・ミスワカ子は戦前活躍した漫才師。桂春雨の名前の通り、二代目桂春團治の弟子で、元噺家である。なお、今日も現役で活躍している桂春雨氏とは叔父甥弟子にあたる。

 その割には資料が少なく、判らない点が多い。本名は澤田隆治氏所蔵の演芸人名簿から割り出した。

『ご存知古今東西噺会紳士録』の橋本礼一の解説、

入門年代不詳。始め一福といったが、師匠桂福團治が、二代目春團治を襲名した時、一福も春雨と改名した。入門順からいうと、二代目春團治の筆頭弟子のようである。しかし春雨の修業時代に、上方落語は衰退期を迎えた。春雨は将来に希望が持てなくなったのか、漫才に転向してしまった。それも師匠が属する吉本ではなく、敵派の新興演芸部に移り、ミスワカ子とコンビを組んだ。その時期ははっきりとしないが、新興演芸部旗揚げの昭和14年頃のようだ。落語家としての技量は不明だが、漫才師としては、「落語ネタの『たらちね』は一寸印象に残る佳作だった」と吉田留三郎が評している。戦後は師匠春團治の一座に戻り、各地を巡業しているが、爆笑劇が主な出番だったようだ。(橋本礼一)

 とあるのが、唯一まとまった資料だろうか。

 また、実質の弟弟子にあたる露の五郎の本『上方落語のはなし』の中に、

 話の引き合いに出された春雨の事でおますけど、この人は二代目春団治が前名の福団治と言うたころに入門という一門の最高弟。初めは一福と言うたのやそうで、
「あいつに一福てな名前をつけたさかい、一服してしまいよったんや。」
 春団治は、笑い話によく、そう言うておりましたけど、昭和九年十一月、福団治から春団治を襲名するにさして春雨と改名。かの一世を風靡致しましたミス・ワカナの弟子、ミス・ワカ子と夫婦になって漫才に転じ、落語ネタを漫才化した「たらちね」は絶品やったと申します。

 と紹介されている。余談であるが、春雨は傘をさすのが嫌いで、どんな雨であろうとレインコート一点張りで傘を差さない、という不思議な美学を持っていたようである。

 噺家としては真打格になる前に上方落語が廃れた上に、漫才師に転向してしまった為、ろくろく資料をとられなかったという可哀そうな存在ではある。

 ミスワカ子は、名前の通り、天才漫才師と謳われた「ミスワカナ・玉松一郎」の弟子。『笑根系図』には「玉松ワカナ 桂春雨妻 前名ワカ子 大正三生(現)」とある。桂春雨とは夫婦だった模様。

 生没年、出身地は『吉本新喜劇名場面集』収録のプロフィールから割り出した。

 1939年頃、ミスワカナ・玉松一郎の斡旋でコンビを結成した模様か。

 1939年4月、ミスワカナ・玉松一郎が「わらわし隊」の慰問から帰国し、陸海軍の司令部を廻った際、同行している様子が写真から伺える。写真は残っているようだが、商用になっている。困った。

 1939年6月1日、新興演芸部の大阪進出記念公演に出演。『近代歌舞伎年表 大阪篇』に、

角座 新興演芸部大阪進出披露興行

ミスワカ子・桂春雨
ムラセスイング・ジャズ子
酔月楼とり三・中井染丸
松葉家奴・吉野喜蝶
香島ラッキー・御園セブン
ハットボンボンズ
浅田家日佐丸・平和ラッパ
ミスワカナ・玉松一郎

あきれたボーイズショウ

 とあるのが確認できる。以来、新興演芸部系の劇場や公演に出演。

 ミスワカナ・一郎の威光もあったのか、テイチクからレコード「歌枕夢の国」を出しており、これは『古今東西噺家紳士録』で聞くことが出来る。

 1939年末から1940年2月にかけて、大阪市の依頼で北満班慰問団に参加。『銃後の大阪』によると、「演芸班として歌謡曲の結城道子アコーデイオンの高木三佐夫、浪花節の京山円州、同曲師の宮川松代郎、漫才では桂春雨、ミスワカ子、そして荻野市治……」。

 1945年8月の終戦後も焼け残った劇場に出ていたが、1946年10月、師匠筋のミスワカナを喪う。その直後の「ミスワカナを偲ぶ漫才大会」(浪花座)に出演しているものの、この後は漫才師としての活動は減り、春雨は桂春団治の元へと参じた。以降は、桂春団治一座の座員として、前座や役者として活躍した模様である。

 但し、戦後、テイチクから『結婚の条件』なるレコードを一枚出しているのが気になる。

 1960年、桂春雨死去。詳細は明らかでないものの、吉田留三郎『漫才太平記』の中に、

悪いことは重なるもので、十月五日ジャグラー都一の死去と同時に夢若の悲報がもたらされた。此の年にはいってすでに中村直之助、もろた玉枝、桂春雨の三人を失っている。一体、何ということであろうか。

 とある所から、没年を逆算することが出来る。二代目春団治や河村節子の年齢から推測するに、40~50代でなくなった模様である。

 一方、ワカ子は漫才師を続投し、縁あって、師匠の玉松一郎とコンビ結成。ミスワカナを襲名し、「玉松一郎・ワカナ」で人気を集めていた。

 1957年3月1日、吉本に入社。当初は「玉松一郎・ワカナ」の漫才師兼吉本新喜劇の脇役として出ていたが、1963年、相方の一郎亡き後は、女優一本に絞り、吉本新喜劇へ入団した。夫が死んだのも漫才から一線を退く要因になったのかもしれない。

 入団後は貴重な女優として活躍。中でも母親役や年増役は当たり役で、不思議な色気とユーモアで独特の雰囲気を出し、吉本新喜劇の黄金時代を支えた。

 20年近く吉本新喜劇の大看板として活躍したものの、1985年に肝硬変のために死去。享年70才。最後にプロフィール代わりとして『吉本新喜劇名場面集』の紹介文を置いておく。

 河村節子
 ●本名 川村せつ ●出身地 東大阪市
 ●生年月日 T3.2.4
 ●入団月日 S32.3.1
 ●略歴 漫才師三代目ワカナ
 〈芸〉初代ミスワカナの弟子として「ワカコ」を名乗り、初代の死後、玉松一郎とコンビを組み(三代目ミスワカナ)人気を博した。しかし玉松一郎没後は新喜劇に転じ、母役で得難い存在となった。
 常に「漫才はええけど芝居では手の持って行き処が難しくて」と苦心していた。
先年、肝硬変で他界した。

コメント

  1. 山本隆雄 より:

    河村節子さんに対する正しい記事を載せたいなら、占い師として活躍している娘さんに、客として行って、教えてもらったらどうですか。
    日本占い師連盟阪急高槻市駅前鑑定室。
    http://www.uranai.gr.jp/takatsuki.html
    電話072-662-4901
    占い料金 10分1000円。
    愛花先生という名前で、毎週水曜日に入っています。
    ちなみに、河村節子は、西川きよしとヘレンの仲人ということを加えれば、、、

You cannot copy content of this page

タイトルとURLをコピーしました