河内家房春

河内家房春

房春・鶴江

 人 物

 河内家かわちや 房春ふさはる
 ・本 名 森田 房吉
 ・生没年 ??~戦後
 ・出身地 ??

 来 歴

 戦前活躍した漫才師。吉本の主戦力として活躍したというが、大変な奇人で漫才よりもそちらで浮名を流したという。

 亭号の通り、出身は河内家芳春・千代鶴の流れをくむ漫才師。ただ『笑根系図』にその名前は出てこない。本名は、ゆまに書房復刊の『日本映画 16巻』から割り出した。

 前歴は『都新聞』(1935年8月4、5日号)の「漫才銘々伝」に詳しい。曰く、

彼はもとは大阪のさる外科病院で薬局生をやつてゐたが、その時通ひの見習看護婦に愛されて、忽ちこれを受け入れた、そしたら今度は病院にゐる本当の看護婦とも出来ちまつた、これがただで済む訳がない

 兄が院長の運転手だった関係から一度目は詫び言を入れてなんとか許してもらったが、再び熱愛に走り、人目をはばからぬことをしたために兄ともどもクビになってしまった。 

 兄に捨てられ、恋人とも別れた房春は、一人流浪の末に漫才一座に加入。横山エンタツが幹部としていたという。

 古いのは確かで、1925年頃、ルナパークや南陽館といった萬歳専門席に出ていた漫才師の名を集めた一覧の中に、

末春・末義 景山・天地 菊丸・義弘 藤男・光月 正壽・アチャコ 正右衛門・ニコニコ 大正坊・捨次 ウグヰス・チャップリン 花奴・登吉 キネマ・雁玉 春太郎・楽春 千代春・文春 艶子・末丸 一春・芳春 小春・辰丸 小雪・雪江 慶司・日の丸 菊丸・朝日 政夫・日の丸 菊丸・慶司 義弘・正右衛門 福来・福徳 義弘・捨次 日佐丸・朝日 文々・義弘 喜鶴・捨次 五郎・慶司 日代志・金蝶 辰春・房春 春江・千代政 次郎・幸丸 正若・正右衛門 義弘・喜楽

(「芸能懇話 第13号」 21頁)

 とあるのを確認できる。当初は河内家辰春と組んでいた模様か。

 長らく漫才小屋や巡業で活動していたが、思う所あって一座をドロンをして上京。江川大盛館に入って修行の日々を過ごした。江川で出会ったのが妻で相方の鶴江である。

 鶴江は、この江川大盛館の従業員だったそうだが、房春と結婚した。『漫才銘々伝』でも、

そして東京へ昇つて江川大盛館に入つた、彼の現在の妻君鶴江は、その時この小屋の表の方に働いてゐたのだが、それが或時房春の相手が何かの都合で休んだ時に、イキナリ舞台に立たせられて、以来漫才生活と房春の夫婦生活とを同時に得たといふ次第だ

 鶴江は「中谷ツル子」が旧姓で、後に「森田ツル子」(ゆまに書房『日本映画』のプロフィール一覧より)。

 『上方落語史料集成』を覗くと、主要劇場に出てくるのは、1931年頃。同年2月の興行一覧に、

二十日より

△新京極富貴 小円馬、一郎、ざこば、三八、馬生、河内家正春・春子、小山慶司・荒川歌江、文治郎、久里丸、気取家延若、枝鶴、柳家三亀松。入場料五十銭。

△新京極花月 小金・小三、房吉・鶴枝、成駒・玉太郎、市松・芳子、長春・一瓢、笛亀、政月・米二、慶司・歌江、亀鶴、鶴春・芳江、登吉・花奴。

 とあり、翌年11月にも再び、

二十一日より

△南地花月 円枝、三木助、文治郎、蔵之助、五郎、九里丸、春団治、小文治、三亀松、柳橋、一郎(曲技)、(尺八)、正光(奇術)、エンタツ・アチヤコ、十郎・雁玉、陽子・陽之助。  

△北新地花月倶楽部 文治郎、五郎、蔵之助、円枝、三木助、九里丸、春団治、小文治、柳橋、三亀松、次郎・志乃武、栄三郎・六三郎、おもちや(紙切り)。  

△天満花月 小円馬、馬生、福団治、五郎、染丸、とり三・今男、歌江・鶴春、重隆、武司(剣舞)、春団治。  

△新世界花月 安来節女連、鶴江・房春、静代・文男、千代八・八千代、陽子・陽之助、〆の家美人連ジヤズバンド、泰玉章一行(身体曲技)。

 と、あるのが確認できる。但し、第一線に立ったのは、吉本が漫才路線を打ち出してからであろう。

 吉本が漫才中心体制を築いてからは、一枚看板として活躍。各花月や新京極富貴など、多くの漫才師たちと人気を競い合った。

 ネタとしてはオーソドックスなしゃべくりの他に、房春は節真似が売り物にしていたという。秋田実によると、「虎造節がうまかった」との由。

 ただ、その技芸よりもどことなく抜けていて、大胆な性格――奇人的な気質が幕内外で愛されたという。今日残された資料の多くは、その逸話に関するものである。

 長沖一は『上方笑芸見聞録』の中で、

 そこで河内家、といっても、こちらはマンザイの河内家房春。ところで、この春 (昭和四十九年)に亡くなった十吾が曾我廼家、歌舞伎界が屋号なのに喜劇界が家号なのは、どういう意味なのだろう。房春は戦前に十銭マンザイの南陽館あたりで中堅級として高座を勤めていた、いわば、しがないマンザイ衆の一人だが、いまはアルサロその他に変っている千日前の大劇の映画館へ電話をかけて、河内屋だすが、これから見に行きますよってによろしくと言う。その頃は映画や松竹歌劇を演っていた大劇の方では歌舞伎の河内屋が来ると思い、支配人以下玄関へ出向えに出ていると現われたのはマンザイの河内家房春だったという。映画を見るのに銭を出したことはおまへんと豪語していたが、どこまでホンマやろか。この房春が、寸暇を競馬馬みたいに駈けつけ競馬場のスピーカーで、河内家房春さん、おいででしたら入口までおいでくださいとか、アナウンスしてもらったというのだ。というのが、その頃は吉本の専務だったと思うが、事実上の社長といってもよかった現会長の林正之助が競馬好きで馬主だった。いまも馬を持っているのか、それは知らないが、その頃は、だから開催日には必ず競馬場に専務が行っているのを知っていたのである。当然、親方の耳にはいるのを計算済みのことであった。親方の方では高座を休んで競馬に来るなどとは、けしからんと会社へ戻ってから調べてみると、房春はちゃんと高座を勤めていることがわかり、殊勝であると金一封をせしめたというのだが、これもどうだか。いずれにしても、 こんな話を書いたのは、当人がうだつの上がらなかった芸人だけに、むしろ彼の儚い努力に身につまされるものがあり、涙ぐましく感じるからだ。 

 と、その逸話を紹介し、秋田実もまた『大阪笑話史』の中で、

 今のスバル座の前にあった三友倶楽部、その楽屋の出入り口にクツの修繕屋が店を出していた。ある日その修繕屋に、虎造の節真似のうまかった河内家房春がクツを修繕してもらっている時にふと小使いがないという話をすると、その修繕屋が気前よく貸してくれたのである。その話が広がって、一時は本職の修繕より小使い用立ての方ですっかり人気者になってしまい、漫才さんも出番が三友倶楽部のときは便利がって喜んだものである。
 その河内家房春では、まだ有名な挿話がある。千日前の歌舞伎座の、正面の入り口から堂々とはいって行くので、
「どちらさんですか?」 
「河内家です」 
 河内家はもちろん延若の家号で、その堂々とした態度に勘違いして、入り口の係りはおじぎをして通した。その心臓の強さには、あとで話を聞いた漫才さんたちがさすがに皆あきれたも のである。

 と、その大胆な人柄を紹介している。

 1935年1月7日、JOAKの「寄席の夕」に出演。「吹寄せ漫才」を披露している。共演は柳家金語楼、鈴々舎馬風、柳家三亀松、春風亭柳橋。

 1938年、吉本と新興の移籍騒動には関与せず、吉本興業に従った。以来、新興との鎬の削り合いに乗ずる形で、多くの大劇場に出演。『近代歌舞伎年表』などにその名前を確認することができる。

 1938年3月6日、「傷痍軍人慰安会」に出演し、「笑ふオリンピック」を放送している。

 1939年1月、ビクターレコードから『大和魂』(Z-180 HE-117、8)を吹き込み。名義は河内家鶴江・河内家房春。これは国会図書館で聞くことができる。

 戦時中も吉本系の劇場で活躍し、一枚看板で人気を集めていたが、戦争の悪化でいつの間にか消息が途絶えた。

 1946年の吉本残留組の中に、林田五郎、都家文雄と並んで残留している様子が確認できるが、間もなく契約を打ち切り、消息不明となる。

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