一輪亭花蝶

一輪亭花蝶

一輪亭花蝶

三遊亭川柳・一輪亭花蝶(右)

 人 物

 一輪亭いちりんてい 花蝶かちょう 
 ・本 名 広瀬 文次郎
 ・生没年 1896年9月5日?~1973年11月23日
 ・出身地 京都 西陣

 来 歴

 戦前戦後活躍した漫才師。「一輪亭」の亭号を継いだだけあって、ニワカや軽口の名残を残す古き良き話術を見せた貴重な継承者であった。戦前は三遊亭川柳、戦後は松原勝美とコンビを組んだ他、晩年は「大阪にわか」や軽口を演じ、喝采を得た。

 出身は京都、生家は錺(かざり)職人であったという(今日の金銀細工業)。今日諸般の本に見られる出典は、山川静夫『上方芸人ばなし』であろうが、その出典の出典が三田純一が『大阪朝日新聞』に連載していた『ざい界紳士録』である。

 以下は、その『ざい界紳士録』(1966年3月9日号)の引用。

 花蝶は家が錺屋(かざりや)。いまでいう金銀細工職であったがなんとしても芸人になりたい。そこで二代目春団治などと、素人ばかりの一座を組んで、毎夜、落語を一席うかがっていたという。

 落語家時代の活動は謎が多く残るが、元は「桂文蝶」と名乗っていた、と『上方演芸人名鑑』にある。但し、この出典元はよくわからんよ。師匠筋も不明であるが、そもそも一輪亭花咲についていた可能性も高い。花咲は、元々「桂花咲」といっていたので何らおかしいことはない。

 あるいは「文蝶」という名前を、セミプロ時代に勝手に名乗っていたともいえなくはない。どっちが正しいのか、目下調査中である。

 後述するように、落語家としては大成せず、主に前座やへたりばかりだったと見えて、活躍の記録を辿る事は難しいが、『上方落語史料集成』、1915年2月1日『徳島毎日新聞』の記録に、

<大隈柳玉(柳丈)一座・徳島緑館/橘かほる一座・徳島天正館>

◇緑館 前景気よく来客の待ちつつある東京大阪合同落語一座はいよいよ今晩より開演。久々の振事なれば好評ならん。 

2月3日 天正館

入込語小倉船(一笑)語舞(小遊)笑語踊(圓二)ひちや蔵音曲手踊(梅枝)語扇千舞(圓之助)歌根問い皿まわし(道楽)舞(小梅)笑語舞布さらし(文蝶)妙見守音曲盆まわし(苦楽)二八浄瑠璃ステテコ踊(山雀)三十石手踊(遊助)三人片輪音曲舞(松助)五月雨茶屋音曲丸橋忠弥木曾節踊(座長橘かほる)はやし織よし師匠切喜劇千石船座員総出

2月4日 天正館 

東の旅牛かけ(一笑)笑語踊(小遊)浄瑠璃息子舞(圓二)親子酒音曲踊(梅枝)年ほめ扇子舞(圓之助)棒屋布さらしの舞(文蝶)大師巡り皿まわし(道楽)ためし斬り盆の曲(苦楽)節右衛門ステテコ踊(山雀)稲荷車手踊曲芸(遊助)猫久音曲手踊(松助)子宝音曲木曾節踊座長(橘かほる)はやし織芳師匠大切曽我の家喜劇やぶれ三味線

 とあるのが気になる。この時、数え年で20歳。入門していてもおかしくはない年齢ではある。

 その後も修行を続けていたが、落語家として出世できず、また師匠の花咲が1924年頃に「喜劇ニワカ」へ転向したことを機に、自身も落語界を離れ、軽口や俄へ転向した模様か。師匠が「一輪亭」と改名したことを機に、「一輪亭花蝶」と改名した可能性が非常に高い。

 昭和に入り、師匠から独立し、にわか界の大先輩にあたる木村芝鶴とコンビを組んだ模様。

 その頃には「にわか」も下火になっていたため、巡業や端席が中心だったようであるが、それでも1928年10月及び、11月の上方の寄席に、

 大阪の寄席案内 

(十月)十一日より

△南地花月 伯竜、春団治、円馬、三木助、三亀松、勝太郎、円枝、枝鶴、福団治、扇枝、小円馬、小春団治、扇遊、芝鶴、花蝶其他。

△松島花月 山陽、三木助、円馬、春団治、三亀松、塩鯛、扇遊、勝太郎、小春団治、芝鶴、花蝶、清子、喬之助其他。

(十月)二十一日より

△南地花月 猫八、呉成錬、三木助、九里丸、勝太郎、春団治、円馬、文次郎、五郎、扇遊、千橘、清子、
 喬之助、蔵之助、染丸、馬生、扇枝、芝鶴花蝶。

△北新地花月倶楽部 春団治、円馬、芝鶴花蝶、呉成錬、扇枝、扇遊、千橘、猫八、九里丸、三木助、勝太郎、円枝。

(十一月)二十一日より

△南地花月 円馬、芝鶴・花蝶、春団治、金語楼、扇遊、小春団治、文治郎、直造、紋十郎・五郎、勝太郎、喬之助・清子、重隆・武司、円枝、アチヤコ・今男、蔵之助、ざこば、升三。

 とある。この頃、「木村芝鶴・木村歌蝶」「木村芝鶴・花蝶」というレコードを吹き込んでいるが、この片割れは花蝶だろうか。その可能性は高い。

 その後に、漫才へ転向か。

 『サンデー毎日』(1936年10月25日号)掲載の『笑ひの人国記H』の中に、漫才に至るまでの経歴が記載されている。 

 三遊亭川柳と一輪亭花蝶のコンビももう四年になつてゐる。 川柳はその名の通りに、大阪で生れて落語家として立つつもりで、三遊亭柳枝の弟子になつて見たが、落語ではどうにも飯が食へない。そこで、覚悟をきめて吉本の万才に落ちて行つたが、底まで落ちると浮び上るもんだすなアといつてゐる通り、なるほどちやんと自分のものをつくつてしまつた。 同じように花蝶も落語家出身で、一輪亭花咲の門人、京都は西陣の生れで、六年間落語に精進したが、中入り前にもなれないので、とう/\意を決して七年前、万才に転向してしまつた。それだけにこの二人のコンビは、仲々気が合つてゐる。

 上記を真実とするならば、1929年に漫才師に転向。その前年まで芝鶴と軽口をやっていたことを踏まえても、一応辻褄としては合う。但し、当時のコンビは不明。それらしいものを挙げると、1931年7月26日の『神戸新聞』に、

 ◇二十六日日曜日海と山の催し
 ○麻耶山天幕村特別余興 午後一時と午後七時の二回芦辺會一行 落語(桂米丸)音曲掛合(伊勢家利秋、花子)曲芸(曹漢忠)文化萬歳(桂家米丸、蔦奴)大曲芸(曹漢忠、曹漢龍)音曲萬歳(伊勢家利秋、花子)
 ○境浜海水浴場余興 午後一時より此花會一行の諸芸大會 落語(遊喬)萬歳(花蝶、文男)落語手踊(松橋)奇術(三好)軽口(大判、小判)文化萬歳(小雀、茂子)

 とあるくらいか。但し、上の亭号がないので別人説も否定できない(当時は喜楽家花蝶、花の家花蝶という先輩漫才師が存在した)。

 1932年に三遊亭川柳とコンビを結成。なお、桂米朝が『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中で、「花蝶・川柳というコンビ。兄弟漫才やってンけどね」と触れており、これを出典として「兄弟漫才」と記されることが多いが、どうも事実誤認のようである。

 こればかりは戸籍を見ないとわからないが、そもそも川柳は大阪生まれであり、系統も別という人物である。親が別々で生んだ、となれば、辻褄としては判らなくはないものの、兄弟であるという言説は米朝の談話以外に見かけたことがない。

 写真を見る限りでも顔も似ているわけでなし、親交の深かった秋田実や長沖一も「兄弟」であったなどとは記していない。これは完全に事実誤認であろう。

 1932年にデビューし、翌年1月には早くも、

△玉造三光舘 中野レヴユー団、ラツパ・日左丸、延若、鶴江・房春、吉花菱女連の舞踊、八千代・千代八、正光、小円馬、夢路・夢若、亀鶴、円若他万歳幹部にて昼夜開演。

△福島花月 玉枝・成三郎、蔵之助、〆の家ジヤズ連、日廼出家連、小円馬、ラツパ・日左丸、柳好、千枝里・染丸、馬生、花蝶・川柳、小文治、扇遊、文治郎、一春・団之助、若枝等花月幹部連の出演。

 の2館を掛け持ちしている。秋田実が「新進気鋭」と回顧している記事があるが、早くから実力派の若手として目されたのは事実であろう。

 その後は主に京都富貴や福島花月を中心に出演。見る見るうちに頭角を現し、1934年1月には、吉本自慢の檜舞台であった「南地花月」への出演を許されている。

二十一日より

△南地花月 花蝶・川柳、久菊・奴、八千代・千代八、エンタツ・アチヤコ、静代・文男、エロ子・キング、十郎・雁玉、雪江・五郎、菊春・太郎、次郎・志乃武、結城孫三郎一座、石田一松、一郎等

 コンビ結成2年足らずでコレだけの事を成し遂げたのは、吉本の漫才路線経営や漫才ブームだけでなし、当人たちの実力もあった事であろう。秋田実などの批評を見ると、怒るようにハキハキしゃべる川柳と、のんびりヌーボーとしゃべる花蝶の対比が実によかったという。

 以来、常連のように南地花月に出演。同年4月には、同じく檜舞台であった北新地花月にも出演を許され、漫才界の大型新人として注目された。

 1934年9月5日、午後8時20分より、NHKでオンエアされた「大阪寄席中継」に出演。出演者と演題は、

浮世亭出羽助・八条竹幸『珍和洋合奏』
花蝶・川柳『歌は上手』
林田五郎・柳家雪江『伊那節変奏曲』
エンタツ・アチャコ『君は軍人か』

 同日の『読売新聞』の放送欄に、二人のプロフィールが出ているので引用。

◇三遊亭川柳さんは大阪生れで中年から三遊亭柳枝の弟子となり京阪神を廻つてゐたが三年前から吉本専属となり最近人気が出て来た新進

◇一輪亭花蝶さんは京都生れ掛合噺の一輪亭花咲の門に入り落語を修業したが五年前万歳に転向川柳と組んで賣り出してゐる

 以来、人気漫才師として何度も放送に出演。また同時期に、レコード吹込みも行っており、『金の世の中』『馬が西向きゃ』『元は浪曲師』などは人気盤となった。今日でも時折見かけるほか、国会図書館で聞くことができる。

 長らく吉本の大看板として君臨していたが、1938年5月、川柳に召集令が下され、入隊してしまったため、コンビを解消。

 秋田実『大阪笑話史』によると、川柳の応召は舞台上で判明したそうで、洒落とも現実ともわからぬまま、いきなり川柳が「お国のために頑張ってきます」と告白して、観客の度肝を抜いたという逸話がある。

 相方を失った花蝶は、すぐさま若松家正二郎とコンビを組みなおし、同年7月には早くも南地花月の檜舞台に復帰している。

 一部文献では、林正二郎と組んだというのがあるが、これは同名ゆえに起きた勘違いのようである。林正二郎こと林家染芳は、この時点では東京の漫才師であり、内海桂子と関係を持っていたため、コンビを組めるはずがない。

 このコンビで、一年半ほど相方の帰りを待ち続けた。時勢も時勢だけあってか、銃後の漫才師として高く買われたそうで、相方が変わった後も看板が落ちるような冷遇を受けることはなかった模様。

 1940年6月、川柳が兵役満期に伴い、帰国。同月21日より、南地花月に出演している。以下はその名簿である。

△南地花月 巴家おもちゃ、光晴・枝雀、桂文治郎、幸児・静児、川柳・花蝶、林芳男、正二郎・洋々、出羽助・竹幸、花月亭九里丸、桂三木助、雁玉・十郎、アダチ龍光、市松・芳子、桂春団治、五郎・雪江、今男・アチャコ。

 すぐさま人気コンビの復活と川柳の凱旋を兼ねて、再び檜舞台へ上がるようになる。

 コンビ再結成後間もない8月、久方ぶりにラジオ出演。『読売新聞』(1940年8月7日号)のラジオ欄に、

吉本興業の中堅漫才として将来を嘱望されてゐた三遊亭川柳は一昨年應召して南支戦線に活躍し先頃無事帰還、再び先の名コムビ一輪亭花蝶と組んで人気を博してゐるが今夜はコンビ復活後初の放送である

 と紹介されている。

 その後も相変わらず第一線で活躍し、吉本の主砲として新興演芸部系の漫才師と鎬を削り合ったが、1941年12月太平洋戦争が勃発。多くの劇場や芸人が閉鎖、出征を命じられる中で、川柳もまた再び出征を命じられる。

 1942年頃、コンビを解消し、川柳は戦線へと旅立っていった――が、このコンビが再び結成されることはなかった。

 相方を失った花蝶は、これまた相方を失った千歳家歳男とコンビを組んで、「花蝶・歳男」を結成。1942年2月に発行された『誌上演藝館』ではすでに「歳男・花蝶」になっている所から、戦争勃発後まもなくコンビを組んだものと思われる。

 戦時中は多くの劇場が閉鎖、移転を余儀なくされる中で、最後まで吉本系の劇場で奮闘をした。

 1944年頃、歳男とコンビを解消して、荒川勝美とコンビを結成。『近代歌舞伎年表京都編』に

〇四月(一)日~ 花月劇場 

エンタツの芝居 神谷鶴蔵作演出
時代劇 明治維新街道 全五場  エンタツ エノスケ 橘多美夫 大倉多一郎 

唄と手風琴 三根耕一音樂集団
【出 演】 唄(福田文子) 手風琴(小泉幸雄)

漫才爆笑陣 【出 演】志津子・寿郎 麗子・繁子 勝美・花蝶 朝江・水月 鈴子・鈴若 美雁・雁正 美代子・一蝶 奇術 正一

 1945年の空襲や敗戦で職場を失う羽目になった。この前後は軍事慰問、農村慰問などで細々と食べていた模様である。

 敗戦後は、落語家たちとも仲が良く、俄や滑稽掛合といった戦争とは無関係で、当たり障りのない芸を得意としたところから、漫才師としては相当早く再スタートを切っており、焼け残った劇場に出演した。

 その後は、俄を武器に活躍。1947年5月京都座の番組表、8月京極演芸館の番組表、同年9月11日、戎橋松竹が開場した際の番組表がある。

 5月、京都座。

〇五月(二十四)日〜(二十七)日 十一時より二回京都座

 大阪名流演芸大会

【番組】漫才 文ノ家たより・恋しく 音曲と踊り 橘家小円太
浄瑠璃さわり集 豊竹東昇 講談 旭堂南陵 漫談 丹波家九里丸
落語 笑福亭松鶴 舞踊色くらべ 坂東三之丞 落語 桂春団治
軽口 一輪亭花蝶・荒川勝美

 8月、京極演芸館。

〇八月(十一日)~ 朝十一時半開演 京極演芸館

【納涼演芸大会番組】
麗人ノ全裸歌誦劇 霧笛(大林護歌劇団)
万 才(美松勝子・花の家福太郎 文の家たより・恋しく 平和花楽・ニコニコ 一輪亭花蝶・荒川勝美 松葉家喜久奴・奴)

 戎橋松竹のこけら落とし。

 1947年9月11日より行われた戎橋松竹のこけら落としに出演、俄風の舞踊を披露。

戎橋松竹こけら落とし

軽口 荒川勝美・一輪亭花蝶
舞台開笑三番叟 平和ニコニコ・喜音家花楽
落語 桂米団治
奇術百種 一陽斎陽一
落語 桂春団治
漫談 丹波家九里丸
東京落語 三遊亭金馬
万歳 寿御膳獅子引抜き二見浦初日出 浪花家芳子・市松

 漫才が復興するに伴い、大看板として復活。川柳時代と違って、派手さこそないが、俄や軽口で鍛え上げたネタを基盤とした話術で、人気を集めた。如何にも古風で、淡々と、慌てる事も、急ぐこともない話術は、玄人筋からも高く評価された。

 一度、コンビの方向性を巡って、解消している。『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中に、米朝が松原勝美から、「いや、花蝶は太夫(ツッコミ)をつけさしたら日本一や。けど強情でっしゃろ、あのおっさん、人のいうことききよれへん」と、聞いた話が出ている。しばらくの間、別々で活動したが結局コンビ復活を望む声が多く、復縁を遂げた。

 後年、吉本へ移籍。理由は知らんよ。但し、当時はギャラや待遇で結構変わったりするので、別段おかしい話ではない。

 1963年11月12日、コロムビアトップ・ライトの主導・演出の下、東京サンケイホールで行なわれた『漫才変遷史』に「軽口」として出演。いかにも古風な芸で注目を集め、東京の客の関心を得た。この時の音源は確か残っているはずだが、未確定事項。

 1965年3月8日、阪急ホールで『今の若い人・昔の若人』なる漫才を披露し、これがNHKで収録されたという。

 1967年、国立劇場が開場した際には民俗芸能公演の一環として、この花蝶・勝美の「軽口」を呼ぶ噂もあったそうだが、同年3月、勝美が急逝し、名コンビ解消と相成った。

 なお、『上方演芸人名鑑』などでは、一輪亭花蝶の没年を1967年にしてあるが、これは絶対に嘘であろう。何かの間違いか、勘違いである。これは絶対的な間違いとして指摘しておかねばならない。

 1970年に国立劇場で「にわか」の公演が行われた際、1967年に死んだという花蝶は舞台に出ているのはどういうのだろうか。いくらなんでも死人が舞台に出るはずはない。

 また、その公演を知らせるパンフレットや新聞記事にも「73歳となる一輪亭花蝶……」とあり、健在は確かである。死んでいるはずがない。絶対にない。

 勝美没後は、林家染芳こと佐々洋二郎とコンビを組みなおしたが、あまりうまくは行かなかったと見えて、数回の出演にとどまった模様。

 以降は、漫才よりも「軽口」「にわか」という古い芸へとシフトチェンジを果たす事となる。その背景には、1967年前後に起きた明治100年祭りや、永六輔・小沢昭一・桂米朝といった面々が巻き起こした演芸のリバイバル、古き良き芸の所望があった模様である。

 1970年1月17日~18日、国立劇場小劇場で行われた「第8回民俗芸能公演 にわか」の「軽口」と「大阪にわか 三方笑(夏祭浪花鑑)」に出演。両方とも音源は残っているほか、「三方笑」は白黒ながらフィルムが残っており、国立劇場で閲覧可能。

 軽口では師匠の花咲と軽妙な所を演じてみせ、「三方笑」では、「忠臣蔵」の与市兵衛として出演。ボテ鬘をかぶり、忠臣蔵五段目で斧定九郎に惨殺される与市兵衛扮して、ドタバタの喜劇を演じ、喝采を得た。

 管理人はこのフィルムを見たことがあるが、実に傑作で、ひっくり返って笑ったものである。「三方笑」の名の通り、「夏祭浪花鑑」の團七九郎兵衛、「沼津」の平作、「忠臣蔵」の与市兵衛が、街道でばったり出会う、という珍奇な作品で、この三人を巡って、三者三葉好き勝手に主張する――というドタバタ喜劇なのであるが、その即興性、大阪弁が実に見事である。

 歌楽が、ツッコミに回り、花咲が大ボケ、花蝶が小ボケというような形をとっており、芝居の名シーンをうまく取り入れながらも、変な所作を入れて相手にどやされる、即興のギャグや世相諷刺のネタをぶち込んで、観客の腹をよじらせる――見てもらわねばわからないそんな佳作である。

 この一連の公演は大成功をおさめ、一躍「にわか」は注目されるようになった。

 1970年5月13日、NHK『お笑い招待席』に出演。今春に喝采を得た大阪にわか「三方笑」を、師匠の一輪亭花咲、仲間の浮世亭歌楽の三人で演じている。

 共演は、夢路いとし・喜味こいしで、漫才「隣りの公害」なる作品を披露。

 1970年10月31日、NHK『教養特集』に出演。師匠の花咲と共に「軽口」を披露している。

 他の出演者は、桂春団治による「代書屋」、いとし・こいしによる「若いお巡りさん」の演芸と、秋田実・茂木草介・荒尾親成・片岡仁左衛門 「大阪の笑い」(座談会) であった。

 これが目下辿れる最後の出演記録であり、以降にわかのメンバーにも軽口にも出なくなってくる。病気で倒れ、一線を退いたらしい。

 1972年10月、桂南天の葬儀に列席している様子が『上方落語ノート 第四集』より伺える。

 復刻で出された『大衆娯楽雑誌ヨシモト』の解説に、「昭和四十八年八月二十一日没」とあり、そこから没年を割り出した。

 しかし『上方芸能33号』(1974年1月号)には、

☆十一月二十三日 最後の仁輪加師の一人、一輪亭花蝶が死んだ。大阪市生野区勝山南一の一五の二の自宅で、肺気腫であった。享年八〇歳。葬儀は二十五日、自宅近くの乗願寺で行われた。

 信憑性的にはこちらが高い。ただ享年が、ねえ――

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