河内家目玉・鶴江

河内家目玉・鶴江

 人 物

 河内家かわちや 目玉めだま
 ・本 名 乾 勇
 ・生没年 1899年~昭和末?
 ・出身地 ??

 河内家かわちや 鶴江つるえ
 ・本 名 乾 ふじ子
 ・生没年 1894年~戦後

 ・出身地 ??

 来 歴

 河内家目玉・鶴江は戦前戦後活躍した漫才師。今日では北島三郎門下の演歌歌手・山口ひろみの祖父母というのが通りがいいだろうか。目玉は興行師としても知られた。

 経歴には謎が多い。山口ひろみ氏なら知っていそうな感じであるが、如何せんこの状況下では知る由もない。何とかならない物か。

 二人の年齢はアジアセンター所蔵の「陸恤庶發第七七六号」より割り出した。

 河内家目玉は、河内家鶴春の門下生。前名を「千之助」といった。やたらに二枚目っぽい名前である。

 後年、「目玉」と改名。ぎょろっとした風貌で売り出したという。タヌキの顔真似をしていた――と何かの本にあったが、なんだったか。

 鶴江も、やはり鶴春の門下。門弟同士で結婚した模様か。

 孫娘の山口ひろみ氏によると、オーソドックスな古典漫才をやっていたそうで、『山口ひろみオフィシャルブログ 休日②』をみると、「祖母が鼓をたたきながら、漫才をやっていた」という旨が、綴っている。しかし、女が才蔵とは珍しい。

 1925年頃、長女の繁子誕生。子飼いの芸人「河内家みどり」として両親について歩いたが夭折した。

 1929年3月25日、次女の清子誕生。この子が「加茂川かもめ」。山口ひろみの母親である。

 1932年1月8日?、三女のツタ子誕生。この子が「加茂川ちどり」。

 戦前及び戦時中は籠寅興行に所属。籠寅興行系の劇場に出演して居た様子が確認できる。

 また、戦時中は籠寅興行の伝手で「帝都漫才協会」に所属した。目玉夫妻とみどりの本名はここから割り出した。

 戦後は地方巡業や端席などで地道な活動を展開していたが、長女・みどりの死や、住まいのある西成・てんのじ村の芸人斡旋の増加により、興行師に転向。以降は興行師として、西成の芸人たちの世話役となった。

 後年、娘二人が「加茂川ちどり・かもめ」を結成した事により、この売り出しにも尽力をした。それが幸いしてか、二人は松竹所属となり、女流音曲漫才の若手として堅実な活動を示す事となる。

 この頃、加茂川ちどりが売り出しの漫才師、若井けんじと結婚。「若井」姓となった。しかし、すぐさまけんじの浮気や性格の不一致で離婚。足立克己は『いいたい放題上方漫才史』の中で、

 一方弟のけんじは、やがて加茂川かもめと結婚する。加茂川ちどり・かもめという姉妹漫才で、この二人の父も河内家目玉という元芸人でその頃余興屋をやっていた。不遇の頃のはんじ・けんじがその河内家目玉に仕事の世話になった縁でこの二人は結婚したと思われる。でもそんな義理のからんだ結婚は永続きせず、やがてこの二人は別れた。

 と、述べている。

 後年は娘たちも寿引退をし、目玉夫妻も芸能界からは殆ど引退状態となった。それでも斡旋業は続けていた模様。

 1975年、孫娘の山口ひろみ誕生。このひろみ氏は祖父母を知っているそうなので、この頃まで健在だったのであろう。ひろみ氏は幼少期を西成で過ごしたせいか、芸人に詳しく、その頃の「てんのじ村」を知っているようである。

 後年、てんのじ村が衰退し、斡旋業も殆どなくなったが、それでも西成に居を構え続けた。

 2000年頃まで住所録に「乾勇」名義が確認できるのだが、そこまでは生きていないだろう。所有者として暫定的に記録され続けた模様か。

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