小唄志津子

小唄志津子

 人 物

 小唄こうた 志津子しづこ
 ・本 名 新居 シズエ(静江)
 ・生没年 1913年4月12日~1995年以降
 ・出身地 大阪市

 来 歴

 小唄志津子は戦前戦後活躍した漫才師。幼くして漫才師としてデビューし、はじめは妹のミナミサザエ、ついで浮世亭夢丸、浅田家寿郎、再び浮世亭夢丸――と数々の名人を相手にし、晩年は夫の広多成三郎荒川キヨシという形で落ち着いた。芸歴80年近いものを誇る長老であったという。

 経歴は『日本演芸家名鑑』と『玉造日の出通り三光館』に詳しい。後者の文献を引用してみよう。

 ●小唄志津子
 大正二年、大阪・天下茶屋の芸人の子として生まれる。四歳のころ踊りで舞台で立ち、萬歳師・小山慶治師に弟子入りして、浮世亭志津香の名で、実妹の浮世亭寿美香(のちのミナミ・サザエ)さんと女道楽などを演じた。千日前の三友倶楽部で吉本の手見世を受けて専属となる。広多成三郎さん、荒川キヨシさんなどと組み、平成六年、夫のキヨシさんが亡くなったため引退。

 なお、『日本演芸家名鑑』では「昭和9年 小山慶司師に入門」とあるが、大正の間違いではないか。

 因みに妹はミナミ・サザエ。一時は姉妹で看板を競う中であったという。

 師匠は漫才黎明期の看板であった小山慶司。小山慶司は漫才の傍らで劇団も率いており、志津子はその子役としても舞台に上がっていたという。

 1922年、わずか8歳で吉本興業に所属。少女漫才師として高座に出るようになる。

 吉本専属となったものの、当時は落語の勢力が強く、漫才は殆ど相手にされなかった関係からその動向には謎が多い。

 当人の話では「安来節・役者・万歳なんでもやった」との事であるが、大阪の十銭小屋と呼ばれる漫才小屋で腕を磨くかたわら、師匠や仲間の一座で旅回りをしていたものと思われる。

 後年、妹とのコンビを解消。妹は1941年に浮世亭歌楽と「浮世亭歌楽・壽美江」として高座に出ているため、その辺りに正式解散した模様か。

 志津子本人も歌楽の兄、浮世亭夢丸にコンビを誘われ「浮世亭夢丸・志津子」として高座に上るようになる。『上方落語史料集成』の1941年10月上席に――

△南地花月 桂小雀、房夫・兼子、蜂郎・玉三郎、クレバ・新治、夢丸・志津子、夢若・光晴、成三郎・玉枝、花月亭九里丸、雁玉・十郎、桂春団治、右楽・左楽、雪江・五郎、桂三木助、菊春・太郎、文雄・静代、春本助次郎、柳家三亀松。

 とあるのが確認できる。

 しかしこのコンビは長く続かず、1年足らずで解消。夢丸は弟の歌楽とコンビを組む事となる。

 一方の志津子は、浅田家寿郎に誘われて「寿郎・志津子」として高座に現れるようになる。この頃、既に戦争が悪化し、建物疎開や統制で思い出の小屋や劇場は閉鎖され、様々な制約を受けながらの生活を送っていたという。

 また、慰問や地方巡業などをして、厳しい戦時下・終戦下を生き延びたという。

 戦後、浅田家寿郎が浮世亭歌楽とコンビを結成することとなったために、コンビ解消。その相方の相方・浮世亭歌楽は妹のミナミサザエと後にコンビを組む事となる。凄まじい関係である。

 戦後は浮世亭夢丸とコンビを組み直し、「浮世亭夢丸・小唄志津江」を再結成。ここから小唄志津江をしばらくの間名乗る事となる。

 ずんぐりむっくりの夢丸が大柄の志津子をからかいながら、志津子の三味線に合せて浪曲を唸る古風な漫才だった――というが、当時は浪曲人気が相応にあっただけに美声の夢丸の節真似で客はやんやの喝采であったという。

 また、夢丸が演芸界隈の重鎮だった関係から、「上方演芸協会」の立ち上げに関与し、初期メンバーとして名を連ねた。

 その後、夢丸が吾妻ひな子とコンビを組む事となったためにコンビを解消。しばらくは引退していたらしいが不明。角座のパンフレットには「10年ほど引退していた」とあるが、それも眉唾である。

 1950年代後半には、相方と別れて困っていた市川福治と数年間やっていた事もある。

 1960年、相方に死に別れた広多成三郎と仲良くなり、結婚。「福士シズエ」と名前が変わった。因みにその前は「奥村シズエ」といっていた。

 1961年4月、大阪角座で「成三郎・志津江」として結成披露を行う。

 以来、松竹演芸部の専属となり、「牛漫才」なる漫才を披露した。これは成三郎が亡き妻・玉枝とやっていたネタ「馬漫才」(玉枝が馬そっくりだった所から、全編馬尽くしで玉枝の風貌やネタを馬鹿にする)をもじったもので、志津子のでっぷりとした体形を揶揄したものであったという。

 相応に人気はあったようであるが、戦後の演芸ブームにはイマイチ乗り切れず「古老」という扱いを受けた。

 一方、二人はてんのじ村に居を構え、高度経済成長後も村に居を構える貴重な芸人として注目を集めるようになった。

 1971年4月5日放送の『新日本紀行』ではてんのじ村が取り上げられ、買い出しをする成三郎や村人の中に溶け込む志津子夫妻の様子が映し出されている。

 成三郎とは10年ほど仲良く暮らしたが、1973年暮れに死に別れ、「成三郎・志津子」コンビを解消。

 翌年、村の住人で古くから家に出入りしていた荒川キヨシと再婚。凄まじい男性遍歴である。キヨシと夫婦漫才を組み「荒川キヨシ・小唄志津子」となる。これが最後のコンビとなった。

 カマキリのようなキヨシと恰幅のいい志津子の取り合わせだけで観客が笑ったというのだから、それこそ蚤の夫婦である。

 松竹演芸部に所属し、晩期の角座、浪花座などに出演。ものすごく古風な漫才を得意とするコンビとして重宝された。

 まずはキヨシと軽い掛合をして、三味線を持ち出して音曲尽くし。最後にキヨシの演じる数え唄や阿呆陀羅経の合いの手を入れたり、芝居のネタでは女形になってキヨシを振り回したり――と「萬歳」の時代を思わせる芸を得意とした。

 漫才ブームでもてはやされた漫才の味わいやスピード感は一切なかったが、逆に鷹揚な味わいと年季の入った芸はオールド演芸の一つとして持て囃され、70過ぎてからテレビやラジオへの進出も多くなった。

 桂米朝や関係者の引き立てもあり、関西ローカルではあるものの人気番組で阿呆陀羅経を演奏したり、漫才を披露したり――と晩年は結構恵まれた。それらのネタの一部はDVDやワッハ上方で見ることが出来る。

 ヤングよりも古老や芸人たちのファンが多く、色川武大はこのコンビを「しびれるような退屈さ」と、あえて皮肉っぽい表現で激賞をしている。

 最晩年は角座や浪花座が閉鎖され、仕事場を失う悲劇に遭遇しているが、一方で落語会や大須演芸場といった新しい職場も開拓し、親しまれた。最晩年は大須を中心に出演していたという。

 1994年にキヨシが没した事を受けて、自らも高座を下りた。その後は東みつ子などと助け合いながら、静かな老後を送っていたという。

 キヨシ没後間もなく秋田実の娘・藤田富美恵が出入りをするようになり、彼女に古い寄席や漫才の姿を証言している。これが『玉造日の出通り三光館』の大きなタネとなった。

 また、東みつ子を藤田氏に紹介したのもこの小唄志津子であるという。『玉造日の出通り三光館』完成時には健在だったという。

 一度藤田冨美恵氏に話を伺った際には「その後もしばらくご健在でしたが」との由。21世紀の幕開け前後で没した模様か。

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