加藤瀧子
人 物
加藤 瀧子
・本 名 ??
・生没年 ??~1930年頃
・出身地 ??
来 歴
加藤瀧子は戦前活躍した漫才師。砂川捨丸の初期の相方として活躍し、数多くのレコードを残した。大変な芸達者として知られ、戦前における女流漫才の大御所であったというが、最期はトラブルに巻き込まれて殺されたという。
『大衆日本音曲全集12 漫才篇』によると、元々は女剣舞の芸人だったらしい。その流れで日本チャップリン・ウグイスに入門。漫才師となる。
浅草大東京等に震災前に出て人気があつた剣舞出の加藤瀧子はチャツプリンの愛弟子であるといふのは、うぐひすが剣舞出身であつたからで……
大正初頭より漫才師として活躍し、大正中期頃より砂川捨丸とコンビを組む。
1921年8月、ニッポノホンより「不如帰 (上) (下) 」「合財袋 (上) (下) 」「のぞき(須磨の仇浪)・唄返し」を発売。「砂川捨丸」単独表記と「捨丸・瀧子」と二つの表記が存在するが、基本的にはコンビで吹込みをしている。
1922年10月、ニッポノホンより「義太夫吹寄せ」「説教・虫づくし」を発売。
1923年1月、オリエントより「のぞき(須磨の仇浪)・唄返し」「文句入鴨緑江節・鴨緑江節」「虱の裁判」を発売。
1923年2月、オリエントより「滑稽浪花節・浪花節後付」「文句入りラッパ甚句・唄ならべ」を発売。
1923年3月、オリエントより「数へ唄(間違ひづくし)」を発売。
1923年4月、オリエントより「大津絵都々逸・しゃべくり万歳」を発売。
1923年6月、オリエントより「忠臣蔵」を発売。
1923年7月、オリエントより「滑稽浪花節・ドンドン節」、ニットーより「滑稽浪花節・どんどん節」を発売。
1923年8月、オリエントより「滑稽萬歳」、ニットーより「新磯節・鴨緑江節」を発売。
1923年9月、オリエントより「安来節・どんどん節」、ニットーより「博多節・滑稽安来節」を発売。
1923年10月、オリエントより「書生唄合財袋」を発売。
1923年11月、オリエントより「金色夜叉・戸籍しらべ」を発売。
1923年12月、オリエントより「数え唄テレクサイ・替唄ふきよせ」、ニットーより「数え唄」を発売。
この頃、舞台の上では捨丸とコンビを解消する。レコードでは続投。相方は加藤瀧夫など転々とした。
1924年1月、オリエントより「かりかり節・東雲くづし」、ニットーより「大津絵・掛合安来節」を発売。
1924年2月、オリエントより「鎗さび・小原節」、ニットーより「滑稽浄瑠璃」を発売。
1924年3月、オリエントより「新磯節・五段返し替唄」を発売。
1924年4月、オリエントより「忠臣蔵」を発売。
1924年5月、オリエントより「スットントン節・安来節」を発売。
1924年6月、オリエントより「即席問答」を発売。
1924年7月、オリエントより「男女同権」を発売。
1924年8月、オリエントより「大津絵・都々逸・さのさ節」を発売。
1924年9月、オリエントより「えんかいな・謎かけ」を発売。
この吹込みから数か月の間、捨丸の相方が高橋ライオンに変わる。
1925年1月、オリエントより「唄寄せ・三曲萬歳」を発売。
1925年1月28~31日、名古屋高砂座に出演。大和家三姉妹一座に参加する。『近代歌舞伎年表名古屋篇』に――
「小原節元祖大和家美人団 女流萬歳加藤滝子 小原節・女流萬歳 ヘンリー松岡弘元加入」
とある。
1925年2月1日には名古屋御園座に出勤している。
1925年2月、オリエントより「明烏」を発売。
1925年3月、オリエントより「万歳小唄」を発売。
1925年4月、オリエントより「驚き世界・自転車節」を発売。
1925年5月、オリエントより「江州音頭・河内音頭」を発売。
1925年6月、オリエントより「端唄・吹き寄せ浄るり」を発売。
1925年7月、オリエントより「私の商売・砂川甚句」を発売。
1925年8月、オリエントより「貝づくし・芋の説教・お文章さん」を発売。
1925年9月、オリエントより「出たらめ・洋行流行物」を発売。
1925年10月、オリエントより「玉章の文章」を発売。
1925年11月、オリエントより「唄道楽」を発売。
1925年12月、オリエントより「阿波鳴門」を発売。
1926年1月、オリエントより「名鳥名木・関の五本松」を発売、日楽より「名古屋萬歳・春雨」を発売。
1926年2月、オリエントより「磯節・滑稽鴨緑江節」を発売。
1926年3月、オリエントより「切られ与三郎・博多節」を発売。
1926年4月、オリエントより「石童丸」を発売。
1926年5月、オリエントより「掛合ぞめき・新成金節」
1926年6月、オリエントより「籠の鳥・娘都々逸」を発売。
1926年7月、オリエントより「娘をどり」を発売。
1926年8月、オリエントより「江州音頭・字余りやんれ節」を発売。
1926年9月、オリエントより「台湾節・滑稽詩吟・ロシヤコイ節・合羽屋」を発売。
このレコードを最後に捨丸とのレコードを出さなくなる。
捨丸の知名度ありきとはいえ、捨丸初期のレコードにこれだけ参加して実力を見せたのは、やはり相当の腕があったからであろう。
昭和に改元した後は東京の安来節小屋に定着し、東京近辺の寄席に出るようになった。その頃、漫才師になったばかりの林家染団治とコンビを組んでいる。
1927年2月、『都新聞』(2月2日号)に――
▲凌雲座 華嬢経営は一月限りにて二月より松島興行部で経営し各派大演藝會で開場出演者は
初代梅坊主一座、春本助次郎、寶家和楽、港家奈美江、萬歳加藤瀧子、杵屋臼五郎、福本連、染團次、天路幸二、二代目岩てこ
とある。さらに、そこから間もなく出た『演芸画報』(1927年4月号)の「演芸膝栗毛」の中に――
北八『すつかり萬歳通になつたものだ、君も斯ういふ物を観てそんな言をいふンだから安来節が藝界の往来を狭しとばかりに歩くわけだ……オヤ観客から何か藝の注文を出してゐるぜ。』
彌次『ウム「今奴を演れ/\。」と云つてゐるが、何だろう今奴といふのは……鳥渡そこまでの通にはなれないぞ。』
北八『ありやアきつと安来節の女の名前だよ其の物真似か何かを演れといふのだらう。』
彌次『そんな事かも知れないが、あゝやつて観客が呼ぶ程だから、今奴ッてのも何れ有名なものに違ひないあね、瀧子を茲で観るのが初めてゞ今奴を知らないなどは、僕らは時節に遅れてゐるね。』
北八『染團次が観客に應答へて請合つてゐるよ「よろしい今奴を演らせます、…さアお演り」と反かへつて命じてゐるな、ウムそこで瀧子嬢は「今奴を演るから、あんたも何かお演り、ごまかして怠けたらいかん、なアお客さん。」と来た。』
彌次『観客は亦嬉しがつて「染團次、猫八を演れッ。」と呼んでゐるね……観客はすつかり心得てゐるンだな、彼奴は猫八の真似が得意だと見える。』
北八『オヤ亦此方の観客が「あやつりの鰌すくひッ。」と注文を出してゐるぜ。』
彌次『ウムいろんな事を演ると見えるね、何しても観客はきのふけふの観客ぢやァないや、斯うなると初會の僕らは甚だ気焰が昂らないね。』
北八『たまに聲をかければ御近所で怒られるしさ。』
彌次『やつぱり再會から馴染と来なければ通にはなれないンだよ。』
ーー舞臺はもうすつかり観客の興を乗せ切つてゐる、染團次が「猫八」だの「あやつり」だのと註文を受けて、
染團次『やかましいッ贅澤いふなッ。』
などゝ観客を叱りつける愛嬌があり、亦瀧子にポカ/\叩かれたりして、それから瀧子が其の今奴の物真似といふのに取懸る、彌次北両人の察する通り安来節の其れで、観客は大喝采で歓迎する。
とその芸風が記されている。
この公演直後に染団治とコンビを解消した模様。まもなく上京してきた浮世亭夢丸とコンビを組んだ。1927年4月1日から始まる浅草帝京座の番組表に――
安来節小原節諸芸競演大会
越中富山本場八ツ尾芸妓連
安来節幹部連
露国女優特別出演 ダンスルアフ日本舞踊イゾリダ
高級万歳 加藤瀧子・浮世亭夢丸
その後、夢丸とコンビを解消。しばらく漫才を続けていたが、トラブルに巻き込まれて殺害されたという。『中央公論』(1932年11月臨時号)掲載の小坂新夫『猟漫談』
数年前まで横浜線の朝の一番列車に、東神奈川駅から猟装物々しい、立派な体格の美人があつた。網棚の上には十二番の銃を入れた皮の銃袋がどつしりと置いて、乗り合せた猟天狗と面白さうに、猟漫談をやつてゐた、私は日本人にしては相当の女傑と思つてゐた、何でも与瀬あたりへ出かけヤマドリ猟師をやるらしく、私が鳥屋方面に行って帰りは橋本駅から乗り飲むと二羽ぐらひのヤマドリを鳥さげにブラさげ、穿いている脚絆も地下足袋も泥によごれてゐた。
この女猟天狗は、横浜市内の朝日座に出てゐる女萬歳で加藤瀧子といふ婦人であった、ところがこの近年ふつつり加藤女史の姿を横浜線の車内に見ないやうになった、ある物好きの猟天狗が調査すると彼女は、どういふ因縁か金銭問題か何かで男からピストルで射殺されたといふ事であつた。
という一節がある。時折、「捨丸の相方・高橋ライオンが射殺された」と記している資料があるが、加藤瀧子の間違いではないか。
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