若松家正坊・艶子
人 物
若松家 正坊
・本 名 ??
・生没年 1892年頃~1947年
・出身地 ??
若松家 艶子
・本 名 ??
・生没年 ??~??
・出身地 ??
来 歴
戦前活躍した漫才師。正坊は初代若松家正右衛門の高弟で、あほだら経や音曲など、昔ながらの芸尽くし漫才を得意とした。一時は吉本の人気漫才師であり、SPレコードに吹き込むほどの人気があったが、そのくせ判らない事が多い。
入門時期は不明。山崎正三が三番弟子であることを考えると、それより下か。
『落語系図』掲載の『昭和三年三月より昭和四年一月十日迄で 花月派吉本興行部専属萬歳連名』には名前が出ていない。然し、やっていないとも言えない。
当初は荒川末子とコンビを組んでいて人気があった。一部文献では、桜川末子とあるが、これは違うだろう。
1930年頃よりぽつぽつと活動が目立つようになり、1933年頃からレコードを吹き込み始める。スタンダードレコード、ホクチク、テイチク、タカシマヤ・レコードなど、数多くのレコード會社で吹き込みを行っているため、全貌をつかむのは難しいが、『テイチクレコードSP盤総目録』などから、把握している分だけでも、
1933年に、テイチクレコードから
『早いが改良・米屋の催促』若松屋正坊 荒川末子
1935年5月、同じくテイチクレコードから、
『須磨の仇浪・漫才深川くづし』若松屋正坊 荒川末子
また、年代こそわからないが、吹込み・現存しているものに、
テイチク 『阿呆陀羅経(上・下)』
テイチク 『数え唄・今と昔』
スタンダード『棒々尽くし』
などがある。一部を『上方漫才70年史』などで聞くことが出来るが、鼓と三味線を使った、本当に「萬歳」の名残を残すような語り口である。一応の役割を書いておくと、正坊がボケ、末子がツッコミである。
1937年頃、末子とのコンビを解消し、妻の艶子とコンビを結成。このコンビで、吉本系の劇場や寄席に出演し、しゃべくり全盛の漫才の中で、古き良き香りを残す漫才師として、活躍した。雑誌『ヨシモト』の中に写真や漫才の速記が残されており、断片的ながら、その舞台姿をうかがい知ることが出来る。
戦時中も吉本に所属をして相応の活躍をしていたようであるが、この頃からヒロポンにハマり始め、中毒となってしまったという。
結果、健康を損なう所となり、思うような活躍も出来なくなってしまった。吉田留三郎『まんざい太平記』の中に、
ポン死とまでは行かないまでも、平素から注射で極端に身体を虐待していたため、他の病気でポックリいった人々、例えば初代日佐丸も発疹チフスくらいで参る身体ではなかったはずである。相棒の初代ラッパも折角帰還したのだから、もうひと踏ん張りしてほしかった。アホダラ経のうまかった若松家正坊もその一人と言える。
とある所から、相当ガタが来ていたのであろう。
最終的には、ヒロポン中毒に加え、戦後直後の衛生環境や食糧事情などが重なって、病に倒れ、1947年、55才の若さで夭折したという。没年は『笑根系図』に書いてある。生没年はそこから逆算した。
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