二代目西川サクラ(丘みどり)

二代目西川サクラ(丘みどり)

 人 物

 西川にしかわ サクラ
 ・本 名 上田 絢子
 ・生没年 1930年5月23日~没?
 ・出身地 東京 台東区

 来 歴

 二代目西川サクラは戦前戦後活躍した漫才師・コメディアン。「丘みどり」という芸名の方が有名なのかもしれない。同名の歌手がいるが無関係である。上田五万楽の娘に生まれ、西川ヒノデに望まれて「二代目サクラ」として高座に立ったが、余り長続きせずに解散した。

 父は喜劇俳優の大御所、上田五万楽、母は女優の中野時代というサラブレッドであった。叔母(母の妹)は女剣劇の傑物・中野弘子というのだから、名門も名門である。

『日本女性録』に経歴が出ている。

丘みどり
映画俳優(金星プロ)
東京都台東区出身
昭和5年5月23日生
本名 上田絢子
(経歴)現在松竹新喜劇所属上田五万楽氏の娘に生る 昭和二二年蔵前高卒 同一一年六才で市川猿之助一座にて「虹物語」で初出演 戦後西川サクラの芸名で西川ヒノデとコンビとなり活躍 朝日放送専属を経て吉本興業専属となり丘みどりの芸名で アチャコエンタツの相手役で映画放送に活躍「陽気な探偵」「チョビヒゲ漫遊記」「アチャコ青春手帖」「旗本退屈男」「右門捕物帖」出演 同二三年同プロ所属となり今日に至る

 父親が喜劇俳優(生まれた当時は東京の漫才師でもあった)であった関係から、楽屋や芸人に囲まれて育ち、当人も幼くして舞踊や鳴物の稽古に出されたという。

 1936年8月、歌舞伎座・猿之助一座公演の「虹物語」で初舞台。この「虹物語」は、岡田八千代、池田窯子、木村富子の合作で、天平時代の伝説を琴や三曲を入れてレビュー調に展開する前衛的舞踊劇であった。

 この後も歌舞伎の子役や父親の一座の子役として舞台に出るようになる。10代にして一座の主力メンバーであったというのだから一種の天才であった。

 1945年夏、父と共に樺太へ出発。樺太前線で表彰を受けて、北海道に戻ってきた日が終戦――間一髪のところでソ連侵攻を免れたという逸話がある。『主婦と生活』(1960年8月号)掲載のエッセイ『大泊暁部隊の小川九郎少尉』によると――

(昭和二十年八月)私は数えて十六歳、父の劇団(松竹新喜劇上田五万楽)で暁部隊の慰問のため、樺太に渡りました。 樺太での慰問が終り、宗谷海峡を渡り、稚内に着いたのは、忘れることのできぬ八月十五日でした。思えば夢のように十五年過ぎました。

 その後の樺太の悲劇を考えると、本当に運がいいとしかいいようがない。ちなみに「小川九郎少尉」とは、丘が恋心に近い憧れを抱いた初めての男性であったという。

 戦後、サクラを失った西川ヒノデとコンビを組む事となり、便宜的に「西川サクラ」を名乗る。ヒノデとは21歳差、まるで親子のような関係であった。

 ヒノデのバイオリン漫才に附き合い、民放開局ブームに乗って相応に活躍。朝日放送の専属にもなったが、わずか数年で解散。

 ヒノデは浪曲出身の吉田駒千代を誘って、「ヒノデ・サクラ」を再結成。みどりは漫才界から退いた。

 その後、みどりは放送タレントとして活躍。江戸弁と大阪弁を操れる器用な存在として、重宝された。

 特に柳家金語楼の「おトラさん」では、大阪弁を話す女中として若水ヤエ子の代理として出演。最終的に若水を食ってしまう程の人気を集めた。

 1957年、柳家金語楼が展開する金星プロに所属。一時期上田絢子と名前を改めている。ただ、名前の印象が悪かったのか、すぐに改めている。

 1959年に「おトラさん」終了した後は、金星プロを離れて、フリーの放送タレントとして活躍。テレビ黎明期とあってドラマやコメディにも出るようになる。

 1961年、父の属していた松竹新喜劇に加入。加入した背景には「五万楽と天外が友人だった事、天外が女優育成を目論んでいた事」があったという。若い娘役や仲居の役で活路を見出した。

 しかし、藤山寛美中心路線や松竹新喜劇分裂騒動によって、3年で退団。今度は東宝歌舞伎に移籍した。

 1981年、藤山寛美の推薦で松竹新喜劇に復帰し、「義士廼家緑」と改名。父の芸名であった「義士廼家由良之助」から名付けたのはいうまでもない。

 晩年は大阪市に居住し、そこで暮した。

 1990年代まで活躍が確認できるが――その後はどうなったのだろうか。

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