司敦子(ピンアップトリオ)

敦子(ピンアップトリオ)

 人 物

 つかさ 敦子あつこ
 ・本 名 久川 敦子
 ・生没年 1944年~ご健在?
 ・出身地 高知県

 来 歴

 ピンアップ敦子は、戦後活躍した漫才師。祖父母、父と親子三代の漫才師の家に生まれ、自身も漫才界に参入。「ピンアップトリオ」と称する音楽漫才で活躍したが、後年は漫才界をやめ、興行師となったという。

 経歴は、『上方演芸人名鑑』と『ダ・カーポ』(1984年11月5日号)掲載の「編集長の私的発言」に詳しい。後者を引用してみよう。

『BIG APPLE』編集長 久川敦子さん
昭和19年高知県生まれ。高校中退。OL生活1年を経て漫才界へ。もともと親子3代の漫才一家。「ピンアップ・トリオ」の司あつ子として活躍したが、45年引退、「企画室・卓」を設立。舞台やエベントの製作を手がける。

『上方演芸人名鑑』によると、祖父母は初代荒川ラジオ門下の荒川久菊・高子、父も荒川ラジオ坊という漫才師であったという。

 初代荒川ラジオのお孫さんの話によると、「祖母・荒川久栄の親類に久川という人がいて、この人も漫才師になった」という所を見ると、久菊かラジオ坊あたりは、ラジオ一族の親類だったようである。

 天王寺商業高等学校中退後、OLをやっていたが、すぐさまやめて祖母と叔母とトリオを組んで「紅敦子」の名前でデビュー。

 1962年、独立して「ピンアップトリオ」を結成。自らは白樺月子と改名し、仲間は「遠山雪雄」、「春丘花世」と名乗った。それぞれの名前を合わせると「雪月花」になるという洒落である。

 ただ、メンバーの出入りは激しく、実態は白樺月子・遠山雪雄のコンビのような物であった。

 1963年に、白樺栄二が加入。この頃は千土地興行の専属であった。

 1966年頃、タイヘイトリオ門下の人長作がトリオに加入し、「花人名」と名乗る。これは後年一世風靡したレツゴ―三匹のレツゴ―長作である。ただ、この加入は一年と持たなかった。

 一部文献では「ピンアップ○○」と改名した――とあるが、当時の名簿や資料を読むと相変らず雪月花の表記である。どういうわけか。

 この頃、松竹芸能に移籍している。

 1969年頃、仲間の紹介で入門してきたのが松田幹子という女学生である。姉弟子と組ませて「司ミキ・ミワ」となる。このミキは後年東京へ行き、内海桂子・好江門下へ移籍。そこでツービートのビートたけしと知り合い、結婚。長い間北野幹子として知られる事となった(最近離婚したが)。

 1970年代に入ると迷走をするようになり、そのまま自然解消。

 敦子は、相方を喪ってやもめになっていた浮世亭とん平とコンビを組み、「浮世亭とん平・つかさとん子」を結成。実力派同士のコンビと期待されたが、長続きはしなかった。

 この頃、松竹芸能に入って来た奈和セツ子とコンビを組み、「司敦子・節子」を結成。女流のしゃべくり漫才として注目を浴びたが、これも長続きはしなかった。

 1970年代中盤にはすっぱりと漫才師から足を洗い、「企画室・卓」を設立。ここの女社長としておさまる事となった。

 企画、運営、設営、番組作りを女手一人でやっていたそうで、その辣腕ぶりに関係者は舌を巻いたという。そのおかげで人気企業へと成長し、富を築いたという。

 全盛期は、アメリカを毎月のように往復し、レビューの交渉や勉強に行っていたというのだからすさまじい話である。

 そして、アメリカ通いの経験を元に『BIG APPLE』なる雑誌を立ち上げ、編集長をやっていたという。「編集長の私的発言」によると――

「私はレビューのプロデュースをしている関係上、NYへ行くことが多いんですが、世界の文化を作る町なのに、日本にNYだけを取り上げた情報紙がない。それじゃ、ありとあらゆる情報を集めて”ごった煮”情報紙を作ってやろうと思って。」

 との事である。昭和末の活躍ぶりはすさまじかったそうで、相羽明夫『演芸おち穂ひろい』の中では、その成功ぶりがつづられている。

 つかさとん子――ピンナップ敦子、司敦子、白樺月子、白樺敦子など、いくつもの芸名を持つ。本名は久川敦子という。
 祖父母の代から演芸人で、まさに舞台に立つために生まれてきた。
 だが、今は女社長。それもたくさんのスタッフを従えて、ファッションの情報を提供したりする企画会と、催し物を実行するオフィスの二つを経営している。
 催し物の場合、彼女が自ら、構成、演出、振付、それに楽器の編成まで全て一人でやる。こちらは、昔とった杵柄が役に立っている。
 そのおかげで、なんと年商何億を扱う会社に成長した。
 しかもこの女社長、豪華マンションに住んで、京都の祇園で豪遊する。
 およそ漫才をやっていては味わえないような素敵な生活環境だ。
「楽しそうに見えますが、一人娘をかかえて大変なんですよ。
結婚、もうたくさんです」。
かって芸能人時代に知り合って一女をもうけた相手に去られてから独身生活を続けている。

 一方、家庭人としては大人しかったそうで、「結婚はもうこりごり」と一人娘だけを手元において、静かに暮らしていたという。何かと浮名を流す芸人が多い中で、

休日の過ごし方は。
「哀れなことに、あれこれほかの仕事もやってますから、休日ってなオイシイ日はほとんどなし。たまに休めると、娘と猫3匹と家ん中でゴロゴロ寝てますわ。ただし、休みのない分、365日一日たりとも酒の飲まん日はないですね。飲むことを取ってしもたら、私に何が残るんかな、と思ってしまいますねぇ。」

 平成初頭まで活躍が見られるが、バブル以降はどうなったのだろうか――?

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