一陽斎正一(初代)

一陽斎正一(初代)
人 物
・本 名 宮田 源之助
・生没年 1887年(逆算)~1947年6月29日
・出身地 大阪?
来 歴
一陽斎正一(初代)は明治末から戦前に活躍したマジシャン。関西の名門・一陽斎の創設者であり、関西の寄席奇術に影響を及ぼした一人でもある。ジャグラー操一は父、二代目・三代目一陽斎正一は息子。
父・操一は日本マジック史の記録に残る偉人である。初代帰天斎正一、松旭斎天一と共に西洋奇術を広めた功績がある。
ジャグラー操一の活躍に関しては『見世物興行年表』に詳しく出ている。こちらを参考にしてください。
『時事新報』(1906年12月31日号)の記事によると、「操一は本名安立操太郎といい、安政3年11月3日大阪生まれ。実家は造り酒屋播伊であった。17歳の時に一度家出をして各地を放浪し、19歳の時にヘボンという西洋人から奇術を学ぶ。その後、一度家に帰って家業を継いだが26歳の時に独立する」とある。
正一が誕生した当時、操一は全盛を極めており、浪花座や南座でリサイタルを行うほどの人気を博していた。凄まじい人気を博していたこともあり、幼少期は結構裕福であったという。
一方、父は「芸人になるな」と倅に厳しく言いつけており、本来は別の道を進ませる予定であったという。そのため、正一は芸能界に関わらず、静かに暮らしていたという。
しかし、父・操一の人気は長く続かず、世界漫遊や難しいスケジュールで身体を壊し、1907年頃に病気のために引退。一時は長崎へ引っ越して実業を起こすが、これも失敗する。
療養費を稼げなくなった操一は息子を芸人にして高座に引きずり出すようになった。
『都新聞』(1910年5月21日号)に――
(操一は)一旦は奇術を止めて了ひ、肥前の長崎で罐詰製造を始めたが、其れも帽子の中から鷄を引き出すやうに旨くは行かず、又元の奇術師に舞戻つて、決して奇術師などにはせぬと思つて居た倅まで小操一と名けて座中の一人にしたけれど、一向冴えた事もなくて、遂々本当の田舎廻りの手品師になつて了つてゐるのだ。
正一は父から奇術を学んで「ジャグラー小操一」と名乗る。当初は父に従って地方を回りを続け、後に独立して「西洋奇術・ジャグラー小操一」として舞台へ出るようになった。
1909年3月には富山海津座、1909年11月には、正天一一座に混ざって出演している様子が確認できる。
1913年頃、「一陽斎正一」と改名する。花月亭九里丸は「大阪紅梅亭に出演した際、正月一日だったので、仲間から改名を勧められ、一陽来復と正月をかけて一陽斎正一と称した」と説明している。
『上方落語史料集成』を見ると、同年9月21日から始まる朝日座の演芸会に――
(東京)長唄紫紅會員六かね、六まつ、六千代、六歌女(大阪)落語寿々女會連中、落語浪花反対派連中、浪花節廣澤當美、舞山村派菊江嬢外数名、清元小せん、端唄玉吉、常盤津小圓(神戸)奇術一陽斎正一社中、浪花節桃中軒正雲、三河家寅吉、大和琵琶山田光栄子、舞登美。
とあり、大正改元前後に改名したのは確実だろう。
長らく一枚看板での旅を続けていたが、1914年5月27日に父・操一は自殺を遂げた。これを機に関西へ移籍し、寄席や関西圏の劇場へ出勤するようになる。
長らく浪花反対派に関与して『カードマジック』『シルクハット』『シガレット』といった奇術のほかに、何もつけてない釣り竿から金魚を出す『金魚釣り』を得意とした。この芸は一陽斎一家の御家芸として代々伝えられることとなった。
1917年、長男・宮田穰一が誕生。後の二代目一陽斎正一である。
1918年11月3日、次男・宮田純二が誕生。後の三代目一陽斎正一。
その後は寄席への出勤のかたわら、旅巡業や独自の興行で存在感を発揮した。弟子も集まるようになり、一陽斎都一、一陽斎双一、二代目正一(小正一)、三代目正一(正月)などを育てた。関西の寄席奇術師を育て続けた功績は大きい。
大正末まで高座に出ていたが、吉本興業が演芸界を掌握すると寄席を出てフリーになった模様か。その後は余興に出るかたわら、後進の指導に勤しんでいたようである。
1934年、奇術同好会「陽友会」を設立。関西の奇術サークルの先駆けの一組となった。
1939年6月11日、息子の譲一に「二代目正一」を禅譲。自らは本名の「宮田源之助」と称するようになった。ただ、余興などにはちょくちょく出ていたようである。
しかし、跡継ぎの二代目は1945年3月13日に陸軍病院で戦死。5月に葬儀が行われている。これで相当ショックを受けたのか、戦後は寝込むようになったという。
その後はしばらく療養を続けていたがうまくいかず、1947年に59歳で亡くなったという。奇しくも父・操一と同じ享年であった。
遺言は娘婿の都一に「ジャグラー姓を復活させるように」というものだったらしい。


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