深田繁子

人 物
深田 繁子
・本 名 深田 繁子
・生没年 1913年5月4日~
・出身地 島根県 八束郡 揖屋村
来 歴
深田繁子は安来節出身の漫才師。漫才として売れる前は安来節の大スターとして鳴らした。美貌と美声、勝ち気な芸風が売り物で戦前吉本の大看板であった。
『東出雲町夜話』によると「父は檜皮職人の深田国太郎、弟は映画監督の深田金之助」とのことである。
吉田留三郎は「深田小一郎という米子の素封家」と『まんざい太平記』で紹介しているが、関係者の証言を集めた地元誌の方が信ぴょう性が高そうである。
深田金之助は「島根県出身、島根の学校を出た後に映画界に入った」と後年プロフィールを提出している。繁子が姉だったのは本当のことだろう。
生年と本名は『陸恤庶發第七四六號 船舶便乗願之件申請』(1938年11月4日)に――
「歌謡漫才 上 深田繁子 深田繁子 大正二年五月四日生」
とあるのが確認できる。
父・国太郎は元々職人であったが、東京に安来節を持ちこんだ樋口次郎吉と親しく、1913年に吉儀お品一座を結成し、大阪で公演を打っている。後に職人をやめてお品一座の興行をやるようになった。
そうした関係もあり、子供の頃から安来節や踊りに囲まれて育ち、回らない舌で安来節を口ずさむような子になった。
間もなく吉儀お品一座に加わり、4歳の頃から「天才少女」という肩書で高座へ出るようになった。吉儀お品も繁子を娘のように可愛がり、安来節や音曲の手ほどきを行ったという。
1920年6月1日、お品が急死(息子を出産後に体調を崩し、そのまま亡くなったという)。以降は父・国太郎に連れられて「深田繁子一座」として独立した。
その後は各地を転々とした後、1927年頃に上京。同年5月1日付の『都新聞』に――
▲江川大盛館 米子検若吉、深田繁子、小櫻金之助、ハレー加入
とあるのが確認できる。声よし、姿よし、度胸よしの三拍子をそろえ、13、4歳にして大スターとなった。主に江川大盛館を拠点にした。
1929年11月17日、遠藤お直とともにJOAKに出演し、『安来節』を披露。
その後は引き続き浅草を拠点に活動を続けている。この頃、レコードを何枚か吹き込んでいる。
安来節が衰退し、浅草から常打小屋が消えた後も第一線で活躍した。安来節に洋楽伴奏を入れたり、ダンスを取り入れたり、流行歌を挟み込んだ「安来節レビュー」を得意としたという。
浅草を愛した作家・武田麟太郎は『淺草・餘りに淺草的な』の中で、安来節レビューを絶賛している。
遊樂館に人気の或る深田繁子嬢。(ラジオのおかげで、彼女の聲は山の手にまでとゞいてゐるらしい)彼女は安来節のうたひ手だ。安来節と云ふのは緋の毛氈の上に坐つて、両脇に三味線、太鼓、尺八などを伴奏させながら、うたひ出すものである。が最近の彼女は舞臺(ステイヂです)に立つてバックには両側に黒い布を立て、フットライトに彼女の立ち姿の影法師を紫と桃色に作り出させ、さて、ピアノの伴奏で、「ヤスキブシ」を獨唱する。そんな新時代的な趣所になつてゐる。うれしい。安来節の寄席と一口に云はれるが、これも大へん變つたのだ。
さらに『演芸画報』(1934年1月号)に「勝太郎と繁子」という批評が出ており、その中で「浜田梅吉衰退した今、安来節のプロは彼女しかいない」と称えられている。
安來節の深田繁子を御紹介しよう。安來節といふと鼓を勃起させたり、撥をクル〳〵振廻したり愚劣低級の物のやうな様を思はれるが繁子のは左に非ず、裾模様の艶やかにステージに立つと三味線に合はせてピアノの伴奏、安來節獨唱といふ形であつて、唄の間には「どんと、どんと〳〵」と出船の港などが入る、中々高級なものだ。昭和四年頃處女聲の持ち主として壓倒的な人氣を博した女で、今でよ處女聲……は疑問だが、依然として美音美聲の持ち主である。出雲お糸等影を潜め、濱田梅吉等不振の今日、安來ファンを喜ばせて居るものは只一人彼女あるのみだ。
長らく安来節で活動していたが、1935年夏に見切りをつけて漫才に転身。以前から接点のあった吉本興業と専属契約を結び、鹿島洋々とコンビを組んだ。
1935年12月12日、早くも全国放送に出演し『苦労忘れてほがらかに』を放送している。
1936年1月には、南地花月に出演。以降は大阪を拠点にした。
ずんぐりむっくりとした洋々を江戸っ子気取りの繁子が「男のくせに」と啖呵を切り、洋々を振り回すしゃべくり漫才を得意とした。漫才の中で節真似や安来節を披露することもあり、芸達者なコンビとして鳴らした。
1938年11月、鹿島洋々と共に吉本興業主催の軍事慰問「わらわし隊」に参加。中支をめぐっている。この経験もあり、一躍吉本の大看板として遇されるようになった。
1939年4月、ビクターから『北京見物』『島めぐり』を発売。
同年5月、ビクターから『愚兄賢弟』を発売。
同年10月、ビクターから『思いつき夫人』を発売。
この吹き込みを最後に鹿島洋々とコンビを解消。千歳家歳男とコンビを組み、「歳男・繁子」となる。
こちらのコンビでも幹部の地位を維持して、吉本の寄席に出た。大柄でぼんやりした歳男を徹底的にこき下ろすという女性優位漫才であったという。
同年12月、ビクターより『奥様になりたい』『ワシントン』を発売。こちらはレコード会社で録音・保存しておいたものをそのまま出したものらしい。
戦争末期には千歳家歳男も応召を受けたためコンビを解消。浅田家寿郎とコンビを組んだ。
敗戦後はしばらく大阪にいたらしいが、吉本興業と契約が切れたこともあり漫才師を廃業。再上京して復興したばかりの浅草木馬座に参加した。
以降は木馬館の看板歌手として立花梅奴とともに活躍を続けた。老いてもなお美声は維持しており、味のある安来節で魅了したという。
1952年10月、テイチクから『安来節』を発売。1953年3月にもビクターから『安来節』を発売している。
1950年代後半まで活躍が確認できるが、40代で亡くなったという。安来節関係者から伺った話では、酒を飲みすぎて身体を悪くしたと聞く。
面識のあった作家・梅田とみ子『続花と旅と』の中に「昭和三十年四月、浅草で伊布夜会を開催した際、深田繁子を呼んだ。繁子は安来節を歌い、宴は大いに盛り上がったが、それから間もなくして亡くなった」という旨がある。


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