今宮エビス

今宮エビス

 人 物

 今宮いまみや エビス
 ・本 名 土屋 嘉生
 ・生没年 1942年1月10日~2008年1月27日
 ・出身地 京都府 京都市

 来 歴

 今宮エビスは戦後活躍した漫才師。坊主頭で厳粛な雰囲気を出す内海カッパとは対照的にロングパーマで饒舌というワイルドな風貌と芸風で人気があった。「おじゅっさん漫才」という独特の漫才を得意とした。

 実家は竹むらという豆腐料理屋。この店は今も嵐山で経営している。「湯豆腐」が売り物で、川端康成や司馬遼太郎からも愛された。その店主であった土屋氏は兄弟だったはず。詳しい事は知らない。

 立命館高校卒業後、喜劇役者を志して、家を飛び出し大阪へ行く。

 芦屋雁之助・小雁主宰の「笑いの王国」に旗揚げに並んだ。

 1960年5月、南座の旗揚げ公演に「十日野我」の名で初舞台を踏んだ――というのが定説となっている。

 なお、『日本演芸家名鑑』では1961年に雁之助へ入門したという扱いになっている。

 雁之助について舞台に出ていたが、生来の寝坊故に四回も破門を受けている。そのうち一回は、長く続き、親交のあった勝新太郎から「付人にならないか」と誘われたが断った――と『上方演芸人名鑑』の中で触れられている。

 しかし、1962年頃より、「笑いの王国」の座付き作家・花登筺と芦谷雁之助・小雁が対立するようになり、雁之助側にいたエビスも冷遇を受けるようになる。

 結局、雁之助一派と花登一派の関係はこじれ切ってしまい、1964年に劇団解消。事実上の解雇となっり、ストリップ劇場や喜劇一座を渡り歩く事となる。

 1965年、喜劇仲間の内海カッパに誘われてコンビを結成。松竹芸能に入った――と書籍などでは触れられているが、当時のプロフィールには、「1966年3月結成」とある。ややこしい。

 松竹芸能の重役・吉田留三郎に気に入られ、「今宮エビス」の名を貰った。いうまでもなく「今宮戎神社」の洒落である。

 吉本の横山やすし・西川きよし、松竹芸能の若井ぼん・はやとと同期世代という形で売り出される。売り出し当初はテンポの速い、威勢のいい漫才が売りであったという。

 しかし、1970年代初頭に喀血。間もなく肺結核が判明する。

 1973年5月、肺結核を治すために、豊中市刀根山療養所へ入院。片肺を切除する大手術となった。

 そのせいか、晩年は肺を悪くし、肺炎で何度も入院した。

 自身の入院中、仕事がなくなった内海カッパは、一念発起をして得度をし、坊さんになっている。この面白いすれ違いが、後年の「おじゅっさん漫才」誕生のきっかけとなった。

 復帰後は、カッパの坊主頭や僧侶をネタにした「おじゅっさん漫才」を十八番とした。エビスがしゃべりまくり、カッパが合掌をしたり、お経の一節を上げるちぐはぐのようでちぐはぐではない不思議な味わいで人気を集めた。

 1980年1月、師匠の芦屋雁之助を中心とする「芦屋笑会」を兄弟子の船場太郎、弟弟子の芦屋凡凡などと共に立ち上げる。その時に「師匠の代表作を作りたい」と発言、これを名誉会長の藤本義一が賛同し、「花王名人劇場」の澤田隆治に話を持ち込んだ。

 結果として、その交渉は「裸の大将」として実を結び、名実ともに雁之助の代表作となった――と、凡凡氏のブログの中にあった

 1980年代前半より松竹芸能の業績が悪化。ホームグラウンドの角座や浪花座が立て続けに閉場する。さらにライバルの若井ぼん・はやとが解散をし、大きなショックを受けた。

 松竹芸能の冬の時代の中で巧みに生き残り、残った劇場や番組に精力的に出演を続けていた。

 1985年に出された『日本演芸家名鑑』の中でエビスは「我々中堅がしっかりせねばならない」と抱負を述べている。派手ではないがしっかりとしていて、後進の見本になる漫才師となった。

 浜一夫は『もうひとつの上方演芸』の中で、

 2人がそのまま絵になるコンビである。
 そして2人とも芝居畑出身というのもおもしろい。
 カッパはうめだ花月で吉本新喜劇に登場したのが昭和38年、エビスは京都南座で昭和35年に初舞台を踏んでいる。コンビ結成は昭和41年で今は亡き横山やすしや、若井ぼん・はやと等とほぼ同時期にデビューしている。よって同期等とつるんでのやんちゃぶりは枚挙にいとまがない。その元締が坊さんのカッパと聞くと、人間の不思議を思わずにいられない。
 エビスが病気となり、その療養中にカッパは高野山で得度し、頭を丸めて僧侶となったので、今の「仏教漫才」と呼ばれるスタイルができた。「雨降って地固まる」である。
 厳しい口調のカッパに対し、やや舌足らずなエビスのしゃべり。奇妙に調和している。 先日の浪花座の舞台。
 とぼけた味とでもいうか、エビスがお世辞にも似ているとはいえない声色を披露し、さらに厚顔にも?お客さんのリクエストに応えるという。
「村山富市。」と客席から(正直に)声がかかる。
「ええと村山。村山さん、政治家でしたな」。
 それからエビス、リクエストをもらっておきながらなかなか演じない。政治問題、経済問題をひとしきり論じる。焦れたお客さんが再度「村山富市!」と声をかけると、 エビスすかさず、 「こらえ性のない人やなあ」。
 結局エビスはものまねをやらず、それをカッパが詫びるという、このコンビの流れとなった。カッパが 「南無阿弥陀仏」と唱え手を合わせ、下げた頭がライトに輝く。 諸行無常の芸界で「南無阿弥陀仏」と唱え続けるカッパ。一つのスタイルを構築したカッパ・エビス。安定した笑いを供給している。
 ただ気がかりなのはエビスの健康である。ともに幕内ではやんちゃで通っているだけに健康に留意されたい。
 完成されたしゃべりに2人の笑顔千両がさらに磨きをかける特異な舞台。
 味のある名コンビの一組に数えられるだろう。

 と、その舞台を激賞している。

 晩年は大腸がんや肺炎を患い、何度も入院をしたという。

 若井ぼんの追悼記事によると、「片肺から食道癌、そして6度にわたる肺炎、病歴を重ね入退院・・・」との事。

 最晩年は自慢のパンチパーマを落し、坊主頭同然で舞台を務めていた。

 2004年5月2日~6日、『上方演芸特選会』に出演。

 2005年5月7日~11日、『上方演芸特選会』に出演。

 2006年12月25日、若井ぼん主宰の演芸会に出演。これが公になった最後の舞台だろうか。

 その後は肺炎や大腸がんで闘病を繰り返し、2008年1月、息を引き取った。当時の訃報を引用しておこう。

 漫才師の今宮エビス(いまみや・えびす、本名・土屋嘉生)さんが27日午前9時17分、肺炎のため大阪市城東区の病院で死去した。66歳だった。京都市出身。葬儀・告別式は29日正午から大阪府守口市浜町1の7の11、シティホール守口で。喪主は長男禮大(れお)氏。

 相方の後を追っかけるようにカッパも病気になってなくなっている。

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