河内家鶴春
最晩年の鶴春・お龍コンビ
人 物
河内家 鶴春
・本 名 魚谷 鶴松
・生没年 1898年~1960年代後半?
・出身地 大阪?
来 歴
戦前戦後活躍した漫才師。戦後、女流漫才の人気者で会った浜お龍は妻で相方であった。
亭号の「河内家」の通り、河内家芳春の門下。「笑根系図」には「初代芳春門下 河内家鶴春 明三一年生」とある。本名は、澤田隆治氏所蔵の名簿の写しから判明させた。
師匠が荒川芳春という名前だったためか、「荒川鶴春」と名乗っていたと模様。『上方落語史料集成』の1924年3月のページに、
◇芦辺館
一日より安来節花形山崎汲子萬歳界名物男荒川鶴春合同一座。七日より四日間三遊亭円右外数名が出演。
十一日より東京講談界の元老神田伯竜出演演題野狐三次、新吉原百人斬、武芸流祖録。
二十一日より女流演芸会。
とあるのが気になる。この前後で師匠が独立して、河内家へと名を変えたため、己も従った模様。
亭号を変えた後は、河内家芳江という女性とコンビを組んでやっていた。この芳江は、後年東京漫才となった桂三五郎・芳江の芳江だろうか。
1927年時点では、既に一枚看板だったと見えて、『上方落語史料集成』にも、
(七月)二十一日より
△南地花月 小円馬、福団治、清子、喬之助、紋十郎・五郎、円若、歌蝶・芝鶴、円馬、千橘、直造、春団治、文治郎、扇遊、染丸。
△北陽花月倶楽部 枝鶴、円太郎、清子・喬之助、蔵之助、扇遊、染丸、馬生、東湖・正武、大切余興「飛んだ間違ひ」。
△松島花月 塩鯛、おもちや、□枝、春団治、夏起雲、歌蝶・芝鶴、円馬、千橘、芳江・鶴春、蔵之助。
△天満花月 扇遊、蔵之助、しん蔵、染丸、一春・出羽助、小文枝、おもちや、つばめ・瓢箪、政夫・雁玉、直造、馬生。
△松屋町松竹座 千橘、金之助、直造、馬生、文次郎、升三、円太郎、円若、清子・喬之助、扇遊。
△福島延命館 小円太、花治、芳江・鶴春、嘉市・捨市、円若、花橘、セメンダル・小松月、とんぼ・雪江、納涼喜劇「借家怪談」。
△玉造三光館 つばめ・瓢箪、染三、小円馬、花橘、東湖・正武、塩鯛、芳江・鶴春、扇枝、小円太、歌蝶・芝鶴、円馬。
△京町堀京三倶楽部 花橘、文治郎、光鶴、扇遊、次郎・志乃武、小円太、嘉市・捨市、小文枝、升三、円太郎。
△新世界芦辺館 万歳安来節大会。
△千日前三友倶楽部 万歳安来節大会。
と、相応の所に出演している。以来、吉本系の劇場で活躍。早くから吉本の看板芸人として名を売った。
昭和一桁の人気はなかなかのものだったと見えて、『大衆芸能資料集成』掲載の桂喜代楽の芸談の中に、
そうそう、円辰入道とも東京で会ったことがあります。震災の翌年に、私は横浜の朝日座に出ていたんですが、大阪芸人のよしみで遊びに行ったんです。そのときは捨丸先生が一枚看板で、円辰入道は出羽助と同等に扱われて「なんでわしが出羽助と一緒や」とこぼしてました。出羽助は当時砂川捨次、河内家鶴春とならんで三羽鴉といわれた人気者ですが、捨丸の弟子の夢丸の弟子ですからおもしろくなかったんでしょう。
と言わしめている。
人気に乗じてレコード吹込みもしたそうで、岡田則夫氏の『続・蒐集奇談』を覗くと、
河内家鶴春は初代河内家芳春(※「笑魂系図」によると、玉子家円辰門下 大正十二年三十七歳の若さで死去)の門弟。レコードは少なく、ショウワレコード、「滑稽数え唄」「新旧問答・金問答」の2枚が判明している。わざとらしさがまったくない渋い芸で、私はこの人は名人クラスだと思う。レコードはたまにある
後年、「磯節くづし・鴨緑江節」というレコードを新たに発掘したそうで、3枚が現存している模様。吹き込みした時期は大体、昭和初年頃だそうである。
1932年頃、芳江とコンビを解消し、荒川歌江とコンビを組んだが、間もなく解散。橘家太郎門下の浜お龍と結婚し、夫婦漫才を結成した模様。この頃の足跡には、結構の謎が残る。
1938年、新興演芸部開設に伴い、吉本興業から移籍。吉本と新興の動乱に巻き込まれるが、特に大きな話題になる事もなく、移籍を果たした。
以降は、新興演芸部の中堅として活躍。京阪の大劇場に出演していた様子が、『近代歌舞伎年表』などからうかがえる。
1940年9月、『肥料』(9月号)に「軍国の秋」を掲載。当時の台本を見ると鶴春が基本ボケであるが、お龍が徹底的な男勝りの毒舌で、鶴春を威圧する――という女性優位漫才であった。
戦後はお龍とのコンビで戎橋松竹系の舞台に出ていたが、1950年代に別居し、鶴春は寝屋川に、お龍は大阪市に居を構える、という謎の生活を送っている。その背景には、お龍の独立、松葉家奴とのコンビでの活躍があったようであるが――
1958年3月、南座・中座で開催された「故初代ミス・ワカナ追善興行 漫才顔見世大会」の追悼口上に列席。砂川捨丸、都家文雄、花月亭九里丸、芦の家雁玉・林田十郎、玉松一郎、ミスワカサ・島ひろし、海乃ワカメ(ワカナ娘)と共に口上に出ている。
最晩年は吉本興業に所属し、「お龍・鶴春」の三味線漫才で出演していたというが、1960年代後半に一線を退き、消息不明となる。没した模様か。
お龍は独立し、藤浪扇太郎などとコンビを組んで、平成初頭まで活躍をつづけた。この人はまた別項を設ける。
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