喜利彦山人

上方漫才を彩った人々(仮)

和朗亭の記録 第41~60回

和朗亭は、1974年7月6日から1976年3月27日までの1年半、朝日放送で放映されていた演芸番組である。落語や諸芸への見識の深かった桂米朝が司会・席亭役となって、古い芸人や諸芸雑芸、時には自分も参加して古典落語を演じるなど、「古き時代の寄席」をモットーにした番組であった。その記録3である。
上方漫才を彩った人々(仮)

和朗亭の記録 第21~40回

和朗亭は、1974年7月6日から1976年3月27日までの1年半、朝日放送で放映されていた演芸番組である。落語や諸芸への見識の深かった桂米朝が司会・席亭役となって、古い芸人や諸芸雑芸、時には自分も参加して古典落語を演じるなど、「古き時代の寄席」をモットーにした番組であった。その記録2である。
上方漫才雑録

和朗亭の記録 第1~20回

和朗亭は、1974年7月6日から1976年3月27日までの1年半、朝日放送で放映されていた演芸番組である。落語や諸芸への見識の深かった桂米朝が司会・席亭役となって、古い芸人や諸芸雑芸、時には自分も参加して古典落語を演じるなど、「古き時代の寄席」をモットーにした番組であった。その記録1である。
上方漫才を彩った人々(仮)

河内家目玉・鶴江

河内家目玉・鶴江は戦前戦後活躍した漫才師。今日では北島三郎門下の演歌歌手・山口ひろみの祖父母というのが通りがいいだろうか。目玉は興行師としても知られた。娘は中堅漫才として活躍した加茂川ちどり・かもめ。
上方漫才を彩った人々(仮)

浮世わたる・とおる

浮世わたる・とおるは戦後活躍した漫才師。浮世わたるは浮世亭歌楽門下の古株漫才師で、とおるは、筑波武蔵門下の浪曲師出身。わたるは後年山崎正三門下に戻り、「山崎正伍」と改名。とおるは浪曲界へ戻り、「二代目筑波武蔵」を襲名。上方浪曲界の大御所として奮闘を続けた。
上方漫才を彩った人々(仮)

浮世亭夢丸

浮世亭夢丸は、戦前戦後活躍した漫才師。砂川捨丸の一番弟子として、長く捨丸一門を支え、また当人も「浮世亭家元」として君臨。弟の浮世亭歌楽と共に、浮世亭出羽助、浮世亭夢路、浮世亭夢若、浮世亭公園などの人気者を育て、漫才界随一の山脈を形成した。また、古典万歳や三曲萬歳の復活にも熱心であった。
上方漫才を彩った人々(仮)

タイヘイトリオ

タイヘイトリオは、夢路・洋児・糸路で結成された戦後の漫才トリオ。「ロマンショー」と称して、爆発的な人気を集めた。その人気と派手な舞台は「草木も生えぬ」と綽名された。タイヘイ夢路は、親分肌の持主で多くの若手や新人を囲い、「タイヘイ一門」を形成。ここから「レツゴ―三匹」「ザ・ぼんち」などが誕生した。
上方漫才を彩った人々(仮)

浜お龍

浜お龍は戦前戦後活躍した女流漫才師。長らく夫の河内家鶴春とコンビを組んでいた他、奇人で有名な松葉家奴、上方漫才の大御所、橘家太郎などとも漫才を組んでいた事もある。晩年は三味線を片手に女道楽風の漫談や音曲をやっており、貴重な芸風を留める存在として珍重された。
上方漫才を彩った人々(仮)

東文章・こま代

東文章・こま代は戦後活躍した夫婦漫才師。文章は芸歴が古く、元々は都家文雄門下の「都家文昭」と名乗った人物。こま代は、秋田民謡の一座の出身で、レビューの女優から漫才師になったという変わり種。師匠譲りの「ボヤキ漫才」を得意とし、主に映画を皮肉る独自の路線を開拓した。
上方漫才を彩った人々(仮)

橘家つばめ

橘家つばめは戦前戦後活躍した漫才師。活躍の場所は主に戦前、戦後はおはやし・下座として神戸松竹座を根城に活躍。怖い大御所として若手や新人へ睨みを利かせていたという。「橘家」の屋号通り、噺家の出身。西条凡児を漫才界に誘い、斡旋した一人――という意外な顔を持っている。

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