桂金之助
人 物
荒川 千成
・本 名 名村 越之助
・生没年 1888年~1963年5月1日
・出身地 大阪?
来 歴
漫才黎明期より活躍した軽口の芸人。長らく寄席に出て漫才の前身芸である軽口を演じていた。一時期桂花団治と組んでいたことがある。
前歴等は一切不明であるが、1920年代より寄席の広告に現れるようになる。相方の花団治(1897年10月7日生まれ)とほぼ同期か。
『藝能懇話』(18号)掲載の「忘年代演芸会番組・乱表 南地花月亭」なるリストの中に「桂家残月、松井源朝、桂扇枝、ジャンコウバリスキー、桂ざこば、海老一直造、三舛家舛三、三遊亭円遊、桂三輔、桂文治郎、橘家円好、桂金之助、三遊亭円若、桂雀輔、桂枝雀、桂花団治……」とあるのが確認できる。
当時、浮世節の寶集家金之助も大阪へ在住して出勤していたこともあり、「金之助」が重なって仕方ない。ただ、桂金之助は早くから吉本派閥に所属したようである。
1922年頃より、桂四郎坊とコンビを組み、「軽口」の一枚看板を掲げる。『上方落語史料集成』の7月の香盤を見ると――
◇吉本花月派 一日より各席へ亀鶴、紋右衛門、紋十郎、円若、枝太郎、雷門助六、旭勝一郎、小枝鶴、円歌、米団治、木鶴、枝右衛門、右之助、金之助、四郎坊、旭勝
1923年頃より神戸千代廼座に出勤。人気を集めた。
1924年には再び吉本の名門寄席に出演。一枚看板の色物として人気を集めた。資料は少ないが、広告などを見ると如何にも古風でクスグリの多い芝居仕立ての掛合を演じたようである。
1925年頃、一度吉本を寄席を離れ、独自の行動をしていた模様。ただし離脱はしていなかった。
1926年7月31日、名古屋放送局の『寄席の夕』に出演。
花いかだ 橘ノ圓都
掛合噺 桂四郎坊・金之助
浮世節 柳家雪江
昆布巻芝居 立花家花橘
その後は、四郎坊とのコンビを解消。漫才師になったらしく、噺家上がりの一風亭とんぷくとコンビを組んだ。
1928年5月1日から11日まで京都夷谷座で行われた漫才大会に出演している様子が確認できる。
「千代の家志の武・井筒家静枝、高田幸若・ 立花家秀若、井筒家文三・橘家秀丸、千代の家蝶丸・千代の家登美子、桂金之助・一風亭トンプク、三遊亭福助・ニコ〳〵家繁丸、河内家力太郎・河内家十郎、東家小谷・林家染二、長瀬春千代・花廼家菊春、鶴家団丸・鶴賀貴蝶、柳家五楽・柳家豆子、井筒家円蝶・吉田国丸、三遊亭柳枝・花廼家豊子」
ただ、このコンビは長く続かず、金之助は吉本に戻り、桂花次とコンビを結成。1928年夏ごろより「軽口」と称して高座に戻るようになった。
その後も1930年頃まで吉本で重宝されている様子が確認できるが、間もなく吉本を退社したらしく、香盤から姿が見えなくなる。
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