玉子家政夫
人 物
玉子家 政夫
・本 名 ??
・生没年 ??~??
・出身地 ??
来 歴
玉子家政夫は戦前活躍した漫才師。玉子家円辰の門下で、立派な顎髭と大島紬を改良して作った洋服をトレードマークにして、舞台に立った。駆け出し時代の芦乃家雁玉とコンビを組んでいた事もある。
出身・前歴等は不明。ただ漫才師としては古く、大正一桁には押しも押されぬ大看板であったという。円辰が全盛だった明治末の弟子ではなかろうか。
当初は同門の菅原家千代丸とコンビを組み、端席や松島の萬歳席で活躍。円辰の改良萬歳を受け継いだ――諸芸尽くしを見せる漫才だったという。
1922年1月には、早くもレコード吹込みを行っており、公声レコードから『三曲萬歳(千両幟)・お笑ひ』を発売。相方の千代丸と、やはり同業者の曾我の家満樂の三人で吹き込むという変則な型。
翌月2月にも同じメンバー、会社から『数え唄(大津名所)』を発表している。
同年6月、千代丸とのコンビで公声から『数え唄(安来節)』。
この頃には既に大看板だったようで、落語席や吉本にも出入りしていた。『上方漫才八百年史』『大衆芸能資料集成』に出ている、1922年9月の漫才師の中に、菅原家千代丸と共に採録されており、
荒川金時・芳丸 芦ノ家雁玉・玉子家春夫 玉子家政夫・菅原家千代丸 浮世亭清・出羽助
とある。この頃、千代丸が横山エンタツとコンビを組むために、一旦解消したようであるが、関東大震災を受けて、エンタツが重傷を負ったため、再び元へ戻っている。
1924年4月、東亜レコードから『数え唄』を発売。
同年7月、東亜から『謎かけ・りん廻し』。枚数こそ多くないが、当時の萬歳を偲ぶ貴重なレコードである。
この前後で千代丸と別れ、雁玉とコンビを組んで活躍。なかなか飄逸で面白い高座だったらしく、解消後に編まれた『柳屋』(36号)の若葉薫『萬歳繁盛記』の中に、
玉子屋政夫といふ肥った男の、飄逸な高座も、佳きもの、一つだ。
あの、ながい、おかしいヒゲを、なぜ剪つたか?
大島の背廣をなぜやめたか?
そして、雁玉と、もう一ど、なぜ、つるんで、でないか?!
と、その解消を惜しまれている。同冊子内で、正岡容は「雁玉・政夫」時代の高座を回顧し、
雁玉・政夫
春寒ひし秩父の山をみるごとし我が雁玉のひろき額は
雁玉の紫頭巾おもしろし御用太鼓にほとゝぎす鳴く
雁玉のかぞへ唄よな 水出しの幽靈がでるかぞへ唄よな
玉子屋の政夫絲瓜を諷ひかけふつと又止めるおもしろきか
櫻咲く國のキモノの背廣着て政夫はけふも唄諷ふなり
5首をしたためている。短いながらもその芸風をよく表しているといえよう。
昭和に入ると、吉本系の劇場に出入りするようになり、萬歳創成期の大御所として気を吐いた。『上方落語史料集成』を覗くと、
2月上席 △松屋町松竹座 円枝、繁千代、歌江・国之助、春団治、千橘、花菱家、今男・アチヤコ、円馬、おもちや、染丸、政夫・雁玉、馬生、一郎
4月中席 △芦辺館 芳丸・芳香、今男・アチヤコ、日佐丸・朝日、愛子・光晴、政夫・雁玉、嘉市・捨市、団丸・喜楽
7月下席 △天満花月 扇遊、蔵之助、しん蔵、染丸、一春・出羽助、小文枝、おもちや、つばめ・瓢箪、政夫・雁玉、直造、馬生
と相応な活躍をしている。
この頃の人気は中々なもので、1927年1月発行の『笑売往来』(第5号)に、
光月溌剌油のノリ切つたところ藤男軽妙、巧まずして妙当代太夫の第一人者。雁玉円熟、天才的持味あり。政夫老巧太夫としての完成品。志乃武新進切角奮励を望む。千代春早熟、素質良好前途有望。出羽助清新、工夫創作が頼もしい。喜楽愛嬌声を聴いて二度びつくり。チヤプリン高尚、ネタが古くて困る。芳春熱心、歌は迷惑なり。幸ヤン斬新、現代向萬歳師か。
とある。
人気があったものの、1927年末に雁玉とコンビを解消し、少年漫才の河内文春とコンビを結成。
1927年12月、大阪弁天座で行われた「全国萬歳座長大会」に出演している様子が、『吉本八十年史』などから伺える。以下はその出演者。
荒川芳丸・芳春 芦乃家雁玉・林田十郎、都家文雄・静代
玉子家弥太丸・浅田家日左丸 浮世亭夢丸・ 柳家雪江 荒川光月・藤男
浮世亭出羽助・河内家一春 日本チャップリン・梅乃家ウグイス
松鶴家団之助・浪花家市松 玉子家志乃武・山崎次郎 砂川捨市・曾我廼家嘉市
河内家文春・玉子家政夫 松葉家奴・荒川歌江 河内家芳春・二蝶
若松家正右衛門・小正 荒川芳若・芳勝 砂川菊丸・照子 宮川セメンダル・小松月
花房秋峰・出雲金蝶 桂金之助・花次 河内家瓢箪・平和ニコニコ
しかし、この文春とも長くはなく、翌年の初頭に解散。捨丸の高弟、砂川捨市とコンビを組む。
1928年9月上席の広告に、
△天満花月 光鶴、円枝、久春、楽春、五郎・紋十郎、政夫・捨市、小春団治、円若、勝太郎、一春、出羽助、福団治、小扇、クレバ、清子、喬之助、文治郎、呉成錬。
と、ある。この捨市とも長くは続かず、コンビ解消。捨市は吉本興業を去った――と、『落語系図』にある。
その後は、兄弟弟子の玉子家しの武と組んで、やっていた模様で、『落語系図』掲載の『昭和三年三月より昭和四年一月十日迄で 花月派吉本興行部専属萬歳連名』に「玉子家しの武・政夫」と出ているのが確認できる。
しかし、その直後に来る漫才ブームの波には乗り切れず、いつの間にか番組表や表舞台から消える。芸歴的なものを考えると没したのであろうか。
コメント