荒川千成

荒川千成・東みつ子(左)
人 物
荒川 千成
・本 名 名村 越之助
・生没年 1888年~1963年5月1日
・出身地 大阪?
来 歴
漫才黎明期より活躍した漫才師の大御所。鼓を持った古風な漫才であったが、漫才改良に着手し、荒川芳丸と共に「荒川」の一流を築いた。成田広三郎・もろ多玉枝、都家駒蔵などはこの人の弟子である。
花月亭九里丸の「笑根系図」には「明治21年生まれ」とある。本名は手元にある関西演芸協会名簿より割り出した。
前歴は謎が多いが、落語家の二代目桂小文枝の弟子で「桂枝香」と名乗っていたという。
1910年代に荒川浅丸に入門。「荒川千成」と名乗り漫才師となる。
当時のメジャースタイルであった鼓と張り扇を使う万歳を得意としたが、漫才改良に影響されて、「羽織で高座に出る」「浪花節や芝居などわかりやすいネタを入れる」と漫才改良の立役者となった。
中でも浪花節の真似が得意で、「浪曲入り数え唄」「浪曲漫才」などレコードなどに吹き込んでいる。
漫才としてはフリーの立場で活動をしており、これという会社に入ることもなかったようである。全国の劇場と付き合いがあり、旅暮らしや余興だけで食っていけたという。
1921年4月、ニットーレコードより『三曲萬歳・忠臣蔵刃傷』を吹き込み。以来、レコードの方では相応の吹込みをしており、漫才レコードの先駆けの一人となった。
1922年9月、ニッポノホンより『浪花節入り数え唄』を吹き込み。
1923年12月、ニットーレコードより『法華経・無理問答』を吹き込み。
1924年1月、東亜レコードより『義士の数え唄』を吹き込み。
1924年8月、東亜レコードより『掛合問答・大津絵・都々逸』を吹き込み。
1925年6・7月、二月ぶっ通しで京都芦部館を借り、「千成会萬歳大会」を行っている。この頃、荒川千恵楽という女性を相方にし始めるようになった。
1926年2月、地球レコードより『塩原多助・越後獅子』『義士の数え唄』『槍さび・掛合歌問答』を吹き込み。
1926年4月、地球レコードより『江州道中・あほだら経・新博多節・成金節・ヨイショコイショ節』『滑稽浪花節・滑稽新磯節』を吹き込み。
1929年2月10日、JOBKに出演し『三曲万歳・節真似・鴨緑江節』を放送。千成、千恵楽、千代菊、千之助、末子、豊子、小宮次郎。
戦時中も「千成会」を率いて活躍。一枚看板で劇場に出るなど相応に人気はあった模様。
1940年頃、末の女弟子であった東みつ子と結婚。親子のような夫婦が出来上がった。後年はこのみつ子を相方にして高座に出ていた。ウィキペディアなどには「戦中戦後は舞台に出なかった」というがこれは嘘である。
戦争末期には四国へ疎開。ここで養女をもらい、東みつ子と共に後に連れて帰った。
戦後は関西演芸協会に所属して時折高座に出ていた。
東みつ子の娘さんのお話では「南ふく子さんと母とでトリオ漫才みたいな事やっておりました」とのことである。
戦後も巡業などで高座に出ていたが、61歳の時に中気で倒れ、舞台に立てなくなってしまった。
病後はみつ子とふく子が甲斐甲斐しく世話をしていたそうで、最晩年は寝たきりになった千成のすべての世話を見たという。
そのことは『大阪春秋 特集・新世界』(第88号 1997年9月19日号)掲載の、泉耿子「◎おおさかの女66 歌謡漫才 東みつ子さん」でも語られている。
「私が山王へ来ましたんは一八歳でした。芝居専門の石川興業社で先乗り(興行先に宣伝ビラを配ったり、芸人の宿の手配をする)をしてました。戦争中ちょっとの間、四国の高松へ疎開してましたが、二十一年高松で迎えた養女をつれて再び石炭箱一つで戻ってきてから、もうずうーっとここに住んでます。相方であり夫の荒川千成と一緒に生活してましたけど、主人と私は三〇歳ほど歳が違いましたから、主人が六一歳で中風で倒れた二十九年に引退興行をして、相方引退後、私は初代久丸さんの妹で元芸妓さんしてはった南ふく子さんと歌謡漫才コンビを組みました。二人の初舞台は新世界ジャンジャン横丁の温泉演芸場でした。そのころは松竹芸能社から出てましたが、仕事のない日は夜が明けたら、四、五軒の興業社に『おはようさん』いうて欠かさず挨拶に行きます。『主人病気ですねん』言うと『そうか、待っとり』言うて仕事をつくってくれました。当時は頭にリボン付けて舞台に立ってましたけど、仕事先でも次の仕事三本くらい拾って帰ってきました……」
1955年5月、引退興行を実施(笑根系図回答における当人の弁)。弟子達や漫才師、落語家が顔を並べたが当人は病気のために高座に上がれず、当人不在の中で引退の旨が語られたという。
その後は山王町の自宅で療養生活を送り、静かな余生を送っていた。
1963年5月1日、山王町の自宅において死去。臨終の際には元妻や弟子などが駆け付け、弟子や家族の涙と共に見送られたという。
この死は吉田留三郎の記事にも取り上げられ、吉田の『漫才太平記』で今も読むことができる。
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