東雲立子

東雲立子

 人 物

 東雲しののめ 立子たつこ
 ・本 名 北村 春子
 ・生没年 1921年3月23日~1996年6月21日
 ・出身地 京都府

 来 歴

 東雲立子は戦前~戦後活躍した女流漫才師。戦前は旦那の東雲立坊とコンビを組み、戦後は三味線コント、下座を経て、小松まこととのコンビで復活。最晩年は東みつ子とコンビを組んで、三味線歌謡漫才を展開。大須演芸場や巡業を中心に、平成まで活躍をつづけた。

 前歴等は判然としない。『日本演芸家名鑑』に「昭和15年 東雲立坊・東雲立子のコンビでデビュー、夫婦漫才として活躍」とある程度か。

 逆算をすると、19歳で初舞台という事になる。当然、それ以前から芸界には出入りをしていたのだろう。

 旦那で相方の東雲立坊は、古株の漫才師。東京の松鶴家千代若が1922年に入門して、「松鶴家千代一」といった時分には既に先輩だったというのだから古い。

 一時期であるが千代若とも組んでいた事がある。

 立子とは、20歳、30歳近い年の差のある夫婦だったのではないだろうか。

 戦後も一時期活躍していたらしいが、立坊は昭和20年代に死去。30代前後で未亡人になってしまった。

 その後はてんのじ村に引っ越し、団之助興行などを出入りする地方回りの芸人として活躍をしていた模様か。

 ただ「関西演芸協会」などに入っていないため、謎が多い。

 また、生計を立てるために得意の三味線を生かし、長らく角座のお囃子部屋で働いていたという。

 しかし、その角座も1980年代に閉館し、下座の出番もなくなってしまった。

 角座閉館前後に漫才に復帰して、後ろ面踊りの小松まこととコンビを結成。関西芸能親和協会に入会した。

 昭和末に小松が別の人とコンビを組む事となったためにコンビ解消。相方の吉田茂を喪い、ピンになっていた東みつ子とコンビを結成し、三味線漫才を展開する。

 地方寄席や大須演芸場を中心に活躍。アクこそ強いがしたたかで「万才」を思わせる芸達者な舞台で、観客を魅了した。時には南京玉すだれや浪花節を見せたというのだから引き出しが凄い。

 大須ではちょっとした人気者だったらしく、ちょくちょく出演をしている。

 流行歌『浪花小唄』の替歌にして、

 〽ちょいと出ました漫才コンビ 私一人のご人気を てなもんやないかないか道頓堀よ

 と歌うのが特徴であったという。関係者によると、威勢のいいみつ子がツッコミ、ヌーボーとした立子がボケであったという。

 1992年頃、思う所あって「五条清子」と改名している。理由は不明。

 平成初頭まで活躍していたが、間もなく立子は病気に倒れ、1996年に亡くなった。

『演芸連合62号』(1996年9月5日号)に、

◆更に淋しい事に平成八年六月二十一日天王寺村の生き字引と云われた東雲立子(四年程前、五条清子に改名)さんが七十六才で天国に旅立った。昭和十五年から夫婦漫才で三味線を持っての賑やかな舞台でした。

 残されたみつ子は東ひさしとコンビを組んで、後生を送ったという。

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