庭野千草・北斗七星

庭野千草・北斗七星

庭野千草時代の生恵幸子

 人 物

 庭野にわの 千草ちぐさ

 ・本 名 赤田 松子(後に比田幸子)
 ・生没年 1923年9月25日~2007年2月5日
 ・出身地 大阪市
崇禅寺

 北斗ほくと 七星しちせい

 ・本 名 赤田 ?
 ・生没年 1917年(逆算)~1952年
 ・出身地 ??

 来 歴

 庭野千草・北斗七星は、戦前・戦後活躍した夫婦漫才師。七星は若い頃のミヤコ蝶々とコンビを組んでいたことがある。庭野千草は、七星の死後、人生幸朗と再婚。生恵幸子と改名し、ボヤキ漫才「人生幸朗・生恵幸子」として一世を風靡した。

 その経歴は島崎恭子『芸人女房伝』に詳しい。『日本列島女たちの50年』の聞き書きもあるが、年齢的に若かった前者の方が信憑性が高いと思われる。以下はその二つを混ぜた略歴である。

 千草は、崇禅寺でうどん屋を営む両親の長女として生まれる。下に妹が二人いたという。叔母が漫才師だったこともあって、幼い頃から芸能が好きで、人前で歌ったり、踊ったりすることが好きな少女として育つ。

 両親に大切に育てられるが、4歳(5歳といっている資料もあるが、数え年か?)の時に父親が結核で夭折。この頃から、叔母の後ろをついていくようになったそうで、寄席や劇場を出入りする日々が続いた。

『日本列島女たちの50年』では「家におったら足手まといになるからいうて、叔母に連れられて行ってたんですよ、叔母の出てる劇場へ」と語っている。

 小学校に入ったものの、勉強は大の苦手で、話は芝居やお笑いばかり。通信簿に、「この子には点のつけようがない」と、匙を投げる様な事を書かれるほどであったという。

 一応高等小学校まで出たものの、勉強が嫌いだったために、卒業後すぐさま就職(学校もろくろく行かなかったせいか、漢字の読み書きが苦手であったという)。就職先は、大好きだった寄席の一つ、「天満座」であった。

 ここでお茶子見習いとして、1年半ほど奉公するが、叔母の相方が徴兵されてしまったために、14歳の時に、叔母のピンチヒッターという形で漫才師としてデビュー。

 初舞台は九条の吉野館という小屋で、幼い頃に見聞したネタで何とかごまかしたという。お客はこの小さな漫才師を気に入ったとか、一番しか知らない「九段の母」を何回もアンコールして、千草を困らせたという逸話が残っている。 

 一方、『日本列島女たちの50年』の聞き書きでは、「尋常小学校に通いながら、工場に奉公に出る。」とある。

 父が死に、バイトのような形で学問と労働を兼業でさせられ(せざるを得なかった)、卒業後に正式にお茶子――そして漫才師になったとみるべきだろうか。

 漫才師に転向後、2年ばかり、地方巡業に出て、様々な一座を渡り歩いた。漫才だけでなく、女優や歌手もやった事があるそうで、これが後年の武器となった。

 ただ、音痴だったのは生涯治らず、後年ネタにされるほどであったが、上岡龍太郎がその音痴の原因を尋ねようとしたら、「昔歌手だった」と言われ、何も言えなくなってしまったという話を『米朝上岡が語る昭和漫才』の中で披露している。

 16歳の時、北斗七星と結婚。相手は当時22歳、インテリ芸人として注目されていたという。結婚の顛末が『芸人女房伝』に出ているので引用。

 幸子さんの初めての結婚は、十六歳のときだった。相手は二十二歳になるやはり芸人で、芸名を北斗七星といった。エンタツ師匠が可愛がっていたインテリ青年だった。二人にどんなロマンスがあったのか。
「おかしいでしょ、知らん間にふと気がついたら男の人と一緒に寝てるんです。家にまったく男の人いなかったから、 男の人がそんな怖い存在だなんて、うち、知りませんもんね。だから未だに色気ない。恋だの好いたの、知りませんもん。女として可哀想ですね。だからうちのお父さん気の毒ですね」  
 それでも、式は挙げている。名前は忘れてしまったが、どこかの芸場で叔母と興行師が立ち合って、三々九度をくみ交わしている。 「向こうさんも、ただ若さで女の子が欲しかったんやないですか」

 淡々と語っているが、中々生々しい。

 北斗七星の経歴は謎が多いが、生恵幸子『帰ってきた”ぼやき”漫才』、ミヤコ蝶々『女ひとり』などを見ると、当時としては珍しく上の学校まで行ったが、音楽が好きで芸人になったという変わり種。アコーディオンが得意であったという。

 結婚後、「庭野千草」と名乗り、夫婦漫才「北斗七星・庭野千草」を結成。芸名の由来は、唱歌『庭の千草も虫の音も』の『庭の千草』であろう。

 以来、夫と巡業や端席で活躍。しかし、時代は戦争に向かっており、夫が演奏するアコーディオンが、「敵国の楽器」と批判され、憲兵や検閲官に大目玉を食らう――理不尽な経験も随分したという。

 1941年2月頃、岡山県の郷土会の依頼を受けて、郷土慰問へ出発。満州の地を巡業、兵隊の笑顔や舞台の楽しさを知る一方で、兵隊の苦労や日本兵・ロシア兵の死骸の山を直面し、戦争の悲惨さを目の当たりにすることとなった。

 その若さと美貌から将校に惚れられ、結婚を申し込まれた逸話もあったという(縁談はすべて叔母が断った)。

 もっとも千草当人は、一連の戦争に対し、批判も肯定もせず、ただただ思い出として語るのにとどまった。

 1942年2月1日、長男・英彦誕生。嫡男の誕生に周囲はひどく喜んだというが、この頃はまだ貧乏漫才師で、臨月直前まで舞台に立たねばならず、出産後も乳飲み子を抱えての巡業――という生活を送っていた。

 年端もいかぬ娘にとって、この育児と漫才生活の兼業は想像を絶する苦労だったと見えて、『芸人女房伝』では、

昭和十七年二月に長男を産むが、 出産間ぎわまで舞台に立っていた。 子供の格好をして舞台に上がると、「あ、 お腹大きいわ」と客席から声が聞こえたこともある。出産後、生まれたばかりの子供を連れて巡業へ行ったときのことだ。雪の散らつく富士山麓の劇場で、おしめを洗おうとポンプをくんでいると「前の川で洗うもんや」と声が飛んできた。 川の水は、骨身にしみた。 

 と語り、『日本列島女たちの50年』でも、

――そやけど、生まれたばかりの赤ちゃんを連れて、でしょう?

生恵 うん。辛かったのは、富士山の裾野のほうに興行に行ったんですよね。朝起きたら一番にオムツ洗って、おコタの上にキツー絞って乗せて、次の場所に行って、もう一回 干して、子どものオムツ乾かすんです。富士山のすそ野に行ったときに、井戸の前に小川が流れてるんですよね。そしたら「その小川で洗いなさい」って言うんですよ。井戸の隅のほうで洗おうとしてたのに、ポンプだしてね。それがいけないっていうんです。そのときだけは辛いなって思いましたね。雪解けの水が流れてるんですもの。冷たかったー、そのときは、あれは一九やったんかな。

 と語っているが、相当大変だったのだろう。

 この頃、再びさる界隈から頼まれて、朝鮮半島へ軍事慰問に出かける。この時、英彦を母に預け、夫婦漫才で外地に出かけたそうであるが、別れの時に、英彦があまりにも泣き喚くので、堪えるのが大変だったという。以下は『日本列島女たちの50年』の一節。

いや、ありました、ありました。一回、朝鮮興行に行くので、子どもを預けていったんですね、私の母親のところへ。で、子どもを預けていって、船に乗って釜山に渡るときに、船で子どもが泣いてるんですよね、夜ね。そしてああ可哀相にな、うちの子も今頃泣いてるの違うかなと思うと、それは辛かったですね。だから、ずっと船内を廻って歩きましたもの、おっぱい飲ませてあげようと思って。

ーーよその赤ちゃんにですか

生恵 うん、そうですよ。昔の人ってみんなそうやなかったですか。自分の子だけ守ろうと思うんじゃなくして、泣いてる子があったら飲ましてあげようと思って、飲ましてきはったんと違います? 私、ほんまにあの船の中で一晩中廻りましたものね。これは記憶にありますわ。ああ、うちの子は今頃泣いてへんかな、どうしてるんかな、お母さんのとこに置いてきたけど、その記憶で、ずっとおっぱい飲ませて廻りましたね。

 この巡業中に、英彦が百日咳をこじらせ、仰臥。仕事を終え、飛んで帰ってきた二人であったが、すでに病状は最悪の所まで悪化しており、手の尽くしようがなかったという。『日本列島女たちの50年』の中で、その死についてを語っている。

生恵 それが、二月の一日にできて、一年おって、九月の一日に死んでるんです。

――なんでですか?

生恵 百日咳だったと聞いてます、原因は。母親がいうのには、百日咳をこじらしたって言ってましたけどね。

――あ、巡業にでてらっしゃるときに亡くなったんですか。

生恵 ううん、あの、ちょうど帰ってきてましてね、そのときに、だから私は子どもの死に水はとってます。昔、子どもの百日咳といったら厄でしたもんね。

――その英彦さんは初めてのお子さんなわけですよね。そのお子さんが一年でお亡くなりになるって……

生恵 可哀相だったですよ。可哀相だったですよ。あの子、なにかしたら、縁側におりました。私の母親が夕方になって、お粥を炊いてるんですよね。そして縁側で座って待ってるんです、お母さんがお粥を炊いてるのをね。それを私がこっちで見てるんですよね。 そやからか、亡くなってからそれが、胸から離れませんのよね、しばらくはね。だから私もおんなじように、子どもがいなくなってから、その縁側でボサーッと座ってるときがよくありましたそうです。母親が私に「何をしとんのや」と声を掛けるとフッと気がついて。子どもが座って、お婆さんがお粥炊いてるの待ってたもんだから、私もおんなじように縁側に座って待ってた記憶はありますね。

 1943年9月1日、英彦が1歳で亡くなる。この時は、貧困に戦時中という事情もあって、葬儀が出来ず、自転車に亡骸を乗せて焼き場へ行き、荼毘をした――という話を『日本列島女たちの50年』の中で語っている。

 この時、おなかの中に女の子を授かっており、英彦とすれ違うように生れたという。

 千草は、純子を身ごもったため、産休に入った。その間、北斗七星はミヤコ蝶々とコンビを組むことになった、という。ミヤコ蝶々の斡旋で、吉本興業に入り、ついでに千草も吉本興業へ入社する事となる。

 11月、娘誕生。この娘は「純子」と名付けられ、同じく苦労を重ねたが、無事に大きくなり、後年、再婚した人生幸朗に溺愛された。今もご健在――という噂を聞くが、どんなものだろうか。

  吉本に入り、漫才師として売りだそうとしたのもつかの間、1944年の春に、七星へ召集令状が届き、鹿児島へ出兵。臨時コンビで続投を試みたものの、劇場も慰問先も次々と焼きだされ、また老母、妹二人、娘を養うためにも漫才ばかりしている訳には行かず、肉体労働や内職などなんでもやったという。

 1945年、大阪大空襲に罹災。千草は家族の手を引いて、命からがら逃げだしたものの、家も家財も皆焼いてしまったという。この時の命がけの経験は、彼女に凄まじい度胸をつけさせることとなったそうで、『芸人女房伝』の中で、

「何しろ焼け出されましたからね。そのときのこと記憶にあるんです。防空壕入ったものの、なんかとってこなあかんと外へ出たら、煙が出てた。焼夷弾やった。うち、夢中で二つほど抜いたんやけど、結局は焼けてしもた。それから、自分がぼんやりしてたらあかんと、パーンと性格が強くなりましたね。特にロが強くなった。だから、みんな怖がって寄ってきません。今でも、けんかなんか怖くない。怖いのは、お父さんと鉄砲の玉と天皇陛下だけ」

 と、正直に告白している。

 同年8月、終戦を迎える――が、七星は帰還せず、生活難は相変わらずだったそうで、「日雇も焼跡の片づけも買い出しも」なんでもやったそうな。

 1946年春、武装解除となった七星が帰還。再び漫才師として、舞台に立つようになる。戦後は劇場のほとんどが焼け、舞台復旧もままならなかったところから、地方巡業や歌謡ショーの前座などで、お金を稼いでいたという。

 戦後の芸能特需のおかげで、少しは余裕が出来たそうで、七星・千草夫妻は西成の芸人賭博によく顔を出していたという。千草が『芸人女房伝』で語ったところによると、

 「どうにかこうにか食べることはできました。暇なときには、次の仕事欲しいから仲間たちが集まる西成の山王町寄るでしょ。そしたら博打してますやんか。私も、アグラ組んでハチマキ巻いて、男そっちのけでやってました」
 博打に夢中になった夫が、舞台衣裳を質屋に入れてしまったのは、この頃だ。舞台衣裳といっても何枚もあるわけではない。夜通し博打をしたあとの翌朝、質屋へ出向いた幸子さんは「すまんけどこれと替えて。仕事から帰ってきたら返すから」とスルスルと帯を解いたものだった。

 それからしばらくして、戎橋松竹が落成し、寄席も徐々に復活。当時の仲間たちに誘われる形で、寄席や劇場に出演できるようになった。

 この頃の舞台の様子が、『主婦の友』(1951年9月号)掲載の『東西評判寄席めぐりお笑い演芸大会』に残っているので引用。

戎橋松竹(大阪)
=十郎雁玉と庭の千草、北斗七星の漫才=

 青い灯、赤い灯、道頓堀の、川面にチラ/\恋の灯が映り始める頃になると、夕涼みのおつさん、心ウキ/\の素敵なアベック、ブラウスにスカートに下駄ばきのおいえはん、いろとりどりのお客が顔の紐をすつかりほどいてしもて、ふらり、ふらりと入つて来る。
 合ばやしの三味と太鼓が、負けん気に鳴り渡つているうち、輝き出でたる北斗七星、庭の千草の御両人。

七星『あ、誰かと思えば……誰や。』
千草『あたしですの。』
七星『誰かと思えば、三和銀行の頭取の、友達の芋屋の娘か。(笑声)ところで喜んでくなはれ、わて今度大学を卒業しましてん。』
千草『まあ、お目出とうございます。で、どこの大学出やはつたん?』
七星『六大学。』
千草『六大学の中の、どこを出やはつたん?』
七星『分らん人やな、この人は。だから、六大学という大学を卒業したと言うてるやないかいな。そこで歴史を研究しました。歴史のことなら、わてに任しといてください。絶好の茶箪笥やがな。さあ、わてにお聞きなさい。』
千草『たのもしいわね。じや、あの、児島高徳が、桜の木に何やらいう詩を書かはつたやろ。』
七星『児島はんいうたら、あんたとこへ督促によう来る、税務署の……』
千草『心やすう言いはんな。あの、天こうせんを……のおっさんやないかいな。』
七星『さうやがな、歴史のことはわてに任しといてください。天こうせんを空しゆうするなかれ、各員一そう奮励努力せよ。』
千草『まあ、よう知つてはりますねんな。』
七星『歴史上のことなら、任しといてください。』
千草『東海のウ、小島の磯の白砂にィ……』
七星『われ、かにと戯れて手をはさまる。石川五右衛門の名作でんがな。』

 スマートな男女コンビで注目を集めたというが、この雑誌掲載の栄誉から時経たずして、北斗七星は病に倒れ、35歳の若さで死去。肝臓病だったという。

 生恵幸子曰く、死因は「戦争中に飲んだ悪いお酒がもとで肝臓を悪してもうたんですね」であったという。メチルアルコールやカストリといった粗悪酒の被害者だったのだろうか。

 北斗七星の死後、千草は安来節出身の澤田茂子と臨時コンビを組む。しかし、上手くいかずに解散。

 1953年の名簿を見ると「八重野千草」と名乗っている。

 漫才師としては売れず、幼子を抱えて、日雇い労働や手内職をしているときに、松鶴家団治に誘われ、人生幸朗と出会う。

 人生幸朗とコンビを組み、更に結婚。「人生幸朗・生恵幸子」と改める。

 なお、この結婚の前後で、本名の「松子」を「幸子」と変えている。故に、後年の名簿では皆、「比田幸子」名義になっているものが多い。改名の理由は知らないが、『芸人女房伝』に、「三十一歳で幸子に改名」とあるので、それに従った。

 実子に夫の不幸が続き、一念発起の為に変えたのだろうか。なお、戸籍までは変わってないと見えて、訃報では「赤田松子」名義になっている。よくわからないものである。

 人生幸朗・生恵幸子に関しては別項を立てます。

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