東洋小勝

東洋小勝

東洋小勝

 人 物

 東洋とうよう 小勝こかつ
 ・本 名 安部 守夫
 ・生没年 1911年12月15日~没
 ・出身地 福岡県 福岡市

 来 歴

 戦前戦後活躍した曲芸師。非常に小柄な人であったが曲芸の名手として知られ、曲芸の少ない上方漫才界においては異色の存在であった。晩年は大須演芸場を主軸に活躍を続けていた。

 生年と出身地は『日本演芸家名鑑』から割り出した。

 某所に、戦前の16歳の頃に『チャップリンのそっくりさんコンテスト』で優勝して芸界入りし、後に奇術師に転身――とあるが、これの出典は不明。

 さらに、相羽秋夫『現代上方演芸人名鑑』に「昭一〇年奇術の松旭斎昌広の門下」とあるがこれも出典がわからない。相羽さんが小勝から聞いたのだろうか。

『日本演芸家名鑑』では「昭和10年 東洋一郎曲芸師に入門」とあるが、『笑根系図』では東洋一郎の弟子「東洋勝久門下」となっている。

 当人があまり過去を話すタチではなかった――というので話は迷走をしている。一方、奇術をこなしたのは事実であり、元が奇術師であったというのは流れとして自然であろう。

 戦前、東洋勝久に入門し、太神楽曲芸を厳しく仕込まれた。後に独立し、「三代目東洋小勝」を襲名。

 一方、独立して間もなく戦争の勃発で曲芸どころの騒ぎではなくなり、一時的に廃業をしていた時期もあったという。

 戦後、西成区――てんのじ村の住人となり、松鶴家團之助轟一声の仕事を請け負うようになる。良くも悪くも余興の仕事が多く、大劇場に出演することは少なかった。

 一方、芸達者では定評があり、バチと鞠、一つ鞠、ボールの取り分け、土瓶の曲芸などといった太神楽の技や『胡蝶の舞』といった奇術をこなしたという。

 太神楽と手妻を得意とした一人であるが、当人は洋服姿で高座に出た。如何にも小柄で、男とも女ともつかぬ独特の風貌で知られた。

 1961年2月1日公開の『河内風土記 おいろけ説法』に「小男(おりんの情人)」として出演。怪しい風貌を全開に怪演している。

 1973年、山崎正三たちについて、「関西芸能親和会」に移籍。

 1980年代に入って松鶴家團之助などが没し、てんのじ村全体が不況に陥ると大須演芸場へ移籍。同座の専属的な扱いを受けて高座に上がった。

 この生活は平成以降も続いた。後年は一種の名物人間と見なされていたようで、三遊亭圓丈の『悲しみの大須』にも出て来る。

「客にしゃべっているのか独り言なのかわからない話芸」「しかも突然笑いだす」「半分ボケていて、目が進んでいるんです、手が震えるんです、腰がもう安定しないんです」と散々いじられている。

 1990年、三遊亭圓丈が久方ぶりに大須演芸場を訪れ、ビデオを撮っている。これは圓丈家に残されているはずである。

 圓丈は「80になって辞めた」というような旨を語っているが、実際はそうではなかった模様。

 雷門獅篭『ご勝手名人録 寄席を仰天させた12人の破天荒者たち』の中で取り上げられている大須演芸場の名物従業員・姫が「1993年に大須へ入社した際、初めて接したのが小勝さんだった」という旨がある。

 さらに平成の資料をいくつかみると、90近くなるまで大須演芸場に出演していた模様。

 長らくてんのじ村に本宅があったが、2010年代にはすでに空き家となり、今は取り壊されてしまったはずである。

コメント

You cannot copy content of this page

タイトルとURLをコピーしました