保田春雄
保田春雄
奇術を実演する保田(右端)
人 物
保田 春雄
・本 名 保田 春雄
・生没年 1911年5月3日~1974年
・出身地 大阪市
来 歴
保田春雄は戦後活躍した奇術師・腹話術師。吉本興業や東宝の文芸部社員からプロの奇術師になったという稀有な経歴の持ち主であった。「ドラゴン魔術團」なる一座を率いて大阪奇術界においてセンセーショナルな人気を獲得。また若手の育成にも熱心でジョージ多田、一陽斎蝶一、木村フクジなどを輩出した。
経歴は『大阪紳士録 第1版』に詳しく出ていた。
保田春雄 明治44・5・3生
芸能人、魔術と腹話術、 ドラゴン魔術団主宰 出・大阪市西区立売堀南通六ノ一 学・日本大学芸術科学部演劇学専攻卒 家・妻千鶴子大正8・8・18生、長女ソノ子昭和24・1・2生 歴・吉本興業文芸部を経て東宝、 日本劇場文芸部より現在に至る 趣・映画、演劇、音楽 宗・禅宗 親・松本万次郎・叔父 (泉屋銅管(株)社長)、田辺とき子・叔母(府下羽衣在住)
叔父の松本万次郎は戦前戦後の大阪を代表する鋼商だったそうで、一時は大阪市議会議員も勤めていた。万次郎の父は松本清吉というこれまた豪商で、「松本商会」なる会社を作りその道で成功した人である。この系図から行くと春雄は松本清吉の孫ということとなる。
親・親族共にエリートだったこともあり、家は比較的裕福だったという。学生時代より奇術や演劇を学ぶだけのゆとりがあった点を見ても明白であろう。
青年時代より大阪きっての奇術愛好家として知られていた木村マリニーの家に出入りし、奇術の手ほどきを受けたという。その関係から「木村マリニーの弟子」とも書かれることがある(笑根系図など)。
旧制今宮中学卒業後、上京して日本大学芸術学部に入学。演劇やレビューを学んで帰って来たという。その傍らで奇術の研究にも励み、20代にして既にいっぱしのアマチュア奇術師として知られていた。
大学卒業後の1935年、吉本興業の文芸部に入社。吉田留三郎とは同期だったそうで、吉田は『漫才太平記』の中で「私と彼は同じ町に住み吉本の文芸部でも机を並べた間柄」ともいう。
1936年1月26日、大阪三越で行われた『大阪母の會』に列席。アマチュアながら奇術を披露している。『母と子』(1936年3月号)に「保田春雄氏の素人とは思へぬ鮮やかな奇術」という批評が出ている。
同年3月13日、金曜倶楽部ホールにおいて開催された「金曜倶楽部第138回談話会」に列席。「魔術縦横談」と題して講演をおこなっている(『臨床歯科』1936年5月号)。この頃より奇術師として頭角を現していたといえるだろう。
1937年12月、築地小劇場の流れを汲む芸術小劇場の立ち上げに関与。12月2日より築地小劇場で行われた『椿姫』に「手品を使ふ客」として出演。
また「演技課」としても籍を置いていたらしく、『新劇年代記 戦中編』でその名前を見出すことができる。ただ、これは長く続かずすぐ脱退した模様。
1939年には秋田実主宰の「漫才道場」に携わり、講師として設立にかかわった。吉田留三郎『漫才太平記』の中に――「講師には長沖一、保田春雄氏ら、文学士がずらり、正式名の道場には過ぎたような顔ぶれであった。」とある。
戦時中、東宝文芸部に移籍。理由は不明。新興演芸部vs吉本興業の「引き抜き戦争」で関係者(秋田実や吉田留三郎)が吉本をやめたのも大きいのだろうか。
さらに日劇文芸部に移籍し、ここで終戦を迎えたという。
戦後は日劇文芸部に勤務していたが、古巣の吉本は事実上の解散。東宝も劇場を接収されるなど冷遇の時代を送った。その中で日劇の支配人・秦豊吉から「舞台人になったらどうだ」と勧められ、芸人となった。
1946年8月13日、大阪八千代座の「美ち奴と中野弘子の蝶々座」に出勤。「唄う腹話術」と題して出演したのが大劇場での初舞台だろうか。
当初は奇術ではなく腹話術師として売り出した。岸本水府主宰の川柳誌『番傘』(1949年4月号)に、腹話術師として駆け出しの頃の保田春雄の姿が描写されている。
三月の會 新鮮・復話人形あらはる
天狗が出る! 番傘の三月例會。驚く事ありません。題に「天狗」が出るといふ譚。場は大阪一の盛り場で、然も静かな洋室、披講がよく通って理想的の會場です。春の一タを皆さんの佳吟あふれる番傘式の名會にして下さい。――これがこの月の案内状だった。三月九日夜、戎橋筋オメガハウスに集るもの八十名。ところがここに幹事も期せぬ 菊人君配慮の、復話術の白い人形が現れた。復話術(ヴェントリ・ロクイズム)はアメリカから来た文化藝能の一つ、人間が抱いゐてる人形と問答をする、人形がものいふ時人間が言ってみると見せぬ術である。まさに 天狗の術であつた。KOK藝能集團主宰保田春雄氏の妙洒脱な話術に場内ユーモア横溢。
また、進駐軍慰問などでも活躍。奇術のアマチュアコンクールなどの審査員などをしていたそうで、その頃誘った弟子の一人が一陽斎蝶一。
1949年1月、娘のソノ子が誕生。
1952年、大阪梅田劇場において奇術グループ「保田春雄とドラゴン魔術團」を結成。『舞台奇術ハイライト』では「昭和二十五年、辰年に因んで結成」とあるが、これは間違い(1952年が辰年)。
ドラゴン魔術團には妻の千鶴子をはじめ、ジョージ多田などが参加し、大魔術を公演したという。
1954年3月7日より10日間、大阪北野劇場「北野オンパレード」に出演。爾来、各地で大魔術公演を行い、人気を博した。
十八番は夫人を箱に入れて剣を次々と刺していく「美女と剣と箱」、トランクの中から脱出する「幻のトランク」、骸骨を操る「踊るガイコツ」など、大掛かりなものを得意とした。
一方、マリニー譲りのテーブルマジックも得意で、「紙幣とタバコ」、「トランプの取り分け」「不思議なロープ」などを演じた。
1955年3月28日、NHK「お好み風流亭」に出演。「人形の家」なる演目を披露している。
1957年6月10日、NHK「お好み風流亭」に出演。「初夏の幻想」なる演目を披露。
この頃より千日劇場、角座や浪花座などの大劇場へ出勤。派手な奇術で関西人の度肝を抜いたという。東西を忙しく飛び回る日々を送った。
1958年1月22日、NHK「テレビ木馬館」に出演。「マジック・ショー」 と題して大奇術を演じている。
同年4月23日、NHK「テレビ木馬館」に出演。
同年12月上席、角座に初出演。
同年12月22日、NHK「お好み風流亭」に出演。
1959年5月25日、NHK「お好み風流亭」に出演。
12月28日、NHK「お好み風流亭」に出演。
1960年代に入ると大劇場出勤のみならず、テレビや芝居にも出演。また、キャバレー全盛期ということもあり、キャバレーの仕事も多くこなしたという。
しかし、1960年代後半に体調不良やなんやらで舞台から距離を置くようになった。その後、しばらく静養の後に復活。
相変らず寄席やキャバレーで活躍し、ドラゴン魔術団の名声をほしいままにした。
1969年2月8日、NHK「土曜ひる席」に出演。
しかし、1970年代に入ると再び体調を崩したそうで、折角の実力を持ちながらもついに飛躍することはなかった。
『上方演芸人名鑑』によると、1974年に没したとの由。
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