松鶴家團之助
晩年の団之助
人 物
松鶴家 團之助
・本 名 藤野 貞一郎
・生没年 1899年~1979年10月16日
・出身地 兵庫県 神戸市
来 歴
戦前は吉本系の漫才で、戦後は天王寺村の顔役として活躍した一人。難波利三『てんのじ村』などにそのモデルらしき人物が出るなど、戦後、関西芸能界の顔役として知られた。
この団之助に仕事をあっせんしてもらった人に、島ひろし・ミスワカサ、ミヤコ蝶々、夢路いとし・喜味こいしなど大勢いる。
出身は、兵庫県神戸市。然し、大阪生れという説もある。『女性セブン』(1969年4月16日号)掲載の『お笑い天王寺村村長松鶴屋団之助(70歳)一代記』に、その聞き書きが詳しく出ている。
わてでっか? わても旅芸人のなれのはてですわ。
神戸生まれの大阪育ち。15の年で踊りをならい、17歳で大阪の演芸一座『日の丸会』 の下働き。19歳で、浪曲の宮川金丸に弟子入りしましたん や。 はいってじきに師匠から、 “谷風の少年時代”いうネタを教えてもろて、丹波市(奈良県橿原市)の劇場が初舞台や。土建屋をやってたおやじが、紫の立派なテーブル 掛けを贈ってくれましてな。師匠のより立派やった。でもな、中身の浪曲のほうは、さっぱりワヤでしたんや 。
自分で浪曲の才能に見切りをつけ、地方まわりの鶴屋団十郎一座へ。ここで大阪仁輪加(大阪の喜劇芝居)をやってたら、漫才の松鶴屋千代八さんから、「東京で漫才に、ひと組アナがあいたというてきた。どや、一緒にやらんか」いわれて、漫才に転向や。大正12年の震災前でしたな。
このときの給料が30円。2~3年後には、250円にあがってた。学校出のサラリーマンが、月給40円ぐらいのころや。ええ金とってたもんやな。
震災でまた大阪へ逆戻り。 そこで見合結婚したもんの、 3年後には、当時の一座にいた華井秀子(山崎政子一座で三味線を弾いていた)にホレ込んでかけおちや。……へえ、いまの女房だす。
大正15年8月5日。わて、 漫才師では始めて、NHKのラジオに出てまんのや。出演料30円。ハイヤーで送り迎え。豪勢なもんでしたな。
女房と一緒に、吉本興業に はいり、もっぱら地方まわり。終戦後までつづけました。
一方、朝倉俊博『流民烈伝風のなかの旅人たち』では、
松鶴家団之助さん、七十三歳。浪花芸人横丁のご隠居さんである。
明治三十二年に大阪の玉造に生れ、十五歳で浪曲師宮川金丸の弟子になり、大和路を三年間、これひとつしか語れない“谷風梶之助の少年時代”をうなってまわった。
「あまりのへたくそに、自分であいそがつきて」大阪にわかの松鶴家団蔵の弟子になったのが大正五年だった。
この大阪にわかの一座には、十人ぐらいの人がいて、ボテカツラという紙で作ったカツラをかぶり、 歌舞伎のパロディーから浄瑠璃までなんでもやった。
昔の漫才というのは、歌と踊りに物まね芝居、それにおしゃべりと、なんでもやったのだ。というより、なんでもできなきゃ漫才ではなかった。現在のようにシャベクリ漫才になったのは、 エンタツ・アチャコが出た昭和七年ごろからなのだ。
なんでも漫才の元祖は、玉子屋円辰という行商の玉子売りだったというからおもしろい。円辰が出たのが明治の末、だったというから、浪花漫才の歴史はあんがい新しいのである。 大正七年に、にわかから漫才師になって、やめたのが昭和の三十三年。 およそ四十年にわたる漫才人生だった。 大正七年から五年間は、大阪天満の吉川館で漫才七組の一座の座長として活躍した。松鶴家団之助、花の青年時代であった。
とあり、若干齟齬が出ている。『女性セブン』の方は、数え年で換算している模様か。
当初は浪曲師であったが、すぐに辞めて、大阪にわかの鶴家団蔵に入門。鶴家団之助と名乗る。
この鶴家団蔵は、大阪にわかの中興の祖、初代鶴家團十郎の弟子で、團十郎亡き後は、兄弟子の二代目團十郎に附いていたという。
因みに、鶴家團十郎の由来は、大阪歌舞伎の大看板、市川右団次の実家のお茶屋「鶴屋」と、市川宗家の市川團十郎を組み合わせたもの。
しばらく大阪にわかの一座で修業をしていたが、松鶴家千代八に誘われる形で、1918年頃、漫才に転向。松鶴家團之助と改名する。
『大衆芸能資料集成第七巻』の聞書きに、
――団之助さんと万才とのかかわりは?
団之助 大正七、八年からです。当時は夜席だけで、三、四組の万才前に「前叩き」「カッポレ」「アイナラエ」をやり「喜劇」でハネました。「前叩き」は一座の中堅どころの持ち場で、見台かそれがなければッケ板を大きな拍子木でカチャカチャ叩きながら旅ネタをやりました。次に一座の顔見世に「カッポレ」。表によう聞こえるよう大声でやりました。「それからもっと賑やかに鉦、三味線、太鼓、胡弓……ある楽器全部動員して「アイナラエ」だす。段もの一段やると三十分程かかります。誰でも知ってるさかい「三段目」をようやりました。そうして、「段ものは止めおきまして何かお笑いやってみましょうかな、アイナラェー」って、一口噺、かぞえ歌、終いはなぞかけで結びました。これ全部ひっくるめて「アイナラエ」「三曲万才」いいまんね。 ここまでで一時間位ですわ。
とある。『流民烈伝風のなかの旅人たち』に、
「大正七年から五年間は、大阪天満の吉川館で漫才七組の一座の座長として活躍した。松鶴家団之助、 花の青年時代であった。」
とあるように、当初は端席で漫才をやり、腕を磨いたようである。
その後、東西交流ブームの波に乗り、上京。安来節に混ざって万歳に出たり、喜劇に出ていたりしたという。
1923年8月31日、浅草遊楽館を打ち上げ、七軒町の開盛座へと移動。夜通し吉原で遊び、朝帰りをして遅寝をしている所へ、関東大震災に遭遇。幸い大きな被害には遭わなかったものの、東京が壊滅状態に陥った為、帰阪。
この頃、見合い結婚をして、所帯を持ったが、安来節・山崎政子一座にいた三味線弾き、金田秀子と相思相愛の中になり、駆け落ち。このまま結婚してしまったというのだから、あきれる。
この秀子は、團之助にとって最良の伴侶だったと見えて、死ぬまで生涯寄り添った。
1926年11月、千歳家今男とコンビを結成し、吉本興業に入社。『流民烈伝風のなかの旅人たち』に、
大正十五年の十一月、団之助さんは当時日の出の勢いの吉本興業にはいることになる。昼夜二回、 一日四回の興行だからたまったものではない。漫才はもちろん自作自演、マンガ本や日常のバカ話からネタをひろって作るのだが、芸妓や幇間と遊ぶのがなによりも勉強になったという。
とあり、『大衆芸能資料集成』には、
――団之助さんが吉本にお入りになったのは?
団之助 千歳家今男と組んで大八会から大正十五年に入りました。万才は安来節一座に買われてそのつなぎに三組四組とやったんで安来節大流行の波にのって震災前あたりに流行り始め、昭和のはじめには随分盛んになってました。私も震災の時は安来節一座で東京にいてました。浅草遊楽館をうちあげ七軒町の開盛座に荷物を移し楽屋に寝た翌朝、眼を覚まししなにグラッときたんです。七軒町やったんで小屋も潰れず火事もまぬがれ、全員揃って大阪に戻れたんですが、浅草やったら大変だした。
とある。
『上方落語史料集成』をみると、1927年2月中席、
△新京極芦辺館 万歳大会。日出子・一蝶、おもちや、五郎、慶司、チヤプリン・ウグヒス、東湖・正武、歌江・団之助、嘉市・捨市、秀千代・秀夫
とあり、今男から、荒川歌江へとコンビを変えた模様。
また、1927年12月、弁天座で行われた漫才大会では浪花家市松とコンビを組んで出演している。
さらに、1928年頃には山崎次郎へとコンビを変え、1932年頃には河内家一春とコンビを組み変えている。当時はコンビ解散・結成は日常茶飯事だったので、別に珍しい事ではない。
因みに「女房と組むとモテない」という理由で妻の華井秀子とは正式にコンビを組まなかった(但しレコード吹込みはしている)。
1937年、坂本ボテ丸とコンビを結成。このコンビで、吉本全盛期の大劇場に出演している。
1945年8月、広島県下を巡業中、6日の朝、原爆に遭遇。團之助使いに出て、街にいなかった妻・秀子は奇跡的に助かったが、それ以外の座員は圧死や原爆症で無残な死を遂げたという。
前述の、朝倉俊博『流民烈伝風のなかの旅人たち』 の中に、
昭和二十年八月、松鶴家団之助一座は広島を巡業していた。
歌謡曲、漫才、踊りの一座二十二人のうち、原爆でたすかったのは、団之助さんと使いに出ていたオカミさんの金田秀子さんだけだったのである。宿屋の下敷きになって苦しんでいた三人を助けるのがせいいっぱいだったという団之助さんの首すじには、まだケロイドが少し残っている。その三人も間もなくなくなり、一座はほぼ全滅してしまったのである。
と、簡潔ながら生々しい顛末が記されている。同じく原爆の被害にあったものに、市川歌志がいる。
生き残った團之助夫妻は、命からがら逃げだして、天王寺村へと戻る。そこで原爆症に苦しみながら、巡業に出かけ、日々の生活を成り立たせる悲惨な生活を送った。
戦後まもなく焼き出された芸人たちが天王寺村に住み着くようになり、多くの芸人たちが團之助夫妻を頼りにするようになる。
この頃、千歳家歳男とコンビを組み、「カバ漫才」なる独特の漫才を開拓。ネタ数は多くなかったものの、歳男のカバ顔と団之助の話術が大受けで、舞台で困ることはなかったという。
その内容が、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』に出ているので引用する。
米朝 それから千歳家歳男・松鶴家団之助の歳男はんのカバ。あれは一緒に旅(巡業のこと)を廻ったンで、毎日同じネタを一回ないし二回は聞くからね、もうだいたい覚えてしもたけどね、あの人は二つぐらいしかネタがなかった。
上岡 昔は十日間ぐらい旅を廻るから、楽屋で聞いているとネタって自然と覚えるもンですよね。
米朝 勝手に覚えてしまうな。団之助はん、出るなりなァ、「この間、天王寺の動物園の園長は んに会うたらなァ……」というて、いきなりそんなとっから入る。「そんならね、むこうにね、カバがいてンねや。これがメスのカバで、まァ、人間でいうたらちょうど十九か二十歳ぐらいの年頃なんや」「ほーう、ええ年頃やな」「そうや、むこうは婿はんを探してるちゅうンでな」「えッ、カバの婿はん?」「サァ、で、まァ、天王寺の動物園やさかい、それで新しい小屋も建ちかけてンね や」「ふーん」「鉄筋コンクリートでなァ、何ちゅうたって大阪市が付いてンねやさかい食う心配は ない。先々病気になったって、ちゃんと獣医はんが見てくれンねん」「ほーん」「このさい、君もよう考えなイカンで」(笑)。「何を考えなイカンねん!」。それでトリネタは、団之助はんが歌をうたうと、カバはんが洋服を着たままで踊る。「ちょっと舞のケがあるンやな」「私は何でも踊る」。それでほかの歌をうたうねンけど同じ手や(笑)。「私は何をやってもね、こっちをこう見て、それから反対をこう向いて、それで、こうこうこうやって(と振りつけを見せながら)。それで首をふったら歌と合う」「何でも」「何でもそれで合うンや」。それでほかの歌でもちゃんと合う。最後に天理教の「悪しきを払うて助けたまえ……」、それにもちゃんと合う(笑)。楽屋から大太鼓をドンドンと入れてね、今の文枝君なんかよう太鼓を打たされてた。
1951年9月11日、154回『上方演芸会』に出演し、歳男と共にカバ漫才を披露。共演者は、暁伸・南アキ子(ミスハワイ)、夢路いとし・喜味こいし。このテープは現存し、澤田隆治氏がNHKラジオ名人寄席で流した事がある他、NHKライブラリーで聞くことが出来る。
幸い團之助夫妻の原爆症も軽症で済み、1954年頃より、芸人の斡旋業をはじめるようになる。
1958年、芸人業から一線を退き、演芸会社経営にシフトチェンジ。但し、完全に引退したわけではなく、声がかかれば出た他、妻の秀子は八千代とのコンビで、達者なところを見せていた。
1960年代の高度経済成長期に乗じて、多くの芸人を斡旋。この人に世話になって、仕事を得ていた人も多い。また、関西演芸親和協会や関西演芸協会の参与としても名を列ね、ご意見番としても活躍。
1971年4月5日、NHK『新日本紀行』で天王寺村が取り上げられ、團之助も主要人物として大きく取り上げられた。
1975年7月12日、「第五十三回 和朗亭」に出演。古老の浮世亭夢丸、浮世亭出羽助、本田恵一、玉木貞子、小松まことなどと共に『あいならえ』を披露。この回は現存している。
1975年8月19日、郵便貯金会館で、『三曲万歳』を披露。出演者は、
鼓・団之助、華井八千代、浮世亭夢丸
三味線・玉木貞子、小松まこと、花柳かつこ、華井秀子
胡弓・浮世亭出羽助
鳴り物・本田恵一
以下、辻脇保夫『てんのじ村の芸人さん』の記録。
1976年11月28日、上京し、虎ノ門ホールでにわか「三方笑」を披露。團七九郎兵衛が、浮世亭歌楽、与市兵衛が一輪亭花咲、団之助は沼津の平作であった。
1977年11月、てんのじ村記念碑除幕式に列席。この時、久方ぶりに東五九童が顔を出し、ちょっとした話題となった。
1979年10月16日、80歳で没。その死は団之助を慕っていた朝日新聞記者・加藤千洋によって明かされた。『上方芸能64号』(1980年1月号)の行事の中に、
☆十一月五日 多くの人が知らなかった。てんのじ村”村長”格であった松鶴家団之助さんの死を。たまたまブラリと取材中の朝日新聞社会部の加藤千洋記者が団之助さんの話を聞こうと家に立ち寄って死去されたことが判った。十月十六日未明、山王一丁目の自宅で心筋こうそくのため、八十才であった。
追善をこめて、その没年月日は『大衆芸能資料集成』に記載された。
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