巴家寅子
巴家寅子
曲弾きを披露する巴家寅子と妻・小染
人物
人 物
巴家 寅子
・本 名 小俣 寅吉
・生没年 1886年4月26日~1954年春
・出身地 東京?
来 歴
正確に言えば漫才師ではなく「茶番師」であるが、長らく漫才界に関与し続けた事から採録した。今日では、今いくよ・くるよの師匠、今喜多代の師匠として知られている。
戦前戦後にかけて「滑稽掛合」「茶番」「八人藝」といった諸芸雑芸で人気を集めた。「寅子」という名前であるが、れっきとした男性である。この名前のせいで女性に間違われるトラブルが度々あったという。
関東半分、関西半分という複雑な活躍故に、「東京漫才のすべて」とどちらに採録しようか悩んだが、関西の記述の方が多くなったため、こちらに記すことにした。
寅子の前歴
出身は東京らしい。「らしい」というのは確証が得られないからである。父親が山梨の人なので、山梨生れ東京育ちの可能性は高い。
一方、『富士』(1932年新年特大号)の芸人プロフィールには「明治16年東京生れ」とある。生年も違う。どうなっているのだろうか。
父親の小俣長二郎(長吉?)は、山梨県出身で、厚木太神楽の親分。古くから山梨一体の興行を担っていたという。元は厚木太神楽の家元株・木村幸太夫の元から出たらしい。
下記の『芸人名簿』では、「登茂澤春五郎 小俣長吉 嘉永2年2月6日生まれ」となっているのはどんなもんであろうか。
ただ、『日刊ラヂオ新聞』(1926年5月13日号)に「今では退いてゐるがお化役を十八番とした中島春五郎さんが親父で」とある所から、「長吉=長二郎」、同一人物で間違いないと推測している。
またここから寅子の生年も導き出した。
父・長二郎は長く親方を勤めていたが、厚木太神楽一派との対立があったらしく、後年絶縁に至っている。その背景には、寅子を東京に送り出したことや、雑芸に身を染めたことがあるらしいが、真相は不明。
数少ない資料として、芸能研究家の永井啓夫が『新劇』(1978年6月号)掲載の『マリとバチ「いろもの」の空間』の中で、
神奈川県藤沢市から厚木市に移った厚木太神楽の当主七代目木村幸太夫(嶋本清友)氏の話によると、大正期に東京で活躍した人気者巴家寅子は、厚木系の出身だという。実父小俣長二郎は山梨県の出身で厚木社中で親方格だったが、息子の寅吉こと芸名寅子が東京に引き抜かれ、浅草十二階を中心に太神楽曲芸で人気をあつめた。寅子という大スターを東京に送り出したことと、その後の厚木の太神楽が東京と絶縁し衰退に傾いたこととはけっして無関係ではあるまい。
と、記すばかりである。
9歳の時に、東京へ来ていた義太夫の竹本隅太夫に入門。「住太夫」という記載もあり、ややこしい事この上ない。ただ、「隅太夫」も「住太夫」とも両人実在した太夫である。
弟子に入って、「竹本住興太夫」と名乗る。この名前は、初代大隅太夫門下に存在した名前であった模様。『富士』(1932年新年特大号)の芸人プロフィールによると、14歳の時に大阪へ上り、本場で喉を鍛えたという。
この太夫時代に、皇后の天覧演奏会に出演する機会があり、「紀伊國」を語る機会があったという。『読売新聞』(1926年7月2日号)に、
そして二昔前には上野美術学校で先代皇后陛下の御前演奏の栄を賜はつた名誉の人である。その時は端唄の「紀伊ノ國」を義太夫でやつたのである。
ただ、これがいつの頃なのか漠然としてはっきりしない。天覧は明治30年・37年にあったと記憶するが、ここに出演したかどうか。
しかし、17歳の時に隅太夫に死なれ、指針を失ったことにより、太神楽へ戻る(住太夫は1909年没なのでつじつまが合わない)。『読売新聞』(1926年7月2日号)には、
九つの年から義太夫を唸つて十七の時に師匠の隅太夫が死んでからグレ出して色物へ入つた寅吉さん
とある。しかし、グレ出して、とは大層な言い方である。
太神楽で人気があった初代海老一海老蔵の身内となり、再び稽古を開始。元が義太夫語りだけあってか、声がよく、早くから頭角を現すようになった。
そんな所からか、正岡容は『異版 浅草灯籠』で、「この梅子と云ひ海老一分派の巴家寅子と云ひ、」と書いている。
芸人・巴家寅子
1907年、巴家寅子となる。しかし、この辺りの名前の変遷は一筋縄ではいかない。まず、『日刊ラヂオ新聞』(1926年5月13日号)掲載の経歴。
巴家寅子さんは竹本住太夫さんのもと弟子で住興さんと名乗つてゐたが明治四十一年巴家寅子と名を變て、滑稽脱線義太夫を専門に、今では退いてゐるがお化役を十八番とした中島春五郎さんが親父で、大正十二年には布哇へ巡業してホノルルなどでは非常に評判された相である。
しかし、『都新聞』(1913年10月22日号)掲載の『太神楽生活(海老一へ入門の記)』では、海老一海老蔵一家の話を述べた上で、「早い話が別派になつた巴家虎興さんみたいものですから私も思ひ切りましたよ」と記している。この名前だけ見ると義太夫時代に貰った「興」を大切にしていたように思えるのであるよ。
そして、前に挙げた『芸人名簿』では、「登茂澤寅興 小俣長吉」とある。なんでこんな名前になったのかは知らんよ。
少なくとも「登茂澤寅興」は一時的な名前だったと見えて、すぐに巴家に戻している。その後、正式に「巴家寅子」を定着させた模様か。
1917年にはすでに「巴家寅子」とはっきり名乗っていた模様で、同年12月16日の『大阪時事新報』掲載の『○寄席取締り =私服臨検で厳重な処分=』に、
寄席の芸人や活動写真館の弁士などが臨監席に警官の姿が見えないと舞台に於て羽目を外していかゞはしい事を饒舌つたり随分危険な言語を弄することがあるので、正服巡査ばかりの臨場では不可ぬとあつて這回(このたび)南署では特に私服巡査を客席に交らせてこれが取締りを厳重にすることゝなつた。そんな事情を知らぬ処から臨監席を横目に睨みながら随分と猥褻な言葉をつかふ芸人がある。翌朝寝耳に水で警察署へ呼び出されて一々猥褻な言葉を指摘されてさん〴〵お眼玉を喰つた上に科料に処せられるのが昨今続々とある。楽天地の日華殿に出演する音曲曲芸喜劇の巴家寅子一座中の寅家小直が一円八十銭の科料を取られたのを始めとし、落語定席の紅梅亭では円枝と花橘、同じく花月亭では菊枝に文昇、同三友倶楽部では染三なんぞ多数であつて、科料処分が重なれば営業停止にまでする方針ださうな
とあるのが目立つ。以来、寄席に出入りをして、色物として活躍した他、浅草の十二階劇場やその周辺の小屋を根城に、太神楽曲芸と茶番を展開。一躍浅草の有名人となった。
1921年3月より、大阪へ上り、三友派の寄席に出演。『上方落語史料集成』に、
十一日より各席へ東京茶番巴家寅子一派、丸一小仙一行が出演。
4月も引き続き出演し、
一日より各席へ江戸茶番巴家寅子一派、音曲はなし橘の円如、東京落語柳家つばめが出演。
この時の感想が、『上方落語史料集成』に掲載されている。一応断っておくと、当方はこの情報を元に原文を読んでいます。
出典は『京都日出新聞』(4月10、14日)『京都日日新聞・大阪毎日新聞京都滋賀付録』(4月13日号)。
◇芦辺館 十一日より江戸生粋音曲茶番巴家寅子一行にて開演。一座は寅子の外松之助、小奴、壽郎、小染、愛之助、金太郎等なりと。(京都日出4・10)
◇巴家寅子を聴く 十一日から芦辺館に出演した巴家寅子一行の江戸生ツ粋と云ふ音曲を聴く。…舞台は寅子、松太郎、小奴の三人で、寅子は得意の咽喉に見物をヤンヤと云はせる。殊に義太夫、琵琶、浪花節を、太の三味線を使つて器用に弾き語りをした「ふきよせ」には満場水を打つた様に耳を澄ました。松太郎の曲芸も亦頗る垢抜けのしたもの。舞台上の四十分間は、寸分の隙もなく、次から次へと息をもつかせぬ面白さ、…。(京都日日)
◇芦辺館にて久々の寅子一行 久し振に芦辺館を覗く。春雨の加減かそれとも呼物の江戸生粋巴家寅子のお目通りが人気に叶ふてか、花時にも拘らず却々の大入。恰度東京噺川柳の「名人奉行」から聴く。普通のものには多少癖のある此人も斯うした人情噺にかけては流石に堪まらない味があつた。シンミリと聴かしたは嬉しい。次は愈々巴家一行。…寅子の吹寄せは例に依り洗練し切つたもの。次から次と江戸茶番の所謂生粋味を紹介する、…程好い所で又明晩と切上げるなど却て面白く軽快な点が気に入つた。此後三八は純上方落語で、又トリの蔵之助は一流の渋味ある話振でそれぞれの持味を出していた。(鯉)(京都日出4・14)
◇巴家寅子を見る 泥鰌すくいが京阪で全盛なら八木節が東京で人気がある。共に泥臭くて肥桶臭くて重苦しく、田舎趣味が都会を覆うて了ふ当世に巴家寅子の音曲茶番は可なり珍重してもよいものだ。洒落気と機知が縦横に閃いて、さうして取り止めのないのが取柄だが、小田大炊と安宅郷右衛門の紅葉狩のだんまり茶番なんか今の新京極の見物にはかなり無理なものと思ふが、ソコは今後手加減が肝要と釈迦に説法件の如し。(滋賀付録)
芦辺館を一月打ち通すことになった模様で、偶然ではあるが四代目桂文三襲名披露にも出演する運びとなった。
5月も同様に三友派の寄席に出演。大阪にやって来ていた東京の同業者たちと『江戸っ兒会』なるものを作り、それを看板に興行した模様。
6月は神戸千代之座に呼ばれ、同座に出演。出演者は、
當る六月一日毎夕五時開演
特別大興行 大阪落語大一座桂家残月 三升家紋右衛門 常盤津文字栄 桐家福助 立花家喬之助 東洋一郎 菅旭勝 桂扇枝 露の五郎 立花家千橘
今回大喜利として紋右衛門得意の若柳流所作事▽三社祭▽勢獅子▽釣り女△風流深川踊り清元連中常盤津連出演全員総出大道具にて御高覧に供し候 樋口興行部
當ル六月一日より午後五時開演
(新加入出演者) 三友派幹部三遊亭圓子 東京講談界大家小金井蘆洲 江戸生粋巴家寅子一行 新開地千代之座 外各席連夜出演
6月で一旦切り上げ、帰京。懐かしの寄席や浅草の劇場に出演――と思いきや、10月に再び関西へ上り、神戸千代之座に出演。出演者は、
新開地千代之座/當ル十月一日より午後五時開演
特別大演芸會/正調安来節松江お糸一行 浄るり音曲英国人ハレー 民国人夏雲起一行 大魔術ウワンダー正光 江戸生粋音曲巴家寅子 落語舞桂三木助
その後も、ずっと千代之座を中心に打ち通していた模様で、1922年元旦の広告に、
◇千代之座 出演者は春輔、圓都、染五郎、小半、歌路、正楽、圓瓢、おかめわかめ、寅子、三木助、圓馬
とある。
2月も同地にとどまり、なんと掛け持ち。
2月15日 神戸新聞
◇千代廼座 今十五日より従来の三木助、寅子等が新加入して三友派幹部の立花家花橘、橘家蔵之助が出演し、尚大喜利余興には信濃家小半、桂三木助が乗合船を踊って賑やかに打ち出す。2月17日 神戸新聞
◇生田前戎座 本日よりの出番替 梅喬、吉太郎、歌路、三蔵、梅團冶、三枝、三木助、蔵之助、春輔、小半、美代吉、正楽、寅子一行、圓都、花橘
3月も千代之座と三友派の寄席に出演。大阪生活が長かったせいか、『落語系図』の色物欄に、「巴家寅子」と入れられたりしている。
4月も、「巴家寅子は好評の為、引続き出演すべしと」という理由で、千代之座に出演。長く神戸では人気があったと見える。
4月後半に、神戸を抜け、香川へ巡業に来た金原亭馬生一座に入団。この馬生は、五代目馬生――通称、おもちゃの馬生であろう。『香川新報』(5月1日号)に、
<金原亭馬生一座・高松大和座>
◇大和座 一日より東京落語音曲舞踊名人若手選択抜花形揃にて花々しく開演す。演芸種目及び登場者左の通り。落語(桂梅喬)笑話(金原亭三次)落語舞(三遊亭三枝)落語手踊(五明楼春輔)現代落語音曲手踊(桂歌路)落語百面相(柳亭小はん)江戸生粋の滑稽音曲掛合(巴家小奴、同小染、同寅子)人情噺(金原亭馬生)大切巴家一派独特の珍芸。
何を考えたのか、馬生一座はそのまま朝鮮へ渡ってしまい、同地の劇場で興行を開いた。『京城日報』(5月14日号)に、
<金原亭馬生一行・朝鮮浪花館>
浪花館/お待兼の東京落語音曲舞踊名人會来る/音曲界の名人巴家寅子 鯛次、梅香、三枝、春輔、歌路、小はん、巴家小奴、同小染、同寅子、金原亭馬生 外十二名大一座/當る五月十四日より
さらに、27日には福岡へ戻り、同地の川丈座に出演。昔の芸人の旅暮らしはつくづく感心するものがある。『九州日報』(5月27日号)によると、
今晩より江戸生粋演芸/音曲珍芸界人気者巴家寅子一派 東京落語の重鎮金原亭馬生/川丈座◇川丈座(博多)
東京落語界の重鎮金原亭馬生一行は、前人気旺盛裡に愈々今廿七日午後六時より開演する。今初日の重なる番組は左の如くである。
稽古屋(春輔)替り目(小はん)源平穴探し(歌路)滑稽義太夫(寅子)村松薪割(馬生)塩原□別れ(巴家連)
6月、関西に戻り、大阪及び京都の三友派の寄席に出演。
8月、千代之座に出演。『上方落語史料集成』に、
◇千代廼座 一日より納涼興行として左記の如く出演。
桑五郎、歌路、圓都、春輔、小半、正楽、女道楽、吉奴、妻奴、文の家かしく、三遊亭圓馬、巴家寅子、大切座員総出滑稽「玄冶店」
11月、南地花月「第一回舌戦得点会」に出演。『芸能懇話』(8号)に詳しい情報が出ている。
若手中堅の芸人、桂扇枝、立花家花橘、桂塩鯛、桂文治郎、笑福亭枝鶴、橘家勝太郎の六人を舞台に出して、観客に投票をしてもらって点数を競うコンクールのようなものだったらしい(優勝は文治郎)。
11月中席より、大阪で独自の活躍を遂げていた同僚の海老一鉄五郎と手を組み「寅子・鉄五郎一座」を結成。
この鉄五郎という人は、東京で活躍した初代・海老一海老蔵(峯田菊吉)の実の弟で、後年兄から独立して大阪へ行った。
今も大阪の寄席に出ている海老一鈴娘も、元をたどるとこの人に行き当たる。昭和~平成に活躍した染之助・染太郎とはまた別の系譜である(染之助・染太郎は海老蔵の孫弟子)。
『芸能懇話』(18号)にこのビラと解説が出ている。
太神楽曲芸界に覇を競ひし両花形の提携は、昔を今に返り咲き、間髪を入れざる意気の投合は、得意の人滑稽は愈抱腹絶倒
巴家寅子 海老一三郎 海老一鉄童 海老一小鉄 海老一鉄五郎
東都声色歌舞伎会柳亭春楽 講談界の寵児神田伯龍
出番順 落語鯛六 落語里鶴 落語小雀 奇術正一 落語盆と玉円坊 音曲手をどりやの治 大正笑話文雀 剣舞天地・景山 落語舞桃太郎 身体曲技夏雲起 落語文団治 太神楽音曲曲芸寅子・鉄五郎 講談伯龍 落語舞勝太郎 声色春楽 新講談残月 落語枝鶴 曲独楽源朝法善寺境内南地花月亭 吉本興行部 電話南四三八番・四一一九番
その活躍は、太神楽の復権と目されたと見えて、『大阪毎日新聞』(11月12日号)に、
復活せる権威ある太神楽 当派幹部連総出演の外新に……
皆様お待ち下さいました、此花形合同に拠り海老一一座を復活させました、寅子が懸命の撥冴せえ、鉄五郎が洒脱せる滑稽と舞踊と相挨つて近頃に無き興味ある一座で御座います。
巴家寅子・海老一鉄五郎合同一座
本月の交代連として講談界の寵児 神田伯龍當十一月十一日夜ヨリ 毎夕五時開演 南地花月亭
宣伝の為に特に普通の入場料 金五十銭
同年12月、紅梅亭に出演し、合同一座で人気を集めた。
1923年1月、松島花月と南地花月に出演。
同年3月、操り人形の結城孫三郎や声色の成駒家栄三郎などと合同。しばらくこの面子で行動する。『上方落語史料集成』に、
一日より南地花月に海老一鉄五郎、巴家寅子合同一座が出演。
十一日より北陽花月亭、紅梅亭外各席へ糸操り人形結城孫三郎一座、桂文楽、成駒家栄三郎、紀伊国家一翁が出演。
十八日正午より南地花月亭にて結城孫三郎一座、海老一鉄五郎、海老蔵、巴家寅子、桂文楽にて特芸会を開催。
4月、京都へ移動し、笑福亭で興行。
一日より笑福亭へ富貴にて高評を博した海老一海老造、巴家寅子、海老一鉄五郎三人合併一座が出演。明後三日は昼席正午十二時開演。
大好評を博したのち、合同公演を解散。海老一は当地に残り、寅子は帰京を兼ねて、名古屋へと出かける事となった。『名古屋新聞』(6月1日号)に、
<立花家花橘一行・名古屋七寶館>
◇七寶館の落語 本日より開演の落語は達者揃いで、その顔ぶれは、ツバメのレコードで評判を取り居る立花家花橘を始め、当地の人気者信濃家小半、神田小伯山、橘家圓好、桂枝右衛門、松井源朝等の大一座へ巴家寅子を加えて、大切には大道具大仕掛の怪談話しを御覧に入れると。
名古屋を打ち通した後、関係者と別れて帰京。久々の東京で凱旋を行い、意気揚々と寄席出演をつづけていた、が――9月1日、関東大震災に遭遇。
未曽有の地震を受け、命からがら逃げだした。
『日布時事』(10月28日号)によると、被災後、日比谷公園へ行き、被災者の心を慰めんと同園で無料の演芸会を催し、賞賛された――という美談が掲載されている。
巴家、ハワイへ行く
震災後まもなく(それ以前から?)ハワイの興行主、松尾精一に連れられ、ハワイ巡業へ出かける。
震災直後、交通も復興もままならぬ中でのハワイ行は、相当の覚悟であっただろうが、妻や弟子を従えて、大洋丸に乗船。
『日布時事』(10月25日号)に、
芸人寅子一行來布
松尾精一氏が大洋丸で連れ来る廿七日午後四時當地入港の太洋丸にて松尾精一氏が帰布してゐるが氏は寅子一行の藝人八名を引連れて帰布中の旨昨夜當地に入電があつた
と記されている。到着後、移民局の調べを受けた後に、ハワイ・オアフ島はホノルルに上陸。同市の旭劇場に出演する事となった。
以下は『日布時事』(10月29日号)に掲載された番組。
巴家寅子一座
明後日より旭劇場に於て開演する一昨日の大洋丸にて來布した 巴家寅子一座は愈々明後水曜日天長節を初日として旭劇場にて開演する事となつた。一行は寅子の他に六人であるが曲弾、義太夫、長唄其他種々の催しをやると云ふので非常な前景氣だ。初日のプログラムを記載すると次の通り
△江戸生粋『月見座頭』
巴家連中總出
△曲藝『五階萬燈』
巴家巴
巴家松太郎
△脱線義太夫『野崎村』
巴家寅子
連引 巴家小染
△巴滑稽『吹寄せ』
巴家樂屋總出
△花籠の曲
巴家金太郎
後見 巴家愛之助
△長唄五段返し
巴家寅子
舞 巴家小染
△大切『親兒獅子』
親獅子 巴家金太
兒獅子 巴家小奴
大太鼓 巴家松太郎
調 巴家愛之助
三味線 巴家小染
笛 巴家寅子
鐘 巴家巴
達者な芸とバランスの取れたチームワーク、それと震災の中はるばるとハワイに来た同情心や応援もあったお陰か、初日から大成功をおさめた模様で、入れない客が続出するほどであったという。
『日布時事』(11月1日号)の中に、
江戸生粋巴家寅子一座の初日は豫定通り昨夜六時半から旭劇場に於て開演されたが開演約半時間前既に大入満員の盛況を呈した。一座総出の『月見座頭』を初め曲藝『五階茶碗』寅子独特の『脱線義太夫』楽屋総出の『巴滑稽』寅子の長唄『五段返し』に小染の舞など、何れも滑稽さに満場の見物人を笑はせ、或は其の出来ばえに屡喝采を博した。斯くて大切り『親兒獅子』に目出度く初日の幕を閉じたが兎に角初日の人気は最近興業界に於けるレコード破りであった。尚ほ今晩のプログラムは左の通り
△芝居『うつり木』
巴家樂屋總出
△曲藝『大盤の曲』
巴家金太郎
後見 巴家松太郎
△寅子独特「滑稽義太夫」(三十三間堂)
巴家寅子
連引 巴家小染
△巴滑稽『吹寄せ』
巴家樂屋総出
△曲藝『刃物五人の曲』
巴家金太郎
巴家愛之助
巴家松太郎
巴家巴
巴家小奴
△長唄『五段返し』
巴家寅子
巴家小染
△笑劇『弥次郎兵衛喜太八』
(宮城野おのぶ廓の場)
おのぶ 巴家愛之助
弥次郎兵衛 巴家松太郎
名 主 巴家小奴
義太夫語り 巴家寅子
馬 子 巴家小奴
同 巴家巴
三味線 巴家小染
11月3日、旭劇場の千秋楽。基本的には松太郎が曲芸の「一つ鞠」や「五階万燈」、寅子が「滑稽義太夫」と「吹き寄せ」、最後に「大喜利」がつくというものを手を変え品を変えやっていた模様。芸の引き出しは多かった模様なので、枯渇する事はなかっただろう。
11月8日、パワー劇場で5日間の予定で、次いで東本願寺の劇場で興行を打つことになったが、ダブルブッキングのせいか、パワー劇場は2日興行で終わった。
11月18日、秋季遥拝大祭の余興として呼ばれ、ハワイ金毘羅神宮で演芸を行う。
11月19日、船に乗ってハワイ島へ移動。ヒロシティへと向かう。
11月20日、ヒロで3日興行。その後は、日系人の耕地や職場を中心に巡業をつづけ、中々手堅くやっていた模様。
11月31日、オーラア九哩(現・ケアアウ)の劇場で公演。
その後、マウイ島へ移動。1924年の新年は当地で迎える事となった。
1月1、2日はマウイのワイルク劇場へ出演。3日はカフルイ劇場へと移動し、新春興行を行った。
その後も劇場を替えながら、大当たりをとり続けた模様で、『マウイ新聞』(1月7日号)に「場席なくして入場料を支払つたまま帰宅せし人々の多い程の盛況」だったとある。
その仲睦まじい一行振りは、現地の日系人から見ても好ましいものがあったようで、1924年1月7日の『マウイ新聞』に、
巴家一行は舞台以外の客席でも大持てだが弟子たちの師匠思ひと師匠寅子夫妻の弟子思ひは陰で聞いても嬉しい
と称賛されている。
1月21日、カウアイ島に移動。同地を巡った後、オアフ島へ帰還。
2月14日~16日の3日間、加藤神社に頼まれて、旭劇場にて「基金募金活動」を兼ねた演芸会を開催。
2月17日、東本願寺の依頼で、石井ガーデンで行われた婦人会の余興に出演。
その後は再び日系人相手に耕地を巡業。
22~23日は、ハレイワ耕地の栄楽座に出演し、大当たりを記録。
25~26日はアイエア耕地、他の耕地を巡った模様。
耕地巡業の後は、旭劇場に戻り、3月6日から3日間、興行を打つ。
その後は熱烈なリクエストを受けて島内の再巡業に出ていた模様。凄まじい人気である。
3月28、29日、ハレイワへ行き、栄楽座に出演。
長らく巡業をしたのち、4月20日、加藤神社の祭礼の余興に出演。
4月24~26日、西本願寺の依頼を受けて、モイリリ日本語学校裏の劇場に出演。
4月27日、キング・アラバイ地方人会の依頼で余興に出演。これがハワイ最後の興行となった。
1924年4月30日出発の「天洋丸」に乗って帰国。(『ハワイ報知』4月29日号)
関東・関西の人気者
帰国後、東京の各寄席で帰朝公演を行い、6月に神戸へ移動。千代廼座に出演している。
◇千代之座 八日より巴家寅子一行新加入、江戸生粋の滑稽を演ずる外、勢獅子、木遣音頭等。
ただ、この年はハワイ帰りが持て囃されたのか、東京公演の方が多かった模様。
1925年1月は大阪で過ごす。なんと4件掛け持ちである。正月の獅子舞を演じる貴重な存在だったとはいえ、これはすごい。
<中席・十一日より>
南地紅梅亭 巴家寅子一行二の替り熱田獅子。
南地花月 舞踊五條橋(三木助・五郎)、地方に義太夫と筑前琵琶出演。
天満花月 舞踊神田祭、大切余興滑稽勧進帳・円子外数名出演。
花月倶楽部 巴家寅子一行外余興五條橋(五郎・三木助)。
新町瓢亭 巴家寅子一座に熱田獅子出演。
松島花月 巴家寅子一座に熱田獅子出演。
その後は、再び東京へ戻り寄席出演――と思いきや、また4月に大阪にUターン。再び同地に居着いた。
5月は、お馴染みの神戸千代之座。
ここをしばらく打った後、7月下席から「神戸萬国館」に移動。相変わらずの忙しさである。
そして、8月から再び千代之座。
「◇千代廼座 七色會連中は一日より出番替はり國勢安来節は小原振つつみ踊、所作事「楠公後日物語」その他巴家寅子の滑稽義太夫引抜怪談「かさね物語」など。」
という広告が残っている。
9月も延長して、千代之座。如何にこの芸が神戸で愛されたかがわかる。一方、大阪京都よりも、ハイカラで先進的な神戸で、こんな古風な芸が受けた、という現象も中々の皮肉である。
1926年は東京を中心に活躍。主に落語協会系の寄席に出演した。この時の都新聞が目下行方不明のため、追記します。
同年5月13日、『滑稽脱線義太夫』としてJOAK(NHK)初出演。『日刊ラヂオ新聞』(1926年5月13日号)に、談話と速記が出ている。談話を引用しよう。
寅子さんは語る『最初にやりますのが、滑稽義太夫でこれは「お前と一緒に」の小唄を義太夫節でするので、それから滑稽脱線義太夫を移つて、これは總て私が弾語りで致します、それから与太な會話が小染との間にあつて、例へば吉原へ繰込むとかいふ工合に愈々繰込んだ挙句、時間があれば大津絵が入つたりして、その中吹き寄せ五段返しになります この前に三味線二挺で箱根八里の改良節をひき引き續き替手を致します。吹き寄せになりましてから、小染が唄つて、私一人で鳴り物の笛、鼓は寫眞の通り引き受けます。最後に清元北州の前にどじやう掬いの三味線を入れて續けます。』
この時演じた楽器の吹き分けがあまりにも見事で、局員から「一座」だと間違われ、紅茶がたくさん出されてしまったという逸話が、『読売新聞』(1926年7月2日号)に出ている。
器用なこと夥しい人で此前の放送の時は一人で笛を吹く太鼓を叩く三味線を弾く何といふ事なしに勤めてさて終つて休憩室へ来ると放送局の某給仕君うや/\しく紅茶を五人前持つて来て、『他のお方は何處へおいでになりましたか?』と聞いたもの『なあに私と家内の二人つ切ですよ』との釋明もある。
その技芸が高く買われたのか、7月2日にもラジオ出演している。以来、1930年代初頭まで、たびたびラジオ出演。人気者の一人として数えられるようになった。
8月まで東京の寄席に出演し、そのまま大阪へ直行。
9月1日から南地花月と芦辺館を掛け持ちで出演。
11月14日は大阪・南地花月に出演し、東京から上ってきた金原亭馬きん改メ金原亭馬生の襲名披露に列席した。この馬生こそ、後年「志ん生」と改名し、昭和の落語界に大きな足跡を残した五代目古今亭志ん生その人である。
◇金原亭馬生襲名 金原亭馬琴はこんど六代目金原亭馬生を襲名し十四日南地花月亭で披露する。花月幹部連および左楽、三語楼、小文治、寅子、春楽ら出演。
この後、旅に出て、関西で年末を過ごした模様。
1927年1月、新春興行に参加し、得意の獅子舞を披露。4件掛け持ちという大人気ぶりである。
△南地花月 春団治、円馬、文治郎、五郎、紋十郎、遊三、喬之助、神田ろ山、巴家寅子一座等。
△北陽花月倶楽部 ろ山、染丸、喬之助、春団治、円馬、扇枝、五郎、紋十郎、巴家寅子一座、熱田獅子一行等。
△松島花月 円馬、千橘、ろ山、おもちや、三福、ざこば、文治郎、春団治、馬生、巴家寅子一座等。
△新町瓢亭 春団治、三福、五郎、紋十郎、扇枝、円子、枝鶴、遊三、夏起雲、巴家寅子一座。
中席もこれで打ち通し、下席は南地花月・北新地花月におさまった。
1928年3月、北新地花月に出演。
5月1~11日、京都座で行われた『全国万歳座長競演大会』に特別出演。寅子一行以外に、尺八の加藤渓水、俗謡の山村豊子なども同じく特別出演――と『近代歌舞伎年表京都編』の中にある。ついでに萬歳一行を記しておくと、
千代の家志の武・井筒家静枝 高田幸若・立花家秀若 井筒家文三・橘家秀丸 千代の家蝶丸・登美子 桂金之助・一風亭トンプク 三遊亭福助・ニコニコ家繁丸 河内家力太郎・河内家十郎 東家小谷・林家染二 長瀬春千代・花廼家菊春 鶴家団丸・鶴賀賀蝶 井筒家円蝶・吉田国丸 三遊亭柳枝・花廼家豊子
7月23日より、弁天座で開催された『松竹専属名流萬歳選抜大会』に一座で出演。『まんざい風雲録』に出ている顔ぶれによると、
江戸生粋巴滑稽 巴家寅子・小染・松太郎・小奴・多助・てるこ・幸蔵・愛之助
江戸滑稽音曲 花廼家新玉・春風亭枝雀・春風亭柳昇・寿家岩てこ
御殿萬歳 小春・一奴・芳子・静子・花奴・つた子・静賀・光子・さよ子・春子萬 歳 竹廼家升奴・喜雀 山村二声・秀丸 五条家弁慶・弁天 東家三吉・山田松葉 出雲福奴・雲太郎 桜家峰奴・桂家正月 菅原家正六・忠々 横山エンタツ・菅原家千代丸 橘家太郎・菊春
太夫日替り 玉子家辰丸 菅原家千代丸
これ以降の『都新聞』の出演は殆どまとめていないので、随時追記します。
1929年は、一切関西へは行かず、東京の寄席を中心に出演。
1930年3月7日、「滑稽義太夫」でJOBK出演。相変わらずの人気を博したが、寅子の興行権を買っていた吉本興業がJOBKの運営体制を批判する論争が勃発し、彼以降しばらくの間、吉本が放送に乗り出すことはなかった。
4月30日より、帝京座に出演。『都新聞』(4月28日号)に、
▲帝京座 丗日よりの新番組は大津検花奴、巴家寅子一座で笑劇「忠臣蔵七段目」喜劇「一萬圓事件」……
とある。これ以降、東京に定住し、大阪へ上ることは少なくなった。
1931年7月7~8日、寿座の「諸流演藝會」に出演。『都新聞』(7月7日号)によると、
▲壽座 七八両夕五時より諸流演藝會出演者は
喜代駒、駒千代、金時、松華六郎、祐十郎、大和家連、小柳連、寅子等
1933年夏、漫芸の橘ノ円次郎(後の橘エンジロ)、千葉琴月らと一座を組んで、名古屋・岐阜・伊勢など、中部地方を巡業する。『都新聞』(9月2日号)の消息に、
□橘の圓次郎 旅へ出ました、名古屋の新守座を振り出しに岐阜から伊勢の山田へ参りました、巴家寅子、私、千葉琴月などに万歳歌劇を加へた浅草色物の混成四十名程の一群ですどつちかと云へば御難に近い旅です、楽屋裏でそろ/\地蟲が鳴き始めました、里心がついてゐます、ウヰスキーに酔ひつぶれて物干に寝ころんでゐた万歳連中もようやく掛布團が戀しくなつて来ました
戦争と寅子
1938年、新興演芸部の発足に伴い、コンタクトがあった模様であるが、結局は新興演芸部につくことはなかった。しかし弟子の巴家寅の子(虎の子とも)・音丸の子供漫才を新興演芸部に送っている。そういった関係から、戦争悪化前後まで再び関西へ上るようになる。
因みに、寅の子は、後年夫婦漫才を組み、今喜多代の名前で一世を風靡した。今いくよ・くるよの師匠としても有名である。
1939年7月、久方ぶりに関西へ上り、京都松竹劇場へ出演。
8月5日、「中座納涼有名演芸大会」に出演。
1940年7月、江戸生粋音曲演芸として、再び松竹劇場へ出演。両者ともに「虎の子・音丸」のコンビが出ている。
『植民地社会事業関係資料集』によると、1940年8月に台湾を訪れ、慰問演芸を行ったというが、詳細は不明。
1941年以降は、あまり大阪へは上らず、東京に落ち着くことになった。主に芸術協会系の寄席に出演し、相変わらず音曲を見せていた。
長らく小染とのコンビでやっていたが、戦争悪化に伴い、自ら三味線をもって一人高座で音曲や義太夫を唸るスタイルを確立。
芸達者なことは確かであるが、些か地味で渋い芸だったため、そこまで広い人気は得られなかった模様。
現に昭和の名優(怪優?)小沢昭一は、学生時代にこの人の高座が苦手で、仲間たちと将棋をやっていたら怒られた逸話があり、これを後年まで持ちネタのように回顧していた。失敗談といえば失敗であるが、小沢昭一がもっとも印象的に感じた青春の一コマだとも解釈できなくはない。
以下は『老いらくの花』の一節。
音曲の巴家寅子は、寅子でもすがれた男の芸人でして、あれは戦時中のこと、私ども寄席好きの中学生(旧制)が十人あまり、勤労動員の合い間を縫って、銀座の金春演芸場のいちばん前の席をズラリ占領していたのですが、寅子が高座に出てくると、ガサゴソ膝の上に紙の盤をひろげて将棋を始めるフラチな奴がいたりして、いや、中学生には寅子のシブイ音曲は退屈だったのです。
寅子師はもの静かな芸人さんでしたが、あまりのことに、
「オイ、学生、いい加減にしねえか!」
と叱られたりしたもので、あれは失礼千万。今ごろ、私めが代表して陳謝申しあげます。いえ、私は音曲好きで、ちゃんと拝聴していたのですが……。
一方、小沢昭一よりも年長であった落語家・桂米朝には、その芸の達者さに感じ入る所があったらしく、『上方落語ノート 第四集』の中で、『巴家寅子』と題した随筆を掲載。
かつて洋介喜多代の名コンビで、絶好の間を聞かせていた今喜多代さんが今でもお元気で、時々テレビでお顔を見るのは嬉しいことである。
この方は十代の頃、巴家寅の子といっていたそうで、古い人は喜多代さんのことを 「ノコちゃん」と呼んでいた。師匠に当る巴家寅子という方は、私は戦時中、東京の寄席で二度ぐらい聞いたのみだが、もうおじいさんで枯れた高座の音曲師であった。
巴家という名前からすると、あるいは太神楽かお茶番軽口の人だったのかもしれない。 そういえば喜多代さんも古風な演出で「二人羽織」などをやっていた。
この寅子師は太棹細棹と二梃の三味線を使った高座であった。おきまりの都々逸や大津絵、古い端唄などもやるのだが、一つ記憶に残っているのが義太夫の「先代萩」御殿政岡忠義の段のパロディである。政岡のくどきを大酒呑みの息子の親のくどきに変えた珍文句で、一べん聞いただけなので甚だ頼りないのだが、
〽……三千世界に酒呑みの親の心はみな一つ、子の可愛さに毒なもの、飲むなと言うて叱るのに、時と知りつつ試みて死んでもよいというような、胴欲非道な倅めが、またと一人あるものか……
こんなところは太棹の弾き語りでやるのだが、私はウーンと唸って強く記憶に残った。全文を覚えていないのが残念だが、実によくできているのでちょっと記しておく。
この種のものも昔はたくさんあったに違いあるまい。
と、短いながらも鋭いことを記している。まさに名文といえよう。
戦時中は、寄席や慰問などで活躍。小沢昭一たちを怒鳴りつけたのも丁度この頃であろう。
1942年12月26日、『正岡容随筆・寄席風俗』にその時の様子が記されている。少し長いが当日の盛況ぶり、正岡容の陶酔振り、太神楽関係者たちの活躍・芸風の一翼が知れるので、まるまる引用する。
早い夕食を終えて女房と、近くの大塚鈴本へ。今夜は太神楽大会。去年見損っていたものなり。入って行くとすっかり年老って見ちがえてしまったバンカラの唐茄子が知らない男と獅子をつかっている。楽屋で時々「めでたいめでたい」というような声をかけるのがひどく古風でおもしろい。続いて唐茄子がやはり知らない男と「神力万歳」というむやみに相手の真似ばかりしたがる可笑味のものを演る。理屈なしに下らなく可笑しい。温故知新というところだろう、まさしくこれなどは。そのあといろいろ間へ挟まる曲芸の、五階茶碗や盆の曲や傘の曲やマストンの玉乗りやそうしたものの中では丸井亀次郎(?)父子の一つ鞠ががめずらしく手の込んだ難しい曲技を次々と見せてくれた。あくまで笑いのないまっとうな技ばかりで、その技がみなあまりにもたしかなので好意が持てた。近頃こんな上手がでてきたのは頼もしい。
若い海老蔵が「源三位」を演るとて、文楽人形にありそうな眉毛の濃く長いそのため目の窪んで見える異相の年配の男を連れて出てきた。いずくんぞしらん、これが往年の湊家小亀だった。何年見なかったろう私はこの男を。その間の歳月がまるでこの男の人相を変えてしまっているのだった、でもだんだん見ているうちに額に瘤のあるなつかしいあの昔のおもかげが感じられてきた。それにこの頃少しも高座へ出ないが生活も悪くないと見えてチャンとした扮えをしていた。艶々と顔も張り切っていた。少なからず私は安心した。浅草育ちの私にとって湊家小亀は十二階の窓々へかがやく暮春の夕日の光といっしょに、忘れられない幼き夢のふるさとである。感傷である。新内もやらず、得意の関東節も歌わなかったが、そうして衰えは感じられたが、昔ながらの猪早太はなつかしくうれしかった。ストンと投げた のあとへ、あいつァ妙だこいつァ妙だまったく妙だね――の踊りの繰り返しにもめっぽう嬉しさがこみ上げてきた。裸で道中するとても――の飛脚のような振りをするところも絵になっていてよかった。そのあと、「箱根関所」の茶番。これは巴家寅子、丸一小仙の役人、海老蔵の墨染、小亀の角兵衛獅子という贅沢な顔づけがわけもなくありがたかった。「親父が作兵衛、子供が角兵衛」と踊り出すここの繰り返しも軽妙で江戸前だった。総体に江戸茶番の愉しさはこうした可笑味の振りの繰り返しのところにあるといえよう。中入り過ぎに寅子のチョボで、小仙の松王、海老蔵の源蔵、唐茄子の千代、松太郎の熊谷、もう一人名前をしらないやせぎすの男の敦盛で、これもいっぱいに活かしていてなかなかにコクがあった。日本に、東京に、伝統されている「芸」の喜び。久しぶりで私は年忘れをした満足をしみじみと味わわされた。
また戦地慰問で、杭州や上海くんだりまで出かけた、と巴家寅子の息子と交流のあった漫画家の原えつお氏から伺ったことがある。
1943年、「大日本太神楽曲芸協会」発足に伴い、入会。長年の功績からか、相談役に推された。以下は、『大衆芸能資料集成 第2巻』にある役員名簿からの抜粋。
相談役 巴家寅子 翁家和楽 湊家小亀 日廼出家小直 東洋一郎 富士松ぎん蝶 柳家三壽
寅子の晩年と余禄
戦後は、焼け残った浅草の劇場や寄席に細々と出ていたようであるが、往年の覇気はなく、淡々と高座を勤めるのみだったようである。
1954年春、静かに息を引き取った。『アサヒ芸能新聞』(1954年5月5週号)掲載の『関東芸能界人切捨御免』に、
★巴家松太郎社中(曲芸、太神楽)
関西で往年ぜったいの人気を博し、後年関東にもどって曲芸界の一方の雄であった巴家寅子の直系、この寅子は今春万人に惜しまれつつ世を去ったので、松太郎が当然寅子を襲名する順序になるわけであろうが、寅子という芸名が女性とまちがえられそうだというので、いっそのこと、松太郎の一人娘「小みせ」に寅子を継がせて、自分は現状のまま巴家松太郎でいたい――とも洩らしているそうだ。
と、あるのが確認できる。これを出典とした。但し、詳しい月日は不詳。お孫さんが健在らしいので、聞いておくべきであろう。
前述の巴家松太郎親子の襲名計画は、松太郎の死でお流れになった模様。
余談であるが、この寅子には、小俣貫一という男の子がいた。この人と懇意だった原えつおという浅草在住の漫画家さんから、詳しくお話を伺った事があるので、ついでに記しておこう。
ミニコミ『浅草』の連載に出ていたはずであるが、管理人は原氏から直接伺った。
貫一は芸人の子として生まれたものの、太神楽は継がなかった。しかし、父と面識のあった喜劇役者曾我の家五九郎の紹介で、木内末吉が運営する木内興行に入社。興行の世界へと入った。寅子も木内家に出入りしていたという。
戦時中は父と共に杭州、上海などの慰問に出かけた事もある。 後年、松竹演芸部長の川口三郎の下について、松竹演芸場の運営を任される。
敗戦直前に恩人の木内一家が空襲で死ぬなどの不幸があったものの、焼け残った松竹演芸場の運営に携わり、浅草復興の第一声を上げた。
終戦直後、ある芸人一座の巡業で北海道へ付いていった際に、小樽でぼんやりと暮らしていた大宮デン助と再会している。小俣氏が生前語った所では「デン助は戦前冗談音楽をやっていて木内興行にも出入りしていた」との由。
その後は松竹演芸場の運営の傍ら、地方興行に着手。名古屋周辺の仕事を任され、東海林太郎や淡谷のり子などの「歌謡ショー」を企画・立案した。
その時、名古屋のキャバレーやレストランで歌を歌っていた「伊藤シスターズ」という姉妹歌手に目をつけ、上京を勧め、渡辺晋に橋渡しした――と、生前よく語っていたという。この姉妹は上京後、「ザ・ピーナッツ」と名を改め、1960~70年代、爆発的な人気を博した。
最晩年は喉頭癌になったらしく、声が出ない中でも取材に参加し、聞き書きを残したと聞く。
この人にも息子と娘がおり、浅草で健在だそうである。
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