香見喜利平
人 物
香見 喜利平
・本 名 辻井 義男
・生没年 1916年6月6日~1984年頃?
・出身地 大阪
来 歴
漫才じゃねえと言われればそれまでであるが、漫才師との交友が深かったことや、紙切り文化を考える上では欠かせない逸材なので、特例として紹介をする。
その前歴は、『上方演芸人名鑑』及び永六輔『極道まんだら』に詳しい。生年月日は『出演者名簿1963』より割り出した。正しいかどうかまでは判らないが、嘘とも言えない。
以下は『上方演芸人名鑑』の引用。
香見喜利平 かみきりへい 【紙切り】
本名辻井義男。一九一六年(大五)~
昭五年歌舞伎嵐璃徳に入門。後漫才に転向しようとしたが相方がみつからず、楽屋でひまつぶしに切った紙切りが好評で、二二歳で高座に上がる。東京の林家正楽(先代)のように体をくねくねさせずに切ることに特色を求める。引退して芸能社をやっている。前名津井日の丸。
津井日の丸は、辻井日の丸の誤記だと思われる。続いて、『極道まんだら』の引用。
おとうちゃんは医者、おかあちゃんは看護婦で、当直の晩に二人でいいことしはって、 出来の悪い愛染かつら。
あたしが生れて、すぐに養子や、それも転々として四人目のおかあちゃん。まともに育つわけもない。おとうちゃんの血ィひいてますさかい、お医者ゴッコばかりだ。
女の子押えつけて、鉛筆で突っついたり、消しゴムでこすったり。それがあんさん、十歳の時に近所の菓子屋の娘で十四歳の人が、一緒にお風呂入ろういうて、そこではめられてもうた。
不思議だんなァ、それまでに何も知らんのに、チャンと出来る。毛ェもはえてないモノが生意気にピーンと立って、不思議だんなァ、プチュンとはまってもうた。
十四歳の時に、家の金、持ち出して遊廓に行きまして、肩あげ気ィにしながら、お女郎さんに遊んでもろて「ぼんぼんみたいな可愛い子が、こんなところへ来たらあかんよ」 いうて送り出されて。行くたんびに「来たらあかん、いうたやないか」いいもってギューッと抱いてくれる。とるもんはとるんやからきびしい商売や。
遊びに行きたし、金はなし、よしゃ一旗あげたろ思うて撮影所に入りましてン。まだ芦屋に帝キネの撮影所があって百々之助がスターやった。
その頃の活動写真の世界はもう吹きだまりみたいなところで、柄の悪い役者志願が撮影所の門の前をウロウロしとる。今のテレビ局みたいなもんや。
門の守衛のとこに手鏡がおいてあって、役者になりたいいうと、その手鏡を渡される。
「どや、お前は二枚目か!」当時の活動はなんというても二枚目でないと通用せェへん。鏡に映ったる自分の顔みて「私は二枚目です」なんていえるもんやない。そこで追い払われるのが大部分やった。
そこを私は二枚目ですと押し通して役者になったけど、ちっとも芽ェが出ェへん、斬られ役か通行人ばかりで、あっという間に四年たってもうた。
Wikipediaでは、「天満の魚屋の息子」とあるが、これは多分養子先――出典は『米朝上岡が語る昭和上方漫才』である。
「1930年に歌舞伎役者嵐璃徳に弟子入りするが芽が出ず」とあるが、嵐璃徳は帝国キネマ所属の映画俳優であり、歌舞伎役者ではない(もっとも戦時中に舞台へ戻ったというが)。
上記で「帝キネの撮影所」といっている所から、映画会社に入り、璃徳の付き人か何かをしていた、というような解釈が一番正しい事であろう。
4年ばかり映画会社にいたが、一向に芽が出ず、関西を捨てて、九州を放浪。そこで騙されてたタコ部屋に入れられるが、門司まで逃げたという。以下は『極道まんだら』の証言。
十八歳になって役者はどうもあかんということに気ィついて九州までブラブラの旅、なんの気なしに人を集めているのんに誘われたらこれがタコ部屋。
大峰炭鉱の採炭夫で、飯は喰わせるが金は呉れん、呉れるんのんは金券、よそでは使えんやっちゃ。どないにこき使われても逃げるに逃げられんようになっとる。町中が見張りみたいなもんや。
そこを死ぬ思いで門司まで逃げて……。
しゃァないから似顔絵描き、この絵が似てると思うのは私ばかり、売れまへんわなァ。
なんぞないかいな、今度は鉛筆を鋏に持ちかえて似顔紙切り、不思議なもんで鋏で切るともの珍しさもあったんやろな、これが注文が増えて結構商売になりましてン。これな、天分や思います。
山下清サンが絵を描くのも天分や、天才とちゃいま。天才いうのんは馬鹿とちゃう、馬鹿でもなんかひとつ出来るンちゅうのは天分だ。助平かて天分で、天才助平なんてなものはいるもんやない。
その後、テキヤ稼業で場数をこなし、時には易者や啖呵売をして生計を立てた。
それからしばらくして、大阪へ戻り、辻井義男及び辻井日の丸名義で端席に出るようになった、という。芸人として活躍する傍ら、女道楽と極道を繰り広げ、色々な浮名を立てた。
また、戦前に吉田留三郎と交友を持っていたらしく、後年、芸人と関係者として再会した際には、飛び上がって驚いた逸話が、『まんざい太平記』に出ている。これは後述する。
戦時中は、劇場の閉鎖や出征などを受けた模様か。ここらで一度消息を絶ち、吉田留三郎などとも交友がなくなってしまったという。以下は、そのことを記した『まんざい太平記』の一節。
終戦後の空白時代お互いに消息を断っていた友人と、ひょっくり再会した時、すっかり姿が変わっていたなんてことはチョイチョイあったが、昨年、漫才席の色物として紙切りの香見喜利平に出演をお願いしたところ、タキシードで乗り込んで来たのが他ならぬ昔の友人、辻井義男君だったのには肝をつぶした。私の知っている辻井君は、むしろ野暮ったらしい素人丸出しの男だっただけに、客の注文に応じて、ゴジラでも「四畳半」でも切り抜いて行く手練のあざやかさを、唖然として見守るばかりであった。紙切り術なんて、かりそめの習練で出来るものではない。もともとその道のベテランが素人になっていただけのことで、それを知らなかった私の方がウカツだったというべきであろう。
戦後も辻井義男・辻井日の丸で出演していたようであるが、間もなく「香見喜利平」と改名。志磨八郎が名付けたらしい。
その逸話が、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』に出ている。芸風と共に詳しく語っているので、まるまる引用しよう。
上 岡 東ね(笑)、色もンでいうと紙切りの香見喜利平さん、これは名前がそのままですもンね工。
米 朝 この芸名は志磨八郎さんがつけたンや。それ以前は本名の辻井義男という名前で出てたンやけどな。「何か名前おまヘンか」「香見喜利平にせえ!」というてな。ところがな、「今度、辻井で出てくれ」「何でや」「結婚式やねん。カミをキルというのはイカン」(笑)。「またこの間、辻井で出たがな」。人間はおもろかった。ただ普段は大きい小屋でやっているから、芸が非常に荒い。「私かて時間があったら林家正楽さんみたいに細かく切れるンやで(笑)。東京の狭い寄席なら細かいところを切ったらお客は喜ぶけど、こんな広いところでは荒うてええねん!」。それで黒い洋服の前で切り絵を見せてな。紙かて東京の四倍ぐらいあるのをザァーーッと切るさかい荒い。一番情けないのは、お客が、「おくれ」というた切り絵が終ったら客席へ捨ててある(笑)。「一番嫌や」。 手にとってジィーッと見たらええことあらヘンのや(笑)。天満の魚屋の息子やというてたな。紙切りもな、曲芸師か何か紙切りでない人にちょっと教えてもうた。
上 岡 楽屋でいうてました。「難しいのはな、丸とか三角や。これは難しい」。客に時々意地悪なやつがおる。「ボーリングの球だけ」。切っているうちにどんどん小さくなる(笑)。「丸というのは難しいで。球だけ切っても拍手がけえへん」。「三角定規!」。丸や三角ではアカン(笑)。
米 朝 丸や三角ではお客は拍手はせえへンわいな(笑)。喜利平はな、私らが死んだと聞いてから、よっぽど経ってから先代の桂文我(三代目)が、天王寺公園の近所かなにかを歩いていたら、「我太やん! 我太やん!」て、誰かが呼ぶンやて。今時分、前名の桂我太呂の名前で呼ぶというのは誰やと思って、見たら、喜利平が車椅子を娘さんみたいな人に押されて乗ってンねん。「生きてなはったンか」「何や、わしを見たら死んだもンが生き返って来たようにいいやがって!」。口は達者や。倒れてもたンやね。「息子の嫁やねん」と紹介された。息子は同志社大学か何かを卒業してまともやねん。
以来、松竹芸能に所属し、角座や松竹座など大劇場に出演。米朝の語るように、技巧よりもダイナミックで見ごたえ重視の紙切りを展開し、紙切りの少ない関西の芸能界で異彩を放った。
紙乃喜利平、紙切平と書くこともあるが、これは誤差の範囲であろう。当人も名称はあまり気にしなかった模様である。
また、奇人変人としても知られ、上記の本の他、戸田学『六世笑福亭松鶴はなし』の中に、「楽屋の中で年賀用か何かに作っておいたねずみの切り絵を見た松鶴が、喜利平が楽屋を出て行ったのを見計らってすべてゴミ箱に捨て、代わりにへたくそな猫の切り絵を作って、置いておいた」などという逸話が紹介されていたりする。
女好きでも知られ、無茶苦茶な女道楽でも知られた。一方、愛妻家でもあったそうで、妻とは30年以上にわたって、添い遂げることとなった。
1969年頃、ヌード専門のプロダクション「結城プロダクション」を設立し、芸能界から一線を退いた。
1969年1月発行の秋田實主宰の同人誌『漫才』(7号)の「謹賀新年」に寄せた芸人の連名を見ると、「香味喜利平」となっているが、同年7月に発行された『漫才』(13号)の「祝『漫才』一周年記念」の連名を見ると、「ヌード専門 結城プロダクション 辻井義男」と本名になっている。また、
1970年11月、『オール読物』掲載の永六輔『極道まんだら』の中で、
「でも今はフリーになって好きな時だけ紙切ってます。ここんとこヌード・ダンサーを育ててますけど、劇場のヌードとキャバレーのヌードではまるで違う。」
と語っているように、この頃には高座から退いていた模様。
上で記したように、1970年11月、永六輔『極道まんだら』が掲載され、その半生と女道楽ぶりを語り尽くした。この本は一年後に書籍化され、現在も読むことができる。
1975年11月15日、久方ぶりにテレビ番組『和朗亭』に出演し、達者なところを見せた。この回は現存しており、今日でも「ワッハ上方」などで見ることが出来るはずである。出演者は以下の通り。
第75回『和朗亭』
江戸家猫三『足芸』
紙ノ喜利平『紙切り』
廣澤瓢右衛門『道中付考』
その後は、芸能事務所として活躍。ヌード全盛の波に乗って、稼いだらしいが後年、病に倒れたらしく、引退。『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中に、
喜利平が車椅子を娘さんみたいな人に押されて乗ってンねん。「生きてなはったンか」「何や、わしを見たら死んだもンが生き返って来たようにいいやがって!」。口は達者や。倒れてもたンやね。「息子の嫁やねん」と紹介された。息子は同志社大学か何かを卒業してまともやねん。
とあるのが確認できる。
詳しい没年は不詳。但し『日本演芸家連合』の名簿を見ると、「辻井義男」名義で、1982年頃まで西成区にいる事が確認されるが、翌1983年に平野区へと転居。1984年の名簿までその名が確認できるが、翌年まとめたものには出ていないので、その頃に没した模様。
また、1984年に『極道まんだら』の文庫版が再販された際、取り上げた20人のうち、健在なのは3人だけになった――とあとがきにある。その3人とは、桜川ぴん助、ミスター珍、小林源次郎――と、いう所からも1984年前後に亡くなったのは確かな事であろうと考えられる。
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