平和ラッパ(初代)

平和ラッパ(初代)

浅田家日佐丸・平和ラッパ(右)
(日佐丸ご遺族提供)

 人 物

 平和  へいわ ラッパ
 ・本 名 北川安太郎
 ・生没年 1906年3月~1947年以降
 ・出身地 ?

 来 歴 

 戦前活躍した漫才師。浅田家日佐丸との名コンビで売れに売れたが、敗戦後に悲惨な最期を迎えた。今日の平和ラッパ、平和勝次とは流派が異なる。その理由は後述する。

 年齢と本名は『毎日年鑑1940年』『時事年鑑1942年度』より割り出した。

 若い頃は洋服屋に奉公していたが、芸人の夢断ちがたく、安来節一座に入って芸界デビュー。『週刊朝日』(1940年1月7日・14日号)掲載の『まんざい自叙伝 謙遜して』によると、

日佐丸「矢張り、偉い人は、子供の時から、徳がそなはつてゐるんやね。」
ラッパ「さうらしいな。わしも子供の時から、徳がそなはつててね。」
日佐丸「何の徳や? 大方漫才師になる徳やらう。」
ラッパ「よう當てた。わしが十四の時に、洋服屋の見習の時代にね。」
日佐丸「どうせ、古手の洋服屋やらう。」
ラッパ「これは、恐れ入りました。何んで安物の洋服屋といふことが分ります?」
日佐丸「直ぎに、くづれて仕舞うたやないか。」
ラッパ「そないボロクソにいはんかてえゝがな。その時の兄弟子が、わしの手相を観て、お前は、服を作る人間やないといひよつたんですワ。」
日佐丸「何んや、断られたんか。」
ラッパ「喧しい。けど、男子志しを樹て、郷関を出づでせう。」
日佐丸「仲々、ええ處あるがな。」
ラッパ「折角洋服屋にならうと思うたんやから、服のついた商売をと探したのが、今の商売ですわ。」
日佐丸「一寸待て。漫才師に何んで服がついて廻つてるんね。」
ラッパ「長い間舞台に出てゝ知りませんか。」
日佐丸「一向、気がつかんけど。」
ラッパ「わしは、舞台で、ラッパを吹くでせう」
日佐丸「ああはうか。それで藝名まで、ラッパとつけたんやな。」
ラッパ「さうですわ。――その以前には安来節の一座にをつたのですが、この時には太閤はんに、ウント仇討をしてやりましたよ。」

 どこまで実で、虚だかはっきりしないが、全くの嘘とも言い切れないようである。

 漫才の師匠は、初代平和ニコニコ。屋号はこのニコニコから継承したものであるが、入門時期や初コンビの動向は謎が多く残る。

 1928年頃、少年漫才師の河内家文春とコンビ結成。『落語系図』掲載の『昭和三年三月より昭和四年一月十日迄で 花月派吉本興行部専属萬歳連名』に「河内家文春・平和ラッパ」とある。吉本興業の寄席に出演して、実力を磨いた。

 同年春、河井家カチューシャとコンビを組みなおした模様。『上方落語史料集成』の中にある『大阪時事新報』(1928年5月2日号)の写しに、

◇紅梅亭 吉本興行部専属万歳秘技競演会 出演者はセメンダル・小松月、玉枝・成三郎、愛子・光晴、楽春・久春、二蝶・芳春、日佐丸・弥多丸、しの武・次郎、カチユシヤ・ラツパ、芳香・芳丸、今男・アチヤコ、大正坊・捨次、ウグヰス・チヤツプリン。余興笛亀、幸治、李玉川。

 とある。

 1929年末から、浅田家日佐丸とコンビを組む。1930年1月の番組表に、

一日より
△松島花月 枝鶴、九里丸、光鶴、三木助、扇遊、伯龍、直造、染丸、ハレー、小春団治、小柳三、春団治、日左丸・ラツパ、福団治、文治郎、源朝。 

二十一日より
△富貴 右の助、三馬、三八、ざこば、正光、染丸、千橘、ラツパ・日左丸、重隆・武司、福団治、五郎、清子・喬之助、春団治、伯竜、熱田獅子(今村新丸社中)

 とある所から、それ以前にコンビを結成していた模様。この頃から、北新地花月などに現れるようになり、吉本の人気漫才師として頭角を示すようになる。

 1930年5月、千日前の三友倶楽部で行われた、観客による吉本興行所属の漫才師の人気投票に選出され、三位に当選。一位は花菱アチャコ・千歳家今男。二位は轟一蝶・日出子。四位は芦の家雁玉・林田十郎。五位は小山慶司・歌江であった。

 1934年9月の「新京極富貴」上席までコンビの活躍が確認できるが、その後一度コンビを解消したらしく、1年ばかり名前が見えなくなる。

 1935年6月、再びコンビを組んでいる様子が確認できる。

 △北新地花月倶楽部 エンタツ・エノスケ、助次郎、円枝、出羽助・竹幸、三木助、九里丸、成三郎・玉枝、日左丸・ラツパ、千橘、アチヤコ・今男、春団治、クレバ栄治一行、蔵之助、五郎・紋十郎、せんば。

 1936年2月、キリンとコンビを解消した日佐丸とコンビを再結成。この頃に一度、吉本を脱退。朝鮮半島へ巡業している様子が当時の新聞から確認できる。

 1939年4月、九州巡業中に新興演芸部に引き抜かれ、吉本から新興演芸部へと移籍。ただ、この辺りは謎が残る。『話』(1940年新年号)に、

 日佐丸・ラッパは何れももとは吉本にゐた漫才で、復帰するとかしないとか言ふ矢先に新興へ抜かれたのだ。ワカナより人気があるなどと言はれ朝日會の會長で技量に於ては何と言つても漫才界のNOワンたるを失はないだらうが、さう明日を期待されるコンビでもなからう。

 とあるのがその理由の一つ。

 吉本と喧嘩になったものに、同年5月に裁定が行われ、無事に移籍。以来、ミスワカナ・玉松一郎と並ぶ看板として君臨した。

 同年4月、旗揚げ公演に出演。

4月29日〜 松竹劇場

〈新興演芸部旗揚げ第一回興行〉

あきれたボーイズショウ ダイナ狂騒曲
グランド・マジック・ショウ
浪曲 京山華千代

漫才 ラッキーセブン、奴・喜蝶、ヒサマル・ラッパ、ワカナ一郎ほか

 人気絶頂の玉松一郎・ワカナでさえも、このコンビは兄貴分として慕っていたという。

 1939年5月、新興演芸部で製作された映画『お伊勢参り』に出演。日佐丸の役は旗本、平和ラッパは医者であった。森卓也『映像に見る漫才名人会』の論文の中に、

平和ラッパ・浅田家日佐丸 

旅篭に泊まった武士(日佐丸)と医者(ラッパ)の対話。
ラッパ「(日佐丸を診察して) 熱があります。300度の高熱です」
日佐丸「そんなにあれば、体が焼けてしまう」
ラッパ 「(歌になり) 焼けます焦げます300度の高熱 この熱さますのはあの子にかぎります」 

 とある。これ以降、何作か映画に出演したり、新興演芸部の劇場などに出演。 

 1940年、『弥次喜多怪談道中』に出演。あきれたぼういず扮するお化け連中に恐れる旅籠の客役だったという。

 1941年12月、太平洋戦争勃発に際し、芸人たちも芸名を憚るようになった。新興演芸部も、時勢に忖度して、ミスワカナを「玉松ワカナ」、香島ラッキー・御園セブンを「香島楽貴・矢代世文」と改名させた。ラッパという言葉が軍部ににらまれるのでは、と思われたらしく、新興演芸部側から改名を促されたが、これを拒否したという。

 当時、新興演芸部で働いていた吉田留三郎は後年『まんざい太平記』の中で、

 一番の難物は平和ラッパであった。慌てて進軍ラッパでは如何でしょう、と伺いを立てたところ「フザけるな」と即座に撃退されてしまった。

 と回顧している。結局、「ラッパ」は進軍ラッパに通じるところからか、お目こぼしを受け、この芸名で続投する事となる。

 1944年頃より、「ラッパ・日佐丸劇団」なるグループを結成し、空襲下の劇場で奮闘した。『近代歌舞伎年表京都篇』の1944年3月の頁に、

正午開場 京都座 〇三月(一)日~(十日は休業)
尾崎倉三作・演出

日佐丸・ラッパの爆笑浪曲劇 万石一粒丸 二景

女流浪曲薰風軒桜月口演
【出 演】日佐丸・ラッパ劇団 花形漫才陣応援出演 歌江・照江 日佐一・日佐治 政月 金八 マリ子

 とあり、空襲下でも奮闘をしたが、間もなく演芸どころでなくなり、相方の日佐丸は疎開をしてしまった。

 この頃の芸を伝える記事に、『上方芸能』(28号)の平和ラッパ『「天皇陛下の白い馬」など』がある。以下はその引用。

 わたしは戦後二代目平和ラッパをつぎましたが、先代は戦争の終り時分にえらい漫才やってました。舞台へ出たと思うと節つけて言うんです。

 敷島の大和心をたとうれば
 朝日に匂う桜花
 霊峰富士の暁に
 金鵄の光仰ぎつつ
 一億立つは今なるぞ

「敷島」「朝日」「桜」(もとチェリー) 「富士」「暁」「金鵄」 (もとゴールデンバット)「光」全部タバコの名前です。
 歌い終るとものすごい拍手です。すると先代ラッパは
「一億立つは今なるぞと言われても、そう急に立てまっかいな。ましてタバコは立つわけにいかん。せめて配給のタバコが入るまで待ってください、ねェオッサン」

 1945年、満州映画会社に呼び出され、同社の演芸部社員という形で秋田實などと共に渡航。

 同地で慰問活動を行っていたが、8月15日、同地で終戦を迎え、他の芸人共々、満州に取り残される。

 ソ連軍の侵攻や現地人の暴動など、多くの動乱を潜り抜け、新京に到着。ここで引揚を待つ傍ら、豆腐屋をやっていたという。以下は、『漫才』(1970年7月1日号・第三巻七号)に掲載された、晃琳寺穹『あの日あの時 新京の街角で』。

 又祝町太子堂(西本願寺別院)に新京に来ていた芸能人達が立てこもって芸能座を華々しく開いたのは翌年雪解けの初まる五月頃だったのではなかろうか?
 森繁久弥氏、舞踊家の益田隆氏、又今は亡き二村定一氏等の顔も見られた。
 その他にも多くのこの道の人達が居られたことと思うが、とりわけ漫才界の方達の面倒を一手に引受けお世話されたのは、秋田実先生であった。
 先々代の日佐丸・ラッパ両氏も、入舟町周辺で豆腐屋をやって居られたのを記憶しているが、不幸にも日佐丸氏が発疹チフスにかかり、亡くなられたのは、大雪の降った寒い日の出来事の一ツであった。
 終戦の年の冬、新京では約六万人の人達が、発疹チフスや栄養失調で亡くなった。

 日佐丸を見送った後、引揚船に乗り込み、命からがら帰国を果たす。

 一時はソ連軍に死刑される危険性があったそうで、『大陸問題』(1973年10月号)掲載の「情報部員、同胞救済に死す」に――

 (一九四六年二月)私たちに方正、延寿両県残留開拓団員の救出を決意させたのは、この密書(※満蒙同胞援護会会長駒井氏からのモノ)である。ところが二、三日後、私は連絡に赴く途中、不幸にもソ連軍に逮捕され、警察総局のブタ箱にほうり込まれてしまった。ここで私は平和ラッパという万才師と同居したが、彼は「強盗殺人」というありもしない罪名をつけられていた。

 帰国後、再び舞台への復帰を目標に奮闘。1946年12月21日、浪花座でミスワカナ追善大会が行われた際に、かつてのよしみとして出席。『珍版ラッパの縁談』なる喜劇を行っているのを確認できる。以下はそのチラシ。

 wikipediaには、1945年没とあるが、これは間違いである。

 最後の消息は「映画芸能年鑑 1947年版」であろうか。

 然し、この復帰後間もなく体調を崩し、没。吉田留三郎は『まんざい太平記』の中で、

 ポン死とまでは行かないまでも、平素から注射で極端に身体を虐待していたため、他の病気でポックリいった人々、例えば初代日佐丸も発疹チフスくらいで参る身体ではなかったはずである。相棒の初代ラッパも折角帰還したのだから、もうひと踏ん張りしてほしかった。アホダラ経のうまかった若松家正坊もその一人と言える。

 と回顧しているが、相方同様に侘しい最期を辿った。

 それから間もなく相方の日佐丸の弟子であった浅田家日佐一が、アホの芸風を受け継ぐという事で、二代目を襲名。「大阪三アホ」と並び称される人気者として君臨した。今日の平和一門はこの人から出ているので、初代ラッパとはあまり関係がないのである。

コメント

You cannot copy content of this page

タイトルとURLをコピーしました