南ふく子

南ふく子

晩年のふく子

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 人 物

  みなみふく子
 ・本 名 吉田 英子(旧姓・中野)
 ・生没年 1911年2月3日~1974年11月3日
 ・出身地 大阪

 来 歴

 南ふく子は、戦前戦後活躍した女流漫才師。浅田家朝日・浅田家日佐丸の実妹という名門の家柄に生れ、戦後は「てんのじ村」のモデルで知られた東みつ子とコンビを組んで、三味線漫才や女道楽風の音曲漫才で人気を集めた。

 経歴は『上方演芸人名鑑』のものがよくまとまっているだろうか。

南ふく子 みなみふくこ 【漫才】
本名 吉田英子。一九一一 (明四四)〜一九七五(昭五〇)
初代浅田家日佐丸の妹。兄を師と仰ぎ、前名を浅田家日佐絵と言った。東みつ子とコンビを組みこの名に改めた。 晩年はみつ子の家に世話になり、他人コンビの面倒を良く見たとみつ子は評判になった。

 ただ、没年に関しては後述するが右の記載は間違いである。

 兄が浅田家朝日日佐丸という漫才界の大御所。日佐丸は兄で師匠という複雑な間柄であった。

 日佐丸の祖父が浅尾与六という歌舞伎役者であるはずなので、彼女もこの人の血を受け継いでいたはずである。

 兄二人と比べると経歴に謎が残るが、元々は芸者であったらしい。20代で兄に弟子入りし「浅田家日佐絵」という名前でデビュー。

 戦前は若松家正八と組んで行動をしていたようである。1938年頃には、兄と共に新興演芸部に入社している。

『近代歌舞伎年表』を見ると、若松家正八と舞台に出ている記載が残っている。

(1941年)○十月三十一日〜 松竹劇場

海国綺談 あきれたぼういず 新興快速舞隊
何処へ 新進劇団
軽音楽 ハットボンボンズ

漫 才【出演】サクラ・ヒノデ 芳若・豊子 貴美子・富美子 日佐子・絹奴 美津子・比呂志 日佐絵・正八 豊香・サヨ子

(1941年)○十二月十一日〜 松竹劇場

国策激 かちどき(北条時宗)四景 青春劇団
ショウ 日本の翼 十景 大市少女楽劇団 新興舞踊隊
曲技 旭天華 【出演】旭玉徳 旭ノボル 旭ヒカル 旭テル子

漫才 【出演】桂木東声・春風小柳 歌謡音曲(人形博次) 万龍・豊香 春雨・ワカ子 政月・敬一 正八・日佐絵

 また、兄の主宰する日佐丸・ラッパ劇団の座員としても活躍していたらしい――と関係者から伺ったことがある。

 戦時中も新興演芸部に所属し、慰問や劇場公演で腕を磨いたが、1945年冬に満洲に行っていた兄・日佐丸が死去。さらに戦後まもなく長兄の朝日も亡くなってしまった。

 1950年代、東みつ子とコンビを組んで、「南ふく子」と改名。松竹演芸部に入社して、角座や浪花座に出演。

 両人が三味線を抱え、俗曲や流行歌を奏でたり、踊りを踊ったりする――女道楽の名残を見せる渋い芸を見せた。

 一方、戦前から漫才界にいたこともあってか古い芸をよく知っており、「あいならえ」や「御殿万歳」の実演などに携わった。

 1965年11月、神戸松竹座で行われた「漫才百年祭記念」の三曲萬歳に出演。顔触れは――

勘平 浮世亭夢丸 お軽 中村春代 伴内 砂川捨丸
三味線 東みつ子、南ふく子、松鶴家千代八桜川梅夫 太鼓 桜川末子 胡弓 浮世亭出羽助

 晩年まで浪花座や角座に一応の舞台に出ていたというが、しゃべくり漫才や音楽ショー全盛の中で注目を集める事はなかった。松鶴家団之助を頼って旅回りをして、地方で人気を集める事もあったという。

 また、晩年は糖尿病で苦しんだそうで、最終的には東みつ子の面倒を見る事となった。

 1974年11月、糖尿病の悪化のために死去。最期までみつ子が寄り添い、死に水をとったという。この優しさは漫才界の美談になったという。

『上方芸能41』(1975年7月)の中に、

☆五月 初代日佐丸の実妹が南ふく子であった。東みつ子(あひる艦隊大谷実の奥さんの母)と組んでのコンビは女道楽風な漫才、ことにふく子は芸者の出、さすがに美貌の人であった。旧聞に属するが、昨年十一月四日、糖尿病のために死去、享年六十三歳であった。家庭的には不遇であったらしく、入院先(病院名不詳)の病室にひとりポツンとした療養、みつ子が最後まで面倒をみて死に水を取った。うるわしいコンビ愛であったと伝えられて切ない。冥福を祈ろう。

 ただ、東みつ子家に残る過去帳では「1974年11月3日」とある。

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