広多成三郎・もろ多玉枝
荒川玉枝・成三郎時代
人 物
広多 成三郎
・本 名 福士 宇三郎
・生没年 1899年6月4日~1973年12月8日
・出身地 奈良県 桜井市
もろ多 玉枝
・本 名 福士 玉枝
・生没年 1901年1月15日~1960年
・出身地 ??
来 歴
戦前・戦後、「馬漫才」という馬尽くしの漫才を得意とした夫婦漫才師。成三郎が面長で色白の玉枝を揶揄しまくる独自の芸風がウケた。
二人の生年月日は、日本公文書館所蔵の名簿より『わらわし隊』の記録を発見し、そこから割り出した。玉枝は「明治三十四年一月十五日生」、成三郎は「明治三十二年六月四日生」。この名簿は翻刻してみる、
成三郎の経歴は、関係者提供の1966年6月の角座パンフレット『6月のお笑い号』で初めて知った。曰く、奈良県桜井市の出身。実家は農家。材木商へ勤めたが失敗。音頭取りに憧れて、24歳の時に荒川千成に入門したとの由。
以下はその画像。
関係者提供
大正14年頃に、当時の上方漫才の大御所、荒川千成に入門。間もなく兄弟弟子の玉枝とコンビを組んで、「荒川成三郎・玉枝」を結成。
ただ上の「大正10年に吉本入社」は何か勘違いしているのではないだろうか、と考えている。
漫才師としては古く、『上方落語史料集成』を覗くと、1928年4月1日の番組表に、
△花月 (落語)枝之助、(運動)李玉川、(万歳)米二・正月、(万歳)ニチ/\・大正坊、(曲芸)直造、(所作事)岸菊・初菊、(掛合噺)歌蝶・芝鶴、(奇術)操光、(万歳)二三丸・菊丸、(落語)助六、(万歳)玉枝・成三郎、(万歳)勇若・虎勇、(女道楽)花菱家連、(万歳)芳江・鶴春、(曲独楽)源朝。
とある。翌月の紅梅亭の漫才大会にも出演しており、
◇紅梅亭 吉本興行部専属万歳秘技競演会 出演者はセメンダル・小松月、玉枝・成三郎、愛子・光晴、楽春・久春、二蝶・芳春、日佐丸・弥多丸、しの武・次郎、カチユシヤ・ラツパ、芳香・芳丸、今男・アチヤコ、大正坊・捨次、ウグヰス・チヤツプリン。余興笛亀、幸治、李玉川。
もうこの時には吉本興行部の専属だった模様。『落語系図』の『昭和三年三月より昭和四年一月十日迄で 花月派吉本興行部専属萬歳連名』の中に「荒川成三郎・玉枝」とある。
以来、吉本専属の人気漫才師として活躍。度々東京にも来演し、寄席の舞台に立っていた様子が『都新聞』などから伺える。
1934年12月7日、夜8時25分より、師走の寄席中継に出演。東京の牛込神楽坂演芸場から漫才を披露している。この頃にはもう東京での一定の観客・ファンをつかんでいた模様である。
共演は柳家小さんの「饅頭きらひ」、三升家小勝の「かつぎや」、柳家三語楼「九段八景」、神楽坂芸妓連の「神楽坂をどり」。同日の『都新聞』に、漫才の概要が出ているので引用。
漫才 塩原馬の別れ 荒川玉枝 成三郎
塩原多助馬の別れを初めることに話が決り、女の方が顔が長いからと馬の役に廻されるすると馬穴で飲むのか見合は競馬場でするのかと一々馬に縁ある言葉で話かけ、女が怒るとドウ/\/\となだめる、愈々馬の別れの所を始め、ヒーンといゝ聲して嘶くと「なんとうまいね」とほめる
東雲節〽芸妓商売サラリとやめてこがるる主と、添ふて苦労をして見たが、一寸もなれぬ、朝起きて水仕事、素人はつらいねテナ事云ふて又逆もどり
〽憐れなるかや塩原多助、ナンとシヨ、青と別れて江戸に行く多助どん
〽坂はてる/\鈴鹿はくもる
ここで面白いのは、この時点で「漫才」と表記されている事である。大体同時期に出ている香島ラッキー・御園セブンや、東京の漫才公演の広告では「万才」「万歳」となっている中で、これはちょっと見るべきものがある。どうしてこのような言い換えをしたのか、確定事項を述べる事は出来ないが、吉本の戦略が背景にあるのではないだろうか。
上記の概要にあるように、戦前から馬尽くしのネタを得意とした。1934年時点にこれを確立しているのは、一種の脅威である。
1938年11月、第二回わらわし隊のメンバーに選出され、中支に派遣される。他のメンバーは、ミスワカナ・玉松一郎、三遊亭柳枝・文の家久月、東五九童・松葉蝶子、松鶴家光晴・浮世亭夢若、講談の神田伯龍、奇術のアダチ龍光、浪曲の吉田奈良千代。
この顛末は早坂隆『わらわし隊の記録』に詳しい。本当に興味のある人は読んでみてください。
11月14日、大阪朝日新聞本社を訪ね、レストラン「アラスカ」で壮行会。翌日、大阪駅を出発。
11月21日、塘沽に到着。ここまで偶然乗り合わせた水の江滝子一行と慰問会を行っている。以降、中国各地を巡演。
12月2日、慰問団は二班に分けられ、成三郎・玉枝は第二班に入団。同行者は柳枝・久月、夢若・光晴、奈良千代。
12月27日、帰国。この後、わらわし隊などの慰問報告で、ちょっとした時の人となったのは言うまでもない。
戦時中は慰問などで活躍。戦時統制や空襲などに苦しみながらも、戦後は大阪西成・天王寺村に落ち着くこととなった。
戦後いち早く復興した戎橋松竹に出演。その後、吉本興業に復帰し、花月系の寄席に出演するようになる。戦後も馬漫才の形を崩さず、『米朝上岡が語る昭和上方漫才』で、
上 岡 あの動物になぞらえるというのはその辺が始まりですか。たとえば馬漫才やとか。
米 朝 玉枝・成三郎。玉枝さんが死んで、あと牛漫才になったけどなァ。馬漫才というのはとにかく玉枝さんの顔が長いンでね。「来年はあんたのエトやな」「違うがな。私のエトは来年と違うがな」「いや馬やがな」というような、それだけでもうお客は笑うてるわね。なんやかんやいうて話を馬の方へもってゆく。「そうかて(馬に)似てまっしゃろ」というたら、お客がワァーーッと拍手や。「誰や、そんなとこで手ェ叩くのン! あのお客の顔を忘れンように家まで付いていったンねん」「それがホンマの付き馬や」とかいう調子でやな。それで『愛馬進軍歌』をうたう。「また、 馬の歌や」「次は「めんこい小馬」」「ええかげんにせェ!」「ドウドウ、ドウドウ……」(笑)とあやす。
と触れられている。この頃、先輩の花月亭九里丸が姓名判断に凝り始め、「もろ多玉枝・広多成三郎」と改名する。『米朝上岡が語る昭和上方漫才』の中にも、
いとし 荒川系統の名前を最初に変えたんはぼくらのところで、それから馬漫才の玉枝・成三郎さんのところも屋号だけ荒川から変ったンですよ、もろ多玉枝とか。
米 朝 広多成三郎とかね。ゴロ合わせになってる。もろたとひろたでな。あれはひとつには花月亭九里丸さんが姓名学に凝りだした(笑)。
こいし そうでした。
米 朝 それで皆改名させられていった。
然し、改名の割にはパッとせず、時折放送に出る以外は古老コンビとして、淡々と舞台を勤めるのにとどまった。但し、師匠・荒川千成の引退披露興行には列席している。
1960年、玉枝が60歳で死去し、コンビ解消。享年は『笑根系図』に従った。Wikipediaには「1965年没」とあるが、それは違うのではないだろうか。
吉田留三郎の『漫才太平記』に、
悪いことは重なるもので、十月五日ジャグラー都一の死去と同時に夢若の悲報がもたらされた。此の年にはいってすでに中村直之助、もろた玉枝、桂春雨の三人を失っている。一体、何ということであろうか。
とあり、また、『NHK年鑑 1960年度』にも、
35年度は、浮世亭夢若、芦ノ家雁玉、もろ多玉枝さんなど、古き上方漫才を伝えるタレントが相次いで世を去ったが……
と、ある。1960年に亡くなったのは間違いないだろう。
妻を亡くした成三郎は、小唄志津子と再婚し、広田成三郎・シズエと名乗る。
この志津江は恰幅が良く、牛に似ていた事から、「牛漫才」なるネタへと転換した。この後も、吉本系の劇場で淡々と舞台を勤めていた。
1971年4月5日、NHK『新日本紀行』で天王寺村が取り上げられ、成三郎も出演。市場で買い出しをしている様子が、映し出されている。
『上方芸能33号』(1974年1月号)の中に、訃報が出ていた。
☆十二月八日 又も訃報である。漫才では荒川の系統、「馬漫才」で鳴らした広多成三郎が西成区山王町の自宅で逝った。享年七十四才。成三郎は本名を福士宇三郎といい、前の相方玉枝と共に馬を素材の漫才で売り出した。のち、玉枝に死に別れるや小唄志津子と夫婦コンビを組んで以降は「牛漫才」に転向して又人気を拍した明治の芸人であった。今は残り少なくなってゆく”天王寺村”の住人台帳がまたさびしくなった。
未亡人となった志津子は、後年、荒川キヨシと再婚し、荒川シズエと改名した。
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