ミナミサザエ

ミナミサザエ

ミナミサザエ

浮世亭歌楽とのコンビ時代

 人 物

 ミナミ サザエ
 ・本 名 奥村 スミ子
 ・生没年 1920年2月15日~??
 ・出身地 大阪市

 来 歴

 ミナミサザエは戦前戦後活躍した女流漫才師。戦後は浮世亭歌樂の相方として一世を風靡し、朝日放送の専属になったほどであった。凄まじい人気を誇ったが40代で引退した。姉は漫才界の長老で知られた小唄志津子

 若い頃の経歴は『玉造日の出通り三光館』掲載の小唄志津子の経歴を辿っていくと、ある程度浮かびあがってくる。

 ●小唄志津子
 大正二年、大阪・天下茶屋の芸人の子として生まれる。四歳のころ踊りで舞台で立ち、萬歳師・小山慶治師に弟子入りして、浮世亭志津香の名で、実妹の浮世亭寿美香(のちのミナミ・サザエ)さんと女道楽などを演じた。千日前の三友倶楽部で吉本の手見世を受けて専属となる。広多成三郎さん、荒川キヨシさんなどと組み、平成六年、夫のキヨシさんが亡くなったため引退。

 親が芸人だけに乳飲み子時代から高座に立たされ、姉と共に漫才師としてデビュー。相場秋夫『上方演芸人名鑑』には以下のような記載がある。

 ミナミサザエ みなみさざえ 【漫才】
 本名奥村スミ子。一九二〇(大九)~ 
 大阪天下茶屋の生まれ。父の友人の小山慶司の劇団で子役としてデビュー。一〇歳の時、尾道市で姉の小唄志津子と小山寿美江の名で漫才コンビを組む。その後、市川小福、千歳家歳男、若松屋正三郎、浮世亭歌楽、美山なをみと変え、昭四○年の南喜代子とのコンビを最後に引退した。

 師匠は漫才黎明期の看板であった小山慶司

 1930年、姉と「小山志津香・寿美香」として広島尾道の劇場で初高座を踏んだという。姉と共に少女漫才師として高座に出るようになる。

 その後は姉を追う形で吉本に入り、10代で相方を転々とした。

 21歳の時にはじめて浮世亭歌樂とコンビを組む。『上方落語史料集成』の1941年9月上席に――

△南地花月 桂小雀、芳博・芳坊、三好・末子、寿美江・歌楽、アダチ龍光、金原亭馬生、花蝶・川柳、花月亭九里丸、敏夫・蝶々、道風・柳枝、桂三木助、左楽・右楽、芳子・市松、桂春団治、十郎雁玉、菊春・太郎。

 志津子本人も浮世亭夢丸にコンビを誘われ「浮世亭夢丸・志津子」として高座に上るようになる。

 戦時中の動向はどうもはっきりしないのだが、1949年頃、浅田家寿郎と別れた浮世亭歌樂と再びコンビを結成。新生プロに所属して、寄席に出演。

 後に千土地興行と契約を結び、千日劇場を中心に出演するなど、上方漫才の人気コンビとして君臨するようになった。

 1955年、かしまし娘、秋山右楽・左楽、中田ダイマル・ラケット、松鶴家光晴・浮世亭夢若、川上のぼると共に朝日放送の専属第一号となり、テレビやラジオで活躍。千土地興行の大看板として大劇場のトリを任せられるなど、売れに売れた。

 また、浮世亭歌樂が喜劇を得意としていたこともあり、コメディ番組に出ることもあった。

 1956年秋から冬にかけて、ミヤコ蝶々などが一斉離脱をした宝塚新芸座に招かれ、歌樂と共にゲストとして出演。『歌樂の裏町のお父ちゃん』などのコメディに参加して華々しい所を見せている。

 1958年1月、『放送朝日』という雑誌の中で上方漫才の紹介がされているが、その中に人気コンビとして歌楽・サザエが紹介されている。引用してみよう。

歌楽・サザエ
現代の話題をしゃべっても甘ったるい歌楽の大阪弁のお陰で少しも耳障りにならない。技巧的話術の最たるものであろう。それだけにともすればサザエが閉却視されるうらみがある。今一歩新境地を開拓すべきだ。

 長らく一線で活躍を続けていたが、1961年限りで浮世亭歌樂とコンビを解消。

 その後は美山なをみとコンビを組んだ。しかし、歌樂時代のようなツッコミは冴えなくなった。

 1965年に美山なをみと別れ、三遊亭柳枝と生き別れたばかりの女優・南喜代子とコンビを組んだが長続きせずに解散。

 このコンビ解消と共に芸能界を退き、そのまま引退してしまった。当時45歳。まだまだ働き盛りであったが、その後の消息は不明。

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